うつと読書 第22回 「蹴りたい背中」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「蹴りたい背中」(綿矢りさ、河出文庫)

こんにちは てらこやです。

たしか大江健三郎を取り上げた時のことですが、てらこやは次のように言いました。「読まず嫌いはやめた方がいいですよ」、と。この言葉をそっくりそのまま自分自身に返したい気分です。

8年経過してようやく読みました。「蹴りたい背中」。結論から言うと、とてもよかったです。今年読んだ本の中でもっとも共感した本でした。

ではなぜ今まで読まなかったのか?仕方ないですよね。似非文学青年は、売れてる本=読むもんかという病に罹っていて、さらに作者は同年輩。思わず「くっ」と口中でつぶやいてしまうような、嫉妬の気持ちがあったことは否めません。

しかしてらこやも齢30近く。自分自身でもうけたこころの縛りを解いてもいい頃です。そうでないと、これから進んで行く道がどんどん狭まっていって、しまいには鋭角の三角形に頭が挟まって動けなくなりそう。そんな予感が最近ずっとしていました。

そろそろてらこやは狭まりかけた道の両側にある塀を、意地でもぶち破らないといけない。そうしないと自分はこのまま、偏狭で陳腐なオトナになってしまう。そんな気がしたわけです。

それで手に取ったのが「蹴りたい背中」。何度も繰り返しますが、傑作です。少なくともアラサーである私にはとてもピンとくる。それは永遠の青二才である島田雅彦よりも、松浦理英子よりも、あるいは笠野頼子よりも、てらこやの世代にとってはとても共感できる話でした。

学校とは学生を管理し、社会化する機関です。しかし、学校以上に管理をしたがり、均質化したがり、社会化したがるのは実は当の学生たちです。これは私たちにとって意外でもなんでもなくって、ほぼ常識に属することですよね。学生である彼らは、お互いのこころを侵犯しあわないギリギリの距離感を保って、その場の空気であるとか流れといったものを敏感に察知し、それを表情や身体表現に表します。それによって自己を抑制して、群れで行動することを学んでいきます。

主人公「ハツ」はそうした学生たちによる、自主的な社会化に違和感を感じています。中学生のころから友達同士の人工的な関係性になじめなかった彼女は、いわゆる高校デビューも叶わず、クラスの「余りもの」となってしまいます。

ここで注意したいのは、そんな彼女を、クラスメートが無視やいじめの対象にするといった、ありきたりなシチュエーションにはなっていないことです。むしろハツの中学時代からの唯一といっていい親友の絹代は、自分の属するグループにハツを引き入れようとさえします。でも、そうして差しのべられた手をハツは受け入れることができません。むしろ、自分を抑制する関係に嬉々として属する絹代に嫌悪感すら抱きます。

「絹代は本当はおもしろい時にだけ笑える子なのに、グループの中に入ってしまうと、いつもこの笑い方をする。あれを高校になってもやろうとする絹代がわからない」

そんなハツの他に、クラスには余りものがもう一人います。「にな川」という男子生徒です。彼は「オリチャン」という女性誌のモデルに入れ込んでいて、授業中にとうの女性誌を隠し読んだり、自室にネットで集めた雑誌のバックナンバー、グッツを整然と並べていたり、あるいはオリチャンの顔写真に少女の裸を張り合わせた「作品」を作っていたりしています。世の多勢から見れば相当気持ち悪い、あるいはイタい少年です。

ふとしたきっかけで、にな川と交流することになったハツは、3度、彼を痛めつけたいという衝動にかられます。これが本作品でもっとも重要な場面です。

一つ目は、自室を訪れたハツを放っておいて、オリチャンのラジオに聴き入るにな川に対する衝動。

「ぞくっときた。プールな気分は収まるどころか、触るだけで痛い赤いにきびのように、微熱を持って膨らむ。またオリチャンの声の世界に戻る背中を真上から見下ろしていると、息が熱くなってきた。/この、もの哀しく丸まった、無防備な背中を蹴りたい。痛がるにな川を見たい。いきなり咲いたまっさらな欲望は、閃光のようで、一瞬目が眩んだ。/瞬間、足の裏に、背骨の確かな感触があった」

二つ目は、病気で学校を休んだにな川を見舞ったハツが感じる衝動。

「『うそ、やった。さわりたいなめたい、』ひとりでに身体が動き、半開きの彼の唇のかさついている所を、てろっと舐めた。血の味がする」

どちらの衝動にも──特に二つ目の衝動には性的な香りがしますが──てらこやはこれを性的なそれとはとらえたくありません。

ハツも、にな川もいってみれば幼い存在です。自分を抑制する、学生自身による社会化への反抗といえば格好よく聞こえますが、ではハツがそれによって一体何を守っているのか、そもそもそんなものがあるのか疑問ですし、にな川に至っては疑似的な恋愛に耽溺しているだけです。なにか是が非でも守らなければならない自分というものがあるわけではなく、ハツはただ生理的に関係性を嫌悪するだけで、にな川に至っては余りものという自覚にも乏しい始末です。

さきにあげた二つの衝動は、そんな幼いふたりによる、非常に原始的な、いってみれば一匹の子犬が、とりあえず近くにいた別の子犬にちょっかいを出す、そんな感じのものだと思います。ハツは自分よりもイタい奴もかかわらず、それによる非社会性を意識することのないにな川に対して不機嫌になり、ムカついたわけです。

じゃあ、ハツも、にな川も社会化しないから悪いのか、それとも以前の文学では盛んであった守るべき自己がないからいけないのか?そんなことはありません。むしろそんなものはないけれども、なんか生理的にある種の関係性を受け入れることができない、かといってその関係性から完全に盲目状態にある奴のことも気に食わない。そんなハツの感覚はとてもリアルです。別に主張すべき主体なんてないけれど、イヤなものはイヤだし、それによって消耗するのもイヤ。この理屈のない嫌悪感は、ハツの幼さであるとともに自己中心性でもあります。

三度目の衝動にそれは明確に現れます。

ついに生のオリチャンとの邂逅を果たすも、完全な空転に終わったにな川。彼は次のようにつぶやきます。

「オリチャンに近づいていったあの時に、おれ、あの人を今までで一番遠くに感じた。彼女のかけらを拾い集めて、ケースの中にためこんでた時より、ずっと。」

この時、ハツは再びにな川を蹴りたいという衝動に襲われます。

とても幼くて自己中心的ですね。自分の目の前で、自分よりもイタい奴だったにな川が、疑似恋愛の儚さに気づいている。彼は自分の目の前で変わろうとしつつある。ハツはそれが嫌で、ムカついた。だから蹴った。

このように書くとハツをとても否定しているように思われるかもしれませんが、てらこやは、にもかかわらず、このハツに深く共感しました。そう、窮屈な満員電車になんて誰だって乗りたくない。でも、それは徐々にスピードをあげて自分から遠ざかってしまう。しかも、自分と同じくホームにいた連中も、次々と飛び乗っていく。乗りたくない。でも自分だけとりのこされるのはなんかイヤ。葛藤はつのる。ハツの衝動の先には、とうの列車の横転への期待すらあります。できることなら自分が機嫌よく過ごせるよう、すべてをリセットしたい。この衝動は、そう、誰にだってあるものです。

でも、今「誰にだって」と書いたんですけど、もしかしたら今現在10代のひとにとっては、なんかピンとこない可能性もあるわけですよね。10代のひとがこれを読んでどう思うのか。興味深いところです。望みを言えば、「なんかピンとこない」ぐらいのことは言ってほしいですね。そしてできればそのズレを文章にしてほしい。そう思います。

今回の結論──やっぱり話題になった本はとりあえず読んでおけ、といったところでしょうか。嫉妬心抜きで「KAGEROU」を読んどこうかしら?

蹴りたい背中 (河出文庫)
蹴りたい背中 (河出文庫) 綿矢 りさ

河出書房新社 2007-04-05
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