うつと読書 第13回 「スプートニクの恋人」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「スプートニクの恋人」(村上春樹、講談社文庫)

こんにち「は」 てらこやです。

なにが原因ってわけでもないけど、なぜか眠れない夜ってあるじゃないですか。どんな寝相もしっくりとこない。布団の中の熱も湿気もなじまない。なにもかもちぐはぎで、目をつぶっていることさえ苦痛になる。そんな夜です。

そんな時にですね、てらこやはいろいろなことを思い出してしまうんですよ。例えばこれまでにあった恥ずかしい出来事。思わず足をバタつかせて「あがー」と叫びたくなるような、てらこや・春の恥コレクションが開陳されてしまうんです。

今回、そのコレクションに新たなアイテムが加わりました。

間違ってたんですよ。いままで全部。最初のあいさつを「こんにち『わ』」って書いてたんですよ。「こんにち『わ』」。

「ワタクシブログはじめたのよ。読書ブログ。けっこう頭絞って書いてるんザマス」って自慢げに友人に紹介したら、返す刀で指摘されました。「知ってると思うけど、『こんにちは』だから」と。

「あがー」と叫びましたよ。ワザとでもなんでもなくって、素で間違えてたんだから。思わずひとりでカラオケに行って、「いいな いいな にーんげんっていーいーなー」と歌いたくなりました。

ホントすんません。これもゆとり教育の弊害のひとつです(ゆとり世代じゃないけど)。

……閑話休題。

えっと、今回は「スプートニクの恋人」です。作者は村上春樹。長編のすべてが代表作といっていいくらいで、海外でもよく知られる日本人作家のひとりです。最近では、エルサレム賞の受賞と、その際のスピーチが話題になりました。

実はつい最近まで村上春樹の作品をほとんど読んだことがなかったんですね。前に一度短編を読んだ時に、「すぐにセックスをはじめやがる。これだから売れてる作家は」と、文学かぶれの人間が一度はかかる、「売れてる本=認めるもんか」病によって敬遠していたわけです。

しかし、こころがちょいと弱って休んでいた時、ふと「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を買ってきて、読んだんですよ。そっからですね。遅ばせながら、村上春樹ブームが起こりました。だいたい1か月かかって、文庫になっているものはほとんど読みました。

村上春樹の小説は読むのも、評するのも難しいような気がします。なぜでしょうか?

それを解くひとつのカギは、リーダビリティのよさ、あるいはそれがよすぎることでしょうね。村上春樹の文章は難解ではありません。表現は簡潔で、比喩に過不足はありません。ひとつひとつの文章で立ち止まることはほとんどない。あえて言えば、筋を追うだけなら、速読に近いことをすることだって可能です。なのに読了後には、深い満足感がともなう。

しかし、わたしたちの中のどの部分が満足したのだろうかと振り返ると、それを説明することがどうもできない。その点が難しい。

村上春樹ってものすごく腕のよい解剖学者だと思うんですよ。腑分けしたそれぞれのパーツについて、「これはなになに、これはなになに」と明瞭に説明をしてくれる。しかし、そうしたパーツの総体が一体なんであったのか、村上春樹はいったい何を解剖していたのだろうかをうかがうことができない。もしかしたら著者本人でさえ、あまりに巨大な「何ものか」に小さなメスで立ち向かっているだけで、その総体の全貌を知らないかもしれない。

ひとつひとつの文章は明確です。しかし、それらの総体が指示しているものは、わたしたちのすぐ近くにあって、にもかかわらず意識下におかれていないものをどうやら指している。だからわたしたちは村上春樹の文章によって、その「何ものか」の手触りを感じさせられる。それがわたしたちの満足感にどうやらつながっている。でも、「何ものか」の全貌を知ることはないので、読む者は次作を期待するのです。

話は変わりますが、「スプートニクの恋人」を読んでおもしろいなと思ったのは、それ以前の村上作品の主人公の限界が描かれていることです。村上作品の主人公の典型っていうのは、端的に言うと自己充足的な人間です。おおそれた夢や目標なんてもたないけれども、生活の細部にはこだわりがあって、それらを満たすことでこころの平静を得ている。非常に「現代的」でクールな人間です。

そうした主人公がいやおうなく事件に巻き込まれるのが常なのですが、今回の「ぼく」は巻き込まれることすらありません。せいぜい事件にかするくらいです。女性の主人公格「すみれ」や「ミュウ」に起こった事件を「ぼく」は事後的に知るだけで、特に何をするでもなく、事件は自動的に流れ、解決する、あるいは解決しません。

かつては「現代的」であった主人公は、新たな「現代性」を代表する「すみれ」や「ミュウ」と、深いところで交流することができません。このことは、中学教師である「ぼく」の教え子「にんじん」との関わりでも同様です。

スーパーで万引きをした「にんじん」に「ぼく」は語りかけます。「すみれ」に出会うことによって、じぶんはこれまでどれだけ孤独で、それがどれだけさびしいことであったのかを知ったという話です。この話を聞いて「にんじん」は何も言いませんが、黙って、もうひとつ盗んでいたカギを差し出します。「ぼく」はそれを川に投げ込む。

さて、問題は「にんじん」がはたして「ぼく」にこころを開いたのかというこです。

「不思議な子供だー学校で顔をあわせるたびにあらためてそう思った。そう思わないわけにはいかなかった。そのほっそりとした穏やかな顔つきの奥に、いったいどんな思いが潜んでいるのか、ぼくにはうまく推しはかることができなかった。(……)あの日の午後喫茶店で、心に抱いている思いを彼に正直に話したのは、たぶん良いことだったのだろうぼくは思った。彼にとっても、ぼくにとっても。どちらかといえば、むしろぼくにとって。彼はー考えてみれば変な話だけれどーそのときにぼくを理解し、受け入れてくれたのだ。赦してさえくれたのだ。ある程度」

正直に言えば、いい大人が何を言ってるんだと思いますね。自分のことをぺらぺらとしゃべって、勝手に赦されたと自己満足している。「子供」にとってみれば、最もたちの悪い大人です。てらこやが「にんじん」だったら、この主人公だけにはこころを開きません。

新たな現代性(女性、子供)に対して、関わることすらできず空回りするかつての現代性(男性主人公)。村上春樹はある程度自覚的にこれを書いているか、この物語を書きながらこの事態を自覚したのだと思います。このことは、村上春樹のその後の主人公が「子供」(海辺のカフカ)になったことからも傍証できるでしょう。

村上春樹の作品は様々な読み取りが可能です。今回の作品も以下の評論で取り上げられています。作品を読んだ後に、自分の感じたことと照らしてみると楽しいのでぜひやってみてください。

「村上春樹 イエローページ3」(加藤典洋、幻冬舎文庫)

「サブカルチャー文学論」(大塚英志、朝日文庫)

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