「杳子・妻隠」(古井由吉、新潮文庫)
こんにちは てらこやです
「杳子」で描かれているのはあやうさだと思います。
それは例えば、正常と異常の境に立ってどちらに足をつくはめになるか分からないことから生じるような意味でのあやうさとは異なります。それはあやうさそのもの、あるポジションから別のポジションへの移り変わり自体ができない、とうのポジションそのものをもたないことから生じる、終わりのないあやうさではないかと思います。したがってこの作品は、単に病的なものへと傾向する女と男との関係を描いたものではありません。
「彼」は谷底でうずくまる杳子に出会います。これが小説のはじまりです。
結果としてふたりで谷を抜けるのですが、この作品を覆うあやうさ=明確さの忌避によって、その成り行きも「結果として」としてとしかいいようがなく、その過程において、例えば助けるー助けられるといった関係が生じたと端的に割り切ることができません。その後、街に戻ったふたりは逢瀬を重ねますが、読み手にとってそれもまた、ふたりの関係が築かれていくという愛の過程というよりは、足場なく宙に漂うふたりが、相手のわずかな揺らぎによって、自分もまた揺らぐような、どこにも収斂することのないあやうさの反復を行っているように映ります。
話を急ぎましたが、この作品の女と男とが、病気というポジションへ向かいつつあるわけでない、ということは次の引用からもわかります。
(精神の失調から復した姉を評して杳子が言う言葉)
「いいえ、あたしはあの人とは違うわ。あの人は健康なのよ。あの人の一日はそんな繰返しばかりで見事に成り立っているんだわ。廊下の歩きかた、お化粧のしかた、掃除のしかた、ご飯の食べかた……、毎日毎日、死ぬまで一生……、羞かしげもなく、しかつめらしく守って……。それが健康というものなのよ。それが厭で、あたしはここに閉じこもってるのよ」
男はそれに対して、そうした繰返しが人生なのだと返します。
「生きているということが、そういうことなんだから、しかたのないことじゃないか。それとも、君は生きていることを憎んでいるの」
「憎んでいる。お姉さんを見る時は」
このやりとりで注意すべきなのは、あたかも健康な生き方についてのみ語っているように見えるものが、実際には病的な生き方についてもあてはまるということです。したがって、杳子は病的な位置から健康を評しているわけではありません。
作品中において病的とされる強迫神経症的な振る舞い──階段の登りかたに固執すること、食器の並べ方に固執すること、風呂に入らないことに固執すること──これら病的とされる振る舞いは、健康と同じく、あるポジションでの流儀を堅持しているという点では同じだということには注意をしなければなりません。杳子は健康を評すると同時に、病的であることもまた評しているのです。
なので、杳子のいう生きると言うことは、単に健康に生きるというよりは、あるポジションに立って生きることすべてを指しているのだと言えるでしょう。彼女が憎しみを覚えるのは、おそらく自身があやうさの中にしかあり得ないことの裏返しなのでしょう。
繰り返しになりますが、この作品はあるポジションXと、非Xとの対比を描いているわけでも、両者の境界上にある人々を描いているわけでもありません。どのポジションにも在ることのできない、したがって言葉でも記号でも名付けることのできないあやうさの中に漂っているふたりを描いた作品なのです。
作品中、男が何気なくつぶやく言葉を重要です。
「内側と外側ってのは、気味が悪くていけないなあ」
この時男はすでに、意識的にかどうかはともかく、あやうさの中に生きることを、あるいはあやうさの中でしか生きられないことを覚悟しているのです。
杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫) | |
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