第七十三どんとこい 「短篇五芒星」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「短篇五芒星」(舞城王太郎、講談社、「群像」2012年3月号収録)


こんにちは てらこやです


舞城王太郎「短篇五芒星」を読みました。名の通り五つの短編が──いずれも完成度の高い作品ばかりが収められていますが、今回はその内のひとつ、『美しい馬の地』と思想・表現の自由について考えてみたいと思います。


主人公後藤謙一は、衝動的に「流産」のことが気になり出す。


「二七歳の秋に何が起こったとかじゃないんだけど、やたらと流産のことが気になりだす。ふと気付くといつの間にか悶々と流産について考えていて、次第にほとんど取り憑かれてしまったようになり、終いには完全におかしくなっていって、僕は全部をムチャクチャに壊してしまう」


「でもそもそも僕だって自分のこととして流産のことを憤ってたわけじゃないのだ。僕は、流産がこの世に存在するのが許せないと言うか悔しいと言うか、とにかく腹立たしいのであって、僕に何かがあったから怒ってるわけではない」


衝動的に生じた怒りは周囲に理解されない。どう説明しても(説明できないのだが)、流産に関する論文や画像を集めたり、水子供養を行う寺を訪問したりといった行動はおかしいとしか思われず、恋人とは別れることになる。


それでも流産のことが気になり続けたまま、後藤は中学の同窓会でも軋轢を引き起こす。たまたま流産の経験を口にした真野に、その子に名前はなかったのかと尋ね、その子のために祈ってもよいかと迫ってしまうのだ。当然それは拒否される。


「それに僕だってさっきの、《一方的に可哀想がることが人を傷つける》ってのも理解しているのだ、本当に。/『判ったよ』と僕は言う。『真野にそんなことを相談したのが間違ってたんだな。水子のことは僕自身の問題だから、供養もこっそりやっておけば……』/『だからあんたにそんな権利ないんだって!』と真野が叫ぶ。『もう!なんなのこいつ!頭おかしいどころか馬鹿過ぎて話が通じないよ!』


「僕は間違っている。でも流産に対する僕の怒りが僕を依然として苛んでいる。水子供養は、その怒りをうまく悲しみと慈しみに浄化してくれるんじゃないかって気がしてきたのだ。/けどここで吉田の言葉に従ったふりをしてやはりこっそり水子供養をすればいい、というふうにも考えられない。供養なのだ。嘘などをついて始めていいものじゃない。良心にもとることのない、清らかな気持ちで行うべきことのはずなのだ」


総スカンを食らい同窓会を後にする際、後藤は階段から突き落とされる。真野とは関係のない別の同窓生が、後藤の「振る舞いにカッときて、衝動的に暴行に及んだ」のだ。


──以上のような話です。衝動的な暴力にさらされたことで、後藤はある認識にたどり着きますが、それは作品をお読みください。


さて、一般的に考えれば、流産に対する後藤の執着は不気味です。特に当事者からすれば、こうした言動を聞くことやあるいはそんな執着を持たれていることすら不愉快でしょう。


しかし、引用でも示したように、後藤自身もその不気味さや他者の不愉快に気付いていないわけではありません。重要なのは、後藤はそれでも、そうした執着を持たざるを得ないし、表明せざるを得ないという境遇に、それこそ衝動的に立たされてしまっているということです。それは彼の良心に関わる重大事であり、他者を傷つけているか否かなどという一般的な議論によって簡単に処理されるものではありません。


私は、後藤に起こった衝動的な執着が特殊例であるとは思えません。およそ私たちが考えをもち、口に出すという時には、自分自身にとって、決して説明できないが(衝動的だが)クリティカルなものを含んでいるのではないでしょうか?


自由に思想を持ち、表現する場にあるということは、他者の不気味な執着に晒されることを意味します。作品の最後に暴力が起こったように、それは衝動的な執着と執着とが危うく並立している場です。自由を生きるために、私たちは不気味さや不愉快を引き受けなければならないし、どうしようもなく不気味さや不愉快さを与えてしまうかもしれません。


問われれば、思想や表現の自由は大切だと答えるでしょう。しかし、自信をもってキッパリというわけにはとてもいきません。恐る恐る、ためらいながら、危うさに慄きつつ遠慮がちに、か細い声で「まあ大切じゃないですか」としか答えることができません。


これが、私のギリギリ精一杯なのです。


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