第六十五どんとこい 「かわいそうだね?」 | ナメル読書

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「かわいそうだね?」(綿谷りさ、文藝春秋)


こんにちは てらこやです


綿谷りさ「かわいそうだね?」を読みました。この本には表題作に加えて、『亜美ちゃんは美人』のふたつが収められています。


『かわいそうだね?』は、アメリカ育ちの彼氏が、同じくアメリカで暮らした元彼女と部屋をシェアするという話。彼氏はただ友達として助けたいだけと言いますが、当然現彼女である私(樹理恵)は気になって気になって仕方ありません。


常識的に考えれば二股をかけられているわけです。そして、常識通り話は展開します。以前取り上げた作品(「蹴りたい背中」、「勝手にふるえてろ」)では、異性または世間に対してついていくことのできないイタい女性がでてきましたが、今作では彼氏・元彼女も含め全員がイタいことになっています。結果、主人公に向けられた批判の度合いは分散され、矮小な二股話は矮小なままに終わります。イタい女を描く作者の芸は堂に入っていますが、それだけと言えばそれだけの作品です。


「さかきちゃんは美人。でも亜美ちゃんはもっと美人」とはじまる『亜美ちゃんは美人』は、さかきの目を通じて、高校以来の亜美の遍歴をみていく作品。


てらこやは表題作よりもこの作品の方がずっとずっと優れていると思います。


高校で知り合った亜美は別格の美人です。高校で同じクラスになったさかきは、あまりおもしろい気分ではないものの、なつかれるがままに亜美とつき合いを続けます。異なる大学に進んでも、同じ合同サークル(山岳サークル)に所属します。


さかきがサークル内の男性と(たぶんはじめて)つき合いをはじめ、卒業後に結婚を前提に入籍をする一方、亜美は断続的に様々な男性とつきあったあげく、「初めて本当に人を好きになった」とひとりの男性を紹介します。


カタギでない格好のタカくんは態度も横柄で、スピリチュアル寄りのアーティストきどりな、現実味のない話ばかりをします。亜美は両親、友人の反対も意に介さず結婚をするつもりであり、体にタトゥーまでいれる始末です。


これまでの言葉を使えば、イタいのは亜美ですが、この作品では語り手としてイタくない女性=さかきを取り入れることで、イタい人物が相対化されて提示されます。これはどういうことかというと、イタいということが二つの意味で解釈が施されるということです。


ひとつは、なぜ亜美はイタいのか、という理由が客観的に示されます。さかきによる解釈は次のとおりです。


「亜美は誰からも愛されるという究極のさびしさを知ってしまっている。亜美を愛するたくさんの人たちは、少なからず彼女に幻想を見ている。(…)彼女は無意識のうちにその期待にこたえて息苦しくなっていった。あんなに自由そうに見える彼女が、これほどの窮屈さを世界に対して抱えていたとは、自分を囲う見えない檻から抜け出すために、彼女は自分の世界の外側にいる人を選んだ」


その選ばれたタカくんは亜美について次のように言い放します。


「いたくないわけじゃない。別に一緒にいたってかまわない。あいつ、目立つとこもあるから、付き合ってると周りは羨ましがるし。おれはあんまりタイプの顔じゃないけどな、角度によっては、ときどきカエルみたいに見えるし。でも変なことを言うときとか、可愛いかなと思うときもある。まあ、おれの高校生の元カノに嫌がらせの電話したりするのは、勘弁してほしいけどな。束縛しれくるのはうっとうしいけど、一緒に住んでりゃ家事とかして尽くしてくれるし、いても困る存在じゃないな。そんな感じ」


もちろん解釈されたからといってイタいが解消されるわけではありません。そして、その解釈が格別目新しいわけでもありません。


しかし、こうして亜美を解釈するさかきが作中に配置されることで、どうしてイタい人物を解釈できるのか、という問いが解釈されることになります。これは翻って考えると、どうして作者がイタい人物を描けるのかを自己言及するということであり、こう言ってよければ超越論的な解釈が施されるということです。


さかきは亜美の求めに応じて、結婚を祝福することを決断します。しかしとうのさかき自身の解釈を敷衍するなら、亜美から求められるのは、自分自身が亜美を求めていないからに他なりません。それどころか、作中人物のさかきへの言及によるなら、これまでのつき合いは復讐のためですらあります。ここで言う復讐というのは積極的に手をくだすということではなく、ただ墜ちていくのを放置することを指します。


「別格」の亜美を憧れではなく、醒めた視線で解釈することができるのは、さかきがイタくない人物、個人主義的で自由主義的な、徹底した近代人だからです。だから自身の恵まれた資源を活用できないどころか、それ故に墜ちていく亜美を、自由への尊重ゆえに放置できるのです。


結婚式でさかきは次のような言葉を贈ります。


「見わたすかぎり、亜美の人生だよ。窮屈にならずに、自由におおらかに、亜美の人生を生きて下さい」


この立場を徹底できるからこそ、イタい人物を描くことができるわけです。


しかし、ここで疑問。なぜさかきは亜美とつきあい、作者はイタい人物をわざわざとりあげ続けるのでしょうか?



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