「平凡」(二葉亭四迷、講談社文芸文庫『平凡・私は懐疑派だ』所収)
こんにちは てらこやです
今年は意識して文学史とやらを辿ったこともあるので、最後は二葉亭四迷に登場していただこう。紹介するのは「平凡」。筆者晩年の作品で、明治40年に新聞連載されました。自伝的作品と言われるのですが、筆者ともども喰えない作品で、のっけから次のように啖呵を切りやがります。
「さて、題だが……題は何としよう?此奴には昔から附倦んだものだッけ……と思案の末、ハタと膝を打って、平凡!平凡に、限る。平凡な者が平凡な筆で平凡な半生を叙するに、平凡という題は動かぬ所だ、と題が極る。/次には書方だが、これは工夫するがものはない。近頃は自然主義とか云って、何でも作者の経験した愚にも附かぬ事を、聊かも技巧を加えず、有の儘に、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るそうだ。好い事が流行る。私も矢張り其で行く。/で、題は「平凡」、書方は牛の涎」
どう考えても喧嘩を売っている。
しかし軽快な文章ですよね。この時代、日清日露戦争は終わり、国の近代化プロジェクトも一段落、はたと止まってじゃあ俺(自己)って何すりゃいいのと悩みはじめる頃です。20年前、すでに俺ってどうすりゃいいのさ小説「浮雲」を書いた二葉亭四迷が再び筆をとったのは偶然ではないでしょう。
少年期に祖母や飼い犬のポチを喪った「私」は、旧制中学卒業後、時流にのって法学・政治学を学ばんと家に無理をかけて上京するも気が入らず、下宿先の娘を思慕したりする。結局それも実らず──ここは結構重要だと思うのですが──性欲の代償として文学にかぶれはじめる。
「で、私は性慾の満足を求めても得られなかったので、煩悶していた(…)若し友人等の堕落が陽性なら、私の堕落は陰性だった。友人等の堕落が露骨で、素直で、男らしいなら、私の堕落は……ああ、何と言おう?人間の言葉で言いようがない。私は畜生だった……/が、こっそり一人で堕落するのは余り没趣味性が満足せぬ。どうも矢張異性の相手が欲しい。が、其相手は一寸得られぬので、止むを得ず当分文学で其不足を補っていた。文学なら人聴も好い。これなら左程銭も入らぬ。私は文学を女の代りにして、文学を以て堕落を潤色していたのだ」
時流に乗り流行作家となったが女性経験浅く、手慣れた女に弄ばれる。それが元で父の死に目に間に合わぬという不幸を起こしてしまったことから心変わりし、結局平凡な役人になる──という話です。
このブログを始めた頃、別に道徳的な意味ではないけれど、安易にセックスに走る小説には飽き飽きだ、という意味のことを書いたのですが、上のように、近代小説の元を辿れば辿るほどそれも止むなしという気も半分します。所詮政治と性欲の代償だもの、と。まあ半分思うだけですけれど。
夏目漱石「吾輩は猫である」(明治38年より39年連載)が典型ですが、当該小説に対する自己言及という、「小説」の自然な流れを乱してやろうというノイズのようなものはこの「平凡」にもあります。
例えば──
「……が、待てよ。何ぼ自然主義だと云って、斯う如何もダラダラと書いていた日には、三十九年の半生を語るに、三十九年掛るかも知れない。も少し省略ろう。/で、唐突ながら、祖母は病死した」
自己言及のお遊戯から祖母の死へ一気に降りるこの落差など、こんな巧いことを明治にされたら現在の作家はさぞ辛かろうという気がします。
また他にも、「愛は総ての存在を一にす」、「凡人は聖人の縮図なり」、「二十世紀の文明は思想を超脱せんとする人間の努力たるべし」などと有難そうな言葉を並べた挙げ句、次のように落とします。
「此様な事ならまだ幾らでも列べられるだろうが、列べたって詰らない。皆啌だ。啌でない事を一つ書いて置こう。/私はポチが殺された当座は、人間の顔が皆犬殺しに見えた。是丈は本当の事だ」
開明時は自由の余地があったというアドバンテージを考慮しても、二葉亭のへへんという鼻っ柱が高く折れずにそびえていて、「平凡」というタイトルの皮肉が今でも利いているのです。
※安易にセックス云々の記事はこちら
平凡・私は懐疑派だ―小説・翻訳・評論集成 (講談社文芸文庫) | |
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