たそがれを少し過ぎてもわが入りし あわらの湯場の雪とともしび
―与謝野晶子
由美ママは土曜日から家族で、“越前かに”を求めて、歴史と伝統に育まれた福井県屈指の名湯
「あわら温泉」へと癒しの旅に出かけておりました。
あわら温泉『まつや千千』“三国港”の黄色タグが付いた“越前かに”
掲歌には、昭和6年1月、与謝野晶子が夫・鉄幹とともに宿泊した際に詠った歌を掲げましたが、
歌人与謝野晶子が愛した名湯は、今も変わることなく人々を魅了しつづけていました・・・
さて、この百有余年の歴史を誇る「あわら温泉」とは、
古くより多くの文人や著名人に愛されてきた“関西の奥座敷”ですが、
美しい庭園を誇る数奇屋造りの名宿や独創的な近代旅館が、独特の風雅を醸し出し、
さらには湯落としから湧き出る湯けむりや、石畳を歩くと風にそよぐ柳並木に、
温泉街のしっとりとした風情を堪能でき、身も心も開放されます・・・
そんな名温泉郷で、今回由美ママ一家が宿泊した宿は・・・
「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」に10年連続入選中の宿『まつや千千』
で、この宿の“源泉露天風呂付客室”「時忘れ離座」に宿泊しました。
JR芦原温泉駅
『まつや千千』の特別フロア「時忘れ離座」ロビー
『まつや千千』食事サロン千代見草
ここで、北陸・福井県の北部に位置する「あわら温泉」http://www.awara-onsen.org/html/index2.html
の歴史を紹介しますと・・・
芦原温泉は、当時の名を「十楽温泉」と言い、その昔、この中心部の温泉地帯は低湿な沼地でした。
明治16年にその沼地を、町内堀江十楽のひとりの農民が灌漑用の水を求め、
水田に井戸を掘ったところ、
約80度の温泉が湧出したのが始まりとされ、翌明治17年には何軒かの温泉宿が開業し
湯治客を泊めるようになりました。
その後、明治45年に旧国鉄三国線が開通して以降、温泉街として発展していき、
福井大震災(昭和23年)、芦原大火(昭和31年)など度重なる震災を乗り越えて
今日に至る・・・名温泉郷です。
また、歴史上では、芭蕉が「おくのほそ道」の旅、加賀路で立ち寄った
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
西行ゆかりの吉崎御坊の地(福井県あわら市浜坂)の「汐越の松」も在り、
芭蕉はこの「汐越の松」を絶賛し、以下のごとく思いを残しております。
―加賀の地より
けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを若き僧ども紙硯をかゝえ、
階のもとまで追来る。
折節庭中の柳散れば、庭掃て出るや寺に散柳とりあへぬさまして草鞋ながら書捨つ。
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
「終宵嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越の松」 西行
此一首にて数景尽たり もし一辧を加るものは、無用の指を立つるがごとし。
「汐越の松」句碑
ただ、西行ゆかりのこの「汐越の松」は、現在、「芦原CG』http://www.awara-golf.co.jp/
コース内に位置し、朽ち果てた“松の残骸”だけが残るのみで、
ゴルフ場への事前予約が必要とのことですから
ご覧になりたい方はプレーをされるか、クラブハウスを訪れて見学の許可をもらい、、
そして日本海の冬の荒れた潮騒を聞きながら、古の歌人たちに想いを馳せてみるのも
素敵なことでしょうね・・・
『まつや千千』玄関
山中の温泉に行くほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ・・・おくのほそ道より
あいにくの雨と体調不良(・・・いつもパワフルな由美ママにとって珍しいことですが・・・やや辛かった・・・)で、目的の芭蕉ゆかりの“加賀路巡り”へは行けませんでしたが、車窓遠くに白山の雪が、美しく光っているのを見ながら、かの芭蕉に想いを馳せ「あわら温泉」を後にした由美ママ一家の旅でした・・・