デロイを探せ!(その51)ソ連向けデロイの輸出許可申請書(その2) | ゴンブロ!(ゴンの徒然日記)

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ソ連向けデロイ出荷に関するGHQ向け輸出許可申請書の件の続きです。またまた日が空いてしまいましたが、前回ゴンブロ(デロイを探せ!その50)の続きです。

まずは発掘資料の続きです。輸出許可申請書、工程、仕掛進捗状況の他に何の資料が付いていたかという点です。

 

【車輛図面】(以前御紹介済)

以前から御紹介している、1948229日付けの東芝車輛図面の添付がありました。

現物はまず間違いなく青焼き図面でしょう。

なお、LC33100様から以前ご指摘がありました通り、このデロイは空気溜の位置が日立デロニ同様車輛側面に露出しているという「デロイ改」というべき構造です。

 

【写真】

黒く潰れていますが東芝のデロイ1の公式写真が添付されていました
(元々の写真はこの写真)

 

【進展実業の補足資料】(以前御紹介済)

ソ連ほか共産圏向けの特殊商社によるソ連向け改造要項です。

 

さて資料が揃った時点で、独断と偏見に満ちた考察です。

 

この資料にまつわる謎は大きく分けて3つあると思われます。

➢引合の経緯

➢引合倒れの理由

➢仕掛器材のその後

 

1.    引合の経緯
東芝からの回答の異様なまでの現実性・具体性から鑑みるに、GHQ側から何等かの公式照会が必ず最初あった筈ですが、国会図書館を捜索するも見つけられず。
GHQ側の狡猾なやり方で、指示は口頭で出させて実作業をさせていた、ということも考えられますが・・・)
以前触れた通り、1949年時点で、満鉄標準型というべき85トン凸型電機について、ソ連規格向けに一部手直しした3両が日立から実出荷に至っていますが、この3両はソ連向けではイレギュラーな直流1500ボルト車輛であり、鉱山用もしくはごく限定された線区で使われたものと思います。
当時のソ連の電化形式は直流3000ボルトであり、今回ソ連向けデロイの諸元を見ましても直流3000ボルト規格となっておりますので、やはりソ連の電化本線用に要求があったのは間違いなさそうです。やはりシベリア鉄道(?)の電化区間で使用する意図があったのか?

2.    引合倒れの理由
「冷戦の激化による交渉打ち切り」を理由にするのは簡単ですが、当時一概にソ連と決定的な断交にはなっておらず、理由としては少し弱い気もします。
1948-1949
年当時、メーカ各社では戦後初の大型出荷案件(サハリン向け車輛輸出)の製作が順調に進んでおり、ソ連検査官が来訪しての立会等も整斉と進み、出荷が続いていました。日立の85トン電機の出荷も1949年のことです。
要するに、国際的には、中国国共内戦の激化、ベルリン封鎖等、東西冷戦は進んでいますが、日ソ間の鉄道車輛輸出契約の一方的な契約破棄という状況にまでは至っておりません。
今から考えると想像が付きませんが、戦後外交史を調べますと、占領下の日本国について、再独立後東西どちらのブロックにも属さない中立地帯にするという構想もあった模様です。このあたりが関係しているのでしょうか。。。

こちらは、実際に禁輸となった事例・・・


米国製の電機”Little Joe”【出典:Wikipedia

GE
20両受注した2-D-D-2という当時最強クラスの電機で、こちらは米国までソ連検査官が来訪し立会までした段階で禁輸処置が取られ輸出頓挫。早手回しでソ連ゲージで製作された16両は改軌、残りの4両は最初から標準軌対応で製作後、米国国内向け(ミルウォーキー鉄道ほか)、ブラジル向けに転用されたようです。

なお愛称のLittle Joe(チビのジョー)とは米国特有の諧謔でこの方の機関車という意味だそうです・・・


Joe
ことヨセフ=スターリン

3. 仕掛器材のその後

そして最大の謎です。
正史に残っている東芝デロイの竣工は、19479月のデロイ9(仕向地「南朝鮮」)が最後ですが、今回の輸出許可申請書を見ますとデロイ9の竣工(≒出荷)がすでに完了していた19482月の段階で東芝には工事進捗75%程度のデロイが3両ほどあったということになります。

前回御紹介の通り、東芝の工事進捗グラフを見ても、仕掛3両の内の2両については車体も既に完成していた段階にあると記録が残っています。
この3両は、完成の暁には、仮称デロイ10, デロイ11, デロイ12とでも命名されるべき車輛群で、恐らくは戦前の鮮鉄局とのオリジナル契約(戦前の京元線用と京慶線用の合計16両の発注!)の仕掛分と思われます。

この工事進捗75%の状態が、いつの時点から(1945年から?それとも戦後のどこかの時点から?)続いていたのか不明なのですが、戦後別契約に従って南朝鮮の中央線((旧京慶線)電化工事区間向けにデロイ6両(東芝デロイ3両、三菱デロイ3両)が出荷された後も、工事仕掛状態で3両が残っていたのがまずミステリーです。

ここからは妄想に満ちた推測なのですが、当時の南朝鮮の電化工事は、実は元々の戦前の計画が半分程度に縮小された形で進んでいたことから考え、二期工事を期待し、追加発注があることを予想して、わざと仕掛状態のまま残していたとか考えられそうです

1946京慶電化区間

戦後の電化工事再開区間
(上記の太線部分の北半分の堤川/丹陽間)

更に推理しますと、当該二期工事に期待したとはいえ、実際の所、経済的・政治的混乱が続き、工事実現性がイマイチ期待出来ない南朝鮮にヤキモキした1948年頃に、より受注確度が高そうなソ連からの引合があったので、渡りに船とばかりに、真剣に見積対応したというのが実態なのではないでしょうか?

そうなりますと、仕掛デロイ3両の末路も、以下のような経緯をたどったような気がします。
1948年春?見積提出するも、ソ連からの引合が何等かの理由で実現に至らず
・(1948年のこの段階では)ソ連向け出荷は頓挫するも、スクラップ化されず、なおも南朝鮮の中央線(旧京慶線)向け電化二期工事を期待して仕掛状態継続。
19506月に韓半島で動乱発生。
1950年夏、北側の侵攻、国連軍の反撃により、電化工事がかなり進んでいた堤川付近も激戦地となり、電化設備も破壊され、電化工事自体が自然消滅
・標準軌直流3000ボルトという独自仕様が災いして、販路はもはや得られず
・ついに、1950年頃スクラップ。おりしも韓半島動乱で、鉄材価格が高騰しており、スクラップ化する決断の後押しとなった。

以上想像でしかありません。
(実際のところ、史書には3両の末路はもちろん、製作の事実すら、記録が残っていません。)

 

次回は、今回とも関連して、幻の南朝鮮電化工事に関して発見した資料を御紹介します。
それではまた!