葛藤 | ぎっちょ31  

ぎっちょ31  

蒼き時代より共に生きる

「モノヅクリ」の職人ってのはいろんな世界に居ますが

「オーダーメイド」でモノヅクリをする職人には

多かれ少なかれ葛藤があるかと思います

 

オーダーしたお客さんの希望に合わせて製作しなければいけない・・・ということが「モノヅクリ」の中でもちょっと性質が異なります

 

お客さんのセンスがダメで、職人のセンスがイイ・・・と言ってるんじゃなく

職人が「作りたいもの」「自信を持って世に出せる作り&デザイン」と、お客さんがオーダーしてカタチにして世に出て行ったものは必ずしも一致しないという「葛藤」です

 

「絵画」や「彫刻」、はたまた「刀剣」などの職人は

依頼を受けて作ることもあるが、大概は自分のセンスと技術で作り上げた「作品」を世に送り出す

 

 

それが世のセンスに合わず受け入れられなかったら買われなかったり、職人は貧乏職人になるだけである

たとえモノが一流を作ったとしても、世に評価されなければ、その作品は死んでいく

時にはその作者が存命中には一切評価されず死んだあと、または死んで何十年や何百年経ってから評価されたりすることもある

 

雪松図は、雪は描かずに表現してると聞いている

雪以外の部分を書いて、筆を入れてない白の部分を描き残して葉や枝や幹に積もった雪を表現している

円山応挙作、国宝「雪松図屏風」

 

「絵画」も「彫刻」も「刀剣」も職人の手を離れて巷に出て行く前に「作品」には作者名が入れられる

 

こういった世界の職人とウチの仕事を並べて記事にするのはおこがましいが

ウチが作ってる竿にしても「影竿」というロゴを入れて

「ウチが作りました」という、いわば「作者名」を表記する

時には、お客さんの希望で私の名前まで「作」として入れて欲しいというありがたいオーダーもあります

誰が自分の愛竿に他人の名前(まあ作という名ではありますが)を入れたがりますか、いつも「ありがたいことだな」と思ってます

 

話は戻って

「オーダーメイド」という「モノ」には作者の意向ではなくオーダーしたお客さんの意向が反映されています

 

このあたりに「葛藤」が生まれます

 

「影竿の名が入った」、「影竿の看板」しょった作品なので、巷に出て行った後の第三者からの目は、その作品自体が「影竿の作」、「影竿のセンス」であり、そのモノが評価の対象となります

「製作者はこう作りたい」などは、世に出た後の第三者からの目には反映されません

 

 

言い換えるなら

「お客さんからのオーダーで作る」という「オーダーメイド」は

製作者側としては、100本作れば100本がすべて「渾身の自信作」とはならない

ということです

製作者の心の奥には必ずどっかに「〇〇のほうがイイと思う」とか「製作者としては〇〇したい」という心が生まれます

(まあ、あまりにマズいオーダーの場合は製作者(プロとしての)意見で変更したりアドバイスしたり、釣師としても先輩として「使い勝手良くないよ」というような意見をアドバイスすることもありますが)

 

製作者としてはそんな「葛藤を消去」して「ただ単に製作ロボット的に組む」ほうが「100のオーダーを、100通りに完成させるオーダーメイド商売」では、気持ち的にはラクなんだろうけど、製作者は「ロボット」ではなく「人」なので、そこにはど~しても「職人の葛藤」というものが生まれてしまいます・・・このあたりがなかなか難しい

 

時々、「オーダーメイド」はやめようかな・・・と思ったりもします

 

他人のオーダーでモノヅクリするって、難しいね(笑)