道道66号線のうち、特にニセコ町から岩内町までの区間は、通称「ニセコパノラマライン」と呼ばれています。

晴天であれば羊蹄山や他のニセコの山々、そして日本海なども眺望できるそうですが、生憎の天候です。ただし、雨は上がっていました。

共和町への境界を越えると、やがて右側に「神仙沼レストハウス」が見えてきました。道の左手には、神秘的な美しさを持つ「神仙沼」へと続く遊歩道の入口があります。

そこで駐車場に車を停めて、取りあえず遊歩道を進んでみたのですが、途中で往復1時間近くかかる事が判明。この後の行程を考えると、無念の撤収をせざるを得ませんでした。

 

さて、日本海に面する岩内町に出ると、国道229号線を積丹半島の海岸線に沿って北上します。目的地「神威岬」の駐車場には13:00頃到着。

 

 

早速、岬に向かってみましょう。

 

 

 

駐車場及び、これまで車で走って来た岩内側を望みます。

 

 

「女人禁制の門」です。

女人禁制・・・だったんですね、昔は。

右側の立て看板に何か歴史的由来のようなものが書いてあるのかと思いましたが、それらしき事の記載はありませんでした。要はただの「昔は女人禁制でした。今は大丈夫ですよ」という記述。

後で調べてみると。

この地には「神威岩伝説」という、悲恋の伝説があるのだそうです。

 

その昔、奥州平泉で自害した源義経は実は生きており、蝦夷地の平取へと逃げ延びていました。アイヌの首長に匿われた義経は、そこで首長の娘・チャレンカと恋に落ちます。

しかし義経追討の手を緩めない源頼朝の追手から逃れるため、やがて義経は黙ってチャレンカの前から立ち去り、大陸を目指す旅に出ます。義経が去った事に気付いたチャレンカは必死で義経一行を追いかけるものの、辿り着いた積丹半島・神威岬の遥か沖合に、そこから出発した義経らの船を見出す事が出来ただけでした。

悲嘆に暮れたチャレンカは悲しみの余り、岬の先端から身を投げ、「婦女を載せた船がここを過ぐれば覆没せん」と叫びました。すると彼女の体は石となり、神威岩になったと伝えられています。

チャレンカの義経に対する激しい愛情は、神威岩となった後に強い嫉妬の情念となり、彼女が今際の際に叫んだ通り、神威岬を女性を乗せた船が通りかかると海が荒れ狂い船を沈没させるという伝説が広まっていきました。

それ故に、この岬一帯は女人禁制の地となった、との事です。

まあ、これはあくまでも伝説。

 

実際、神威岬は1855(安政2)年まで女人禁制でした。この始まりは1691(元禄4)年に松前藩が出した「神威岬以北への女人通行禁止令」のようです。

その後、幕末期に江戸幕府が蝦夷地を直轄地として管理するようになり、1855年に女人禁制が解かれる訳です。この時、箱館奉行所の梨本弥五郎は宗谷へ赴任する途中、怖がる妻らを乗せて神威岬沖を通過。

「私は征夷大将軍の命を受けて岬を通るのだ。なぜ神罰を受けねばならぬのか。世の迷いよ覚めよ」と叫んで、銃弾を放ったそうです。この一発の銃声を機に、長年続いていた迷信は終わりを告げ、女性の岬越えも行われるようになっていきました。

それまでは本気で「海に棲む女の魔神」伝説が広く信じられていたのがよく分かります。

 

実は女人禁制の本当の理由は、当時の松前藩による「和人の定住を防ぐ」という狙いがあった為で、そこにはニシン漁などの権益を守る目的があったらしいのです。

松前藩にとっては、その思惑が都合よく上記の伝説とドッキングしてくれたのですね。まあ、利用した、とも言えます。

 

 

 

海岸沿いがブルーですね。「積丹ブルー」ってやつです。

晴天だったならば、どれだけ鮮やかだったでしょう。

 

 

積丹の海が何故青いのか?

理由の一つに、ウニが海底の海草の若い芽を食べてしまう事が挙げられるそうです。その結果として海底には緑色をした海草が少なく、白っぽい岩だけがゴロゴロしているという状態になり、積丹の海をより青く鮮やかにしているらしいんですね(「日本気象協会 tenki.jp」より要約)。

積丹と言えば=ウニだけれど、”ブルー”の方にもウニが一役買っていたとは!

 

 

古平・余市方面です。

右側の崖下に洞窟みたいのが二つ見えます。

 

 

実は右側の方は手掘りのトンネルで、「念仏トンネル」と言います。

下記にその由来を、近くにあった説明書きから。

 

『「大正一年(一九一二)十月二十九日午前八時半ごろ、神威岬灯台の草薙灯台長夫人、及び土谷補員夫人とその二男(三歳)が天長節(天皇誕生日)のお祝いの品物などを買い出しに余別市街へ行く途中、ワクシリ岬付近で荒波に足をさらわれ海中に落ちて溺死した。

ワクシリ岬は上は断崖絶壁、下は波打ち際の険しい地形で、なぎや干潮の時はわたることができるが、そうでないときは容易に越えることのできない難所である。

土地の人々はこのような海難事故が再び繰り返されないようにするため、大正三年にトンネルを造る計画をたて着工した。

開削作業は岬の西側と東側の両方から同時に始められたが、測量計画の誤算か開削技術が未熟なためか、トンネルの中央で食い違いが生じ工事が頓挫してしまった。ところが村人たちが犠牲者の供養をふくめ、双方から念仏を唱え鐘を打ち鳴らしたところ、その音で掘り進む方向がわかり工事を再開することができたのである。

このようにして大正七年十一月八日に開通となり、以来「念仏トンネル」の名がある。

また、この全長六十メートルのトンネルは割合低く中が真っ暗闇なため、「念仏を唱えながら通ると安全である」と言い伝えられている。』

 

本当に昔の先人の苦労が偲ばれます。

 

 

岬の先端方向を望みます。

この遊歩道は「チャレンカの道」と名付けられており、「女人禁制の門」から岬先端部まで約770mあります。

遠くに見える灯台が先端付近の目印。まだまだだなぁ。

 

 

 

やっと灯台に辿り着きました。「神威岬灯台」です。

この灯台は北海道庁が1888(明治21)年から6年間に渡って建設した20基の灯台のうちの一つで、1888年8月25日に初点灯しました。北海道に現存する灯台の中では5番目に古いものです。現在の灯台は1960(昭和35)年に改築された2代目。

 

 

岬の尖端です。

約400mほど先に見えるチャレンカの化身・神威岩は高さ41mほどあります。

 

 

岩内方面です。

 

 

いつまでもこの絶景を、という思いもありますが、そんなに時間はありません。

さあ、戻りますか。

 

 

起伏があるので、帰り道はよりしんどく感じられます。

 

 

「女人禁制の門」の場所まで戻って来ました。

すると駐車場に向かって左手(余市側)に、小高い丘へと続く遊歩道が延びていました。

行ってみると、何やら軍事史跡のようなものが。

以下に解説板の記述をそのまま転記します。

 

『電磁台(電波探知塔)』

「明治三十七年五月六日、神威岬の無電所が神威岬沖合にウラジオ艦隊が出没していることを受電し、それが原因で大騒ぎになったことがある。

翌年の明治三十八年五月六日にも神威岬沖合にロシアの軍艦が出没したことで騒ぎが起こり、住民の安全を守るという意味で灯台を一時消灯したことがあった。

昭和十五年、ロシア軍が北海道に上陸する情報をキャッチするため無線塔一基、レーダー三基を神威岬に設置する計画を立て、二年後の昭和十七年に完成した。

その名残がこの電磁台である。」

 

日露戦争当時の緊迫感が伝わって来ます。

 

 

電磁台のある場所から、再び岬方向を。

ゴジラの背中みたい・・・

 

往復約1時間の行程でした。それにしても、少しだけ疲れました。

 

 

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