現実逃避と一時立入り

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随分ご無沙汰です。
かなりブログを放置しておりました。

言い訳は色々

現実逃避の日々
何も考えなくて良いように忙しくしてました。

日々刻々と事情や事態が変化し
耳に入るのは悪い情報ばかり・・・

なんだか
色々考えるのにも疲れてしまい

最近は原発関連の報道を観るのも聞くのもおっくうになり
twitterやネット等の情報も遠ざけていました。





さて、
一時帰宅に申し込むも一向に連絡はない
いつになったら行けるのだろうと待ちこがれていたのですが

最近の報道では
防護服を着ないでもOK
なんだかどんどん緩くなっていく態勢に
それなら企業の一時立入りの時と一緒だから連れて行っても良い
・・・と、いう家族の許しが出まして
実家の一時立入りに同行させてもらうことになりました。


3月12日に避難して依頼
3ヶ月、4ヶ月近く振りの我が家、マイルームへ、小高へ


「警戒区域」と呼ばれる良く知る土地へ


動画、写真、撮ってきたので
中身を確認して後日載せれるものは載せたいと思います。


とりあえず今日は「言ってきたよー」
と、いう報告まで。

近日中に(忘れないうちに)またご報告します。
とりあえず、今日は疲れちゃったのでおやすみなさい。

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帰宅したい理由はなんですか?

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下記、友人のblogより抜粋
読んで怒りを通り越して呆れ、悲しみが・・・

そこに心はあるんですか?



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福島県に、警戒区域に一時帰宅するためのコールセンターが開設された。


今日、伯父宅に、伯父と母の従弟夫妻が遊びにきた。
双葉町(原発から約3.5キロ)の人たちで、現在、福島市内に避難している。
60代前半の夫婦。
時々来て、おしゃべりに花を咲かせていく。

夫妻は、地震の当日に避難指示が出て家を離れて以来、
一度も自宅に戻っていない。
まさしく、着の身着のままに避難してきた。
自宅は、屋根瓦のぐしが落ちたままになっていて、
ブルーシートもかけられず、
放射線と雨漏りが心配だという。
玄関も歪んでしまっていて、やっとの思いで鍵をかけてきたそうだ。
着替えも位牌も何もかも置いてきてしまっている。

今回、コールセンターが開設されたので、
昨日、奥さんが電話をかけたそうだ。
これが、何度かけても話中でまったくつながらない。
朝からずーっとかけ続けて、
何時間もかかってようやくつながった。
オペレーターは、どうやら、地元の人ではないらしかった。
「双葉町です」と言ってもピンと来ないようだったという。

その電話の中で、住所や名前を聞かれたあと、

「帰宅したい理由はなんですか?」

と聞かれたそうだ。
奥さんはびっくりして、怒りがこみ上げて、
でも言葉にならずに、電話口で涙がこぼれたそうだ。

そういうマニュアルになってるんだろうか。
だとしたら、誰だそんなマニュアル作った奴。


何の目的のコールセンターなのよ。
誰のための一時帰宅なのよ。
みんな、どんな思いで電話をかけていると思っているのか。
どんな思いで、つながらない番号を何度も何度もリダイヤルし続けていると思っているのか。
やっとつながったら
「帰宅したい理由はなんですか?」
って・・・・・

川内村の人たちは、帰る前に誓約書を書かされたという。


起こってしまった事故は仕方が無い(いや全然仕方なくなんかないけど)
せめて、一日も早く収束して、元の町に戻れることを願っている。
私たちには、物理的には、待っていることしか出来ない。

せめてもう少し、
被災者の心情に寄り添う対応ができないものなのだろうか。
メディアでだって、散々、心のケアが大事だって言っているではないか。
ある日突然、家から出ろと言われ、戻っちゃダメと言われ、
そんな状態が2ヶ月以上も続き、
やっと帰る機会が出来ると思ったら
「帰宅したい理由は何ですか」って・・・・


私は電話をかけるのはまだこれからだけど、
私も聞かれることになるんだろうか。
「帰宅したい理由は何ですか」って。
これに答えないと、家には帰れないのだろうか。

まぁ私は、警戒区域になる前に
実は3回ほど家には戻っていて(ちゃんとスクリーニングも受けて異常なしです)
貴重品も着替えも、このパソコンも持ってきているから
切羽詰っているわけではないのだけど。
それでも、今は絶対に入れない家に入れる機会、
しかも次がいつになるか、というか次があるのかどうかも分からないのだから
持ってきたいものはまだまだたくさんある。
出来ることなら、ドラえもんのスモールライトで家ごと小さくして持ってきたい。
避難している人、みーーーーんなそう思っている。
思っているんだよ。


友人のblog




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70×70

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昨日、川内村の一時帰宅が紹介されていました。


防護服を着ての2時間の拷問。。。もとい 自宅への”訪問”

たった2時間って、あんなもん帰宅じゃなくて訪問じゃい!
そんでもって防護服なんて拷問じゃい!

・・・と、毒はここまでw




さて、
70センチ四方の袋に何を詰めようか

猪苗代ー福島間の1時間半の通勤時間 「妄想タイム」






手紙やハガキ、イラスト

写真、ネガ

お気に入りの帽子達

眼鏡とカメラ全部

靴、ブーツ、サンダル

あのTシャツとあのTシャツと あのTシャツ

あのパンツと あのジャケットと あのストール

あのベルトと あの時計と あの鞄

あの指輪と あのネックレスと あのイヤリング

あの着物と その着物と この浴衣

あの帯とこの帯、下駄、和装小物も忘れちゃならない

読みかけの本と これから読もうと思っていた本たち

あのコップと あの湯のみと あのスプーン

たくさん買い揃えたマスキングテープたち

あの人の出産祝いに用意していた 木のおもちゃ

あの子の退職祝いに用意していた 色鮮やかなキャンドル

あの人に贈ろうと用意していた ブリザープトフラワーのアレンジメント

あの娘にもらったプレゼント

大切に育てていた大きなモンステラ

きっとたくましくサバイバルしているであろう放浪猫のモモタロウ

多分もうきっと死んじゃってるんだろう 金魚たち と 鳩たち

大好きなじいちゃんと一緒に写ってた子供のころの写真






あぁ やばい 泣きたくなってきた。。。

あーーー!もー!家ごと持ってきたいよ。。。



70×70

そんな小さな世界に

私の大切な世界は収まらない



70×70

そんな小さな世界に

夢や希望なんてありゃしない















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原町へ・・・

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3月11日に被災、
3月12日に小高から猪苗代へ避難

そして5月7日
仕事の為、初めて相双の地へ戻りました。



地震保険の建物の調査に建築士として携わっています。
その調査のため原町区へ向かう事になりました。


不謹慎かもしれないけど
私、ワクワクしていました。



原町でもいいから帰りたい
そう思っていたのは随分前からです。

安心か安心じゃないのか良くわからない
緊急時避難準備区域である原町へ行けることが
嬉しくってしかたありませんでした。



原町の町は表面上は活気が戻っているように見えました。
住民もたくさん戻り住み、車の交通量も増え、
一時期ゴーストタウンのようになったと報道されていたことが嘘のようでした。
(しかし、開いているお店のほとんどは地元企業のみ、大手企業の店舗などはほとんど閉まったままでした。)



町の様子を見ると
私の住む小高区に比べ損壊した建物も少なく
「普通」の町に見えました。




せっかく原町まで来たので
小高に一番近い・・・つまり警戒区域に一番近い定食屋「はなぞの」で昼食をとることにしました。

お店の敷地から10mほど先は警戒区域の取り締まりの警官が立ち
警戒区域からは白い防護服を着た人々をたくさん乗せたバスが出て来ます。
(多分、警戒区域内の捜索活動をされている人がお昼で上がって来ていたんだと思います。)


今、お昼を食べているこの場所と10m先では
不思議なことに世界が違うのです。

見えない大きな壁が、境界線がそこにはありました。


ほんの目と鼻の先なのに
この小さいな、そして大きな違いが
たくさんの人を苦しめているんだろうな・・・

そう感じました。



その先にある我が家を思いました。
あと10分も車で走れば帰れる家。
でも帰れない家。




食後、次の訪問まで時間があったので
海まで連れて行ってもらいました。



自分の目で見たかった「現実」を見に。




捜索活動も概ね終わり瓦礫の撤去の進みつつある「浜街道」へ

「浜街道」とは、海に沿って走る道で
仙台や相馬へ向かう時は必ず通っていた道です。


「普通」に見えていた街も
浜に向かうと・・・
「普通」が無くなっていました。



道路が途切れ

田んぼには津波で流されたテトラポットがゴロゴロ・・・

ひしゃげた車や重機がそのままで残り

倒れた電柱が横たわり

流され残った土台が寂しく佇み



私の知っている道はそこにあるのに
私の知っている景色はそこにありませんでした。



そして
サーフィンの世界大会が開催されていた北泉の砂浜は


その砂浜は・・・
そこにあったはずの砂浜は、ありませんでした。


地震により沈下して砂浜がなくなってしまっていました。



変わり果てたその姿にショックを受けました。
でもね
見て良かったと心から思っています。



ちゃんと自分の目で見れて良かった。



ちゃんと受け入れないといけない事実だから。
伝えていかなきゃいけないことだから。


行けて、見れて良かったです。
そう思います。





でも本当はね
原町よりも自分の本当の場所 小高へ行きたい
小高の「今」を見たい
それが本音です。。。


でも、それは無理な話ですからね。


そうか・・・
私も、警戒区域の境界線に苦しめられてる一人なんだよね。



ああ。何もない小さな町だけど。
私の大好きな町。


早く小高へ帰りたいな。

家に帰りたいな。


$がんばっぺ!相双!





世界で最も有名な土地となってしまったFUKUSHIMA
そのFUKUSHIMAをポジティブな存在に・・・と始まった「PROJECT FUKUSHIMA」


その第一弾として昨日DOMMUNE FUKUSHIMAが開局しました。
被災者代表として出演させて頂きました。

まったくもって光栄なことです。


45分の出演
どうしよう、間がもたない・・・なんてドキドキしながら出番待ち

友人夫婦が観覧に来ていたので
困った時には彼女たちを見て安心していました(笑)




緊張の中、あっという間に時間が過ぎました。
(私大丈夫でしたかね??)



充実感・達成感を感じつつも

伝えたいこと、言いたい事の半分も1/4も話せなかった
・・・という残念な想いも混在。そして反省。




被災者(避難者)とそうでない人の間には温度差は否めないってこと。
・・・って、まぁ当たり前のことなんだけどね

だからこそ伝えていかなきゃいけないんだと改めて感じました。


まだプロジェクトは始まったばかり
全てはこれからですから。


これからです。




そして
PROJECT FUKUSHIMAのロゴである吹き出しの中に
私なら何を入れるかをぼんやりと考えていました。


次までの宿題にしとこ










DOMMUNE FUKUSHIMAは月に2度くらいのペースで放送される予定です。
次回の放送が決まったらまた告知します!

仕事がはじまり、blogo更新が疎かになっております。
すいません。


建築士として地震保険の建物の査定・調査の仕事をしております。
放射線も気にせず、元気に福島市を中心にあちらこちら走り回っております。

朝6時半に出社し夜8時~9時に帰り
くったくたで いつの間にか夢の中。。。です。


しかーし、そんな眠気も吹っ飛ぶようなニュースがっ!!


スバーン!


「 #DOMMUNE FUKUSHIMA!」開局します!!

福島でネット上の新しいTV局がスタートします!

月2回位のペースで福島から、
いろんなトークや音楽を発信!

初回は発起人の大友良英さんとDOMMUNEの宇川さん、
そして豪華ゲストが現地入りして開局宣言です!!

でもって
このトークライブに
私、出演することになりました。

んまー!



経緯は
先日消しゴムはんこ屋として出店した岩瀬牧場のフリーマーケーット
そこからお声がかかって、
被災者の代表・・・というような形で出演が決まりました。

という訳で、
私本人を知っている方も、blogを通して初めましての方も、
ぜひ、ご覧頂けると嬉しいです。


蒼々たるメンバーの中
わたし、全く持って「普通」の人だもんで
大丈夫なのか?・・・という不安もありますが



わくわく
楽しい事がどんどん広がっていきます。

被災してますが
わくわくは止められません。




予約/詳細はコチラ◎
http://www.dommune.com/fukushima/reserve/2011/0508/

5/8当日はコチラをチェック下さい!
http://www.dommune.com/fukushima





■大友 良英(おおとも よしひで、1959年8月1日 - )

神奈川県横浜市生まれ、福島育ち。
ターンテーブル奏者 / ギタリスト / 作曲家として、日本はもとより世界各地でのコンサートやレコーディング等、常にインディペンデントなスタンスで活動し、多くのアーティストとコラボレーションを行っている。また、映画音楽家としても、中国 / 香港映画を中心に数多くのサウンドトラックを手がけ、ベルリンをはじめとした多くの映画祭で受賞、高い評価を得ている。近年はポスト・サンプリング指向を強め、「Ground-Zero」のプロジェクトに代表されるようなノイズやカット・アップ等を多用した大音量の作品から、音響の発生そのものに焦点をあてたスポンティニアスな作品へと、ドラスティックに作風を変化させている。Sachiko Mと結成した電子音響系プロジェクト「Filament」で徹底した脱メモリー音楽を指向する一方で、伝統楽器とエレクトロニクスによるアンサンブル「Cathode」や、60年代のジャズを今日的な視点でよみがえらせる「大友良英 New Jazz Quintet」等をスタート。他にも邦楽器の為の作品の作曲、多方面でのリミックス、プロデュース・ワーク等、多忙を極める。




■「DOMMUNE」

2010年3月1日、
東京・渋谷に姿を現した、視聴者参加型のライブストリーミングスタジオ「DOMMUNE」。19時から21時までは、あらゆる分野の方が登場し、討論するトークショーやゲストによるライブ。21時から0時までは豪華DJがフロアを揺らすDJタイムとなっており、すべての番組が動画中継サービス「Ustream」と、連動している「Twitter」により全世界へ発信されています。どの番組も視聴無料。TVのようにスタジオで行われているイベントを楽しむことができます。
プロデューサーは宇川直宏氏。
20キロ圏内は警戒区域に指定さて、
20キロ圏内に接する道路は厳しく封鎖されているようです。

昨日、両親は避難先の猪苗代から南相馬市を目指しました。
いままで(避難指示区域だった頃)通れていた道が
20キロ圏内に一部かかっているから通れない・・・

あちこちまわりまわって
迂回に迂回をかさね

途中、どうにもガソリンが不足して
親戚宅で譲って頂いたりしながら
4時間もかかってようやく到着したそうです。


しかも、
計画的避難地域が避難後警戒区域にされたら
その時通った道も通れないようになるそうです。。。


緊急時避難準備区域の原町区は
東側は海、南、西は警戒区域及び計画的避難区域


支援をしように行くにも入れない

陸続きなのに行けない
正に陸の孤島


入り道も逃げ道も北だけ

緊急時どうしたらいいのでしょうか?
緊急時北に逃げるしかないのでしょうか?


例えば本当に緊急に逃げなければいけない状況となった場合
西か南方面に1本その道を通れたら直ぐに逃げれるのに
北に向かう道で逃げおくれる・・・

なんてことだって起こりうる話です。



支援をするのにも
1本の道が通れたらすぐに行き来が出来るのに
その道が通れないから、行けないと判断されたり
支援が難しくなる

それもあり得る話です。



政府は
どう考えているのでしょうか。。。






動き出した時間

テーマ:
久しぶりに会社のポロシャツに袖を通しました。


今日から建築士としてのお仕事が始まりました。
猪苗代から福島市への往復で大変ですが
今、この状況で仕事があることが幸せです。頑張ります。



父から、
「資格は何個持ってても重くない、邪魔にならないから資格を取れ。」
「お前には何も残してやれないから、そのぶん勉強はさせてやる。」
と、育てられた私。
そんな訳で高校生の頃から資格取得に励んできました。
お陰さまで
マニアックな資格を色々持っておりますw



プレッシャーに感じたり、色々しがらみもありましたが
「あー、お父さんの言う事聞いてて良かった」
と、今は大変感謝しています。

資格は身を助けますね。



さーて明日も5時半起き、頑張ってきます◎

私の住まいは南相馬市の小高区です。
原発からは約15キロ。
放射線の数値だけで見れば福島市や郡山よりも低い地域です。


しかし、
あと5時間後には警戒区域になってしまいます。


南相馬市は合併で出来た市です。
もとは、小高町、原町市、鹿島町からなっています。
そして
小高区のほとんどが警戒区域
原町区のほとんどが緊急避難準備区域
鹿島区のほとんどが30キロ圏外
と、市が三つの区域に股がっています。



それぞれの考え、言い分、思いがあると思います。


小高は避難指示だから
戻れるのだから原町、鹿島はいいなと思います。

原町からしたら中途半端な立場で
不安も残る中だと思います。

鹿島からしたら
30キロ圏外なのに南相馬市でひとくくりにされて、
とばっちりもいいところ・・・と思う所も多々あるかと思います。


それぞれの地域のそれぞれの訴えがある中

南相馬市の対応・対策の遅さがどうしても目立ちます。
不満・不安が募ります。。。

南相馬市小高区民としては
原発の補償の対応など
ついつい他の市町村と比べてしまいます。




市長を始め南相馬市が今後どのように対処していくのか
そして政府がどう対処していくのか


見守るしかどうしようもありません。。。



がんばっぺ・・・
といっても頑張る方向がまだ定まらないのが正直なところです。

警戒区域へ・・・

テーマ:
はぁ。。。

おもーい溜め息が

っはぁ。。。。



ついに警戒区域へ最終調整中だそうです。

警戒区域だもんで
自分の家なのに自分の町なのに
入ったら違反なんだって

家に帰って捕まる・・・罰金をとられる・・・
なんてことにもなるってこった。


はぁ。。。

小高に帰りたい
帰りたい帰りたい


変な間取りの家
狭い茶の間
倉庫の2階の自分の部屋
鳩小屋、金魚鉢
原付バイク
置いてきた 着物、帯、下駄、帽子に洋服、靴
写真、カメラ、手紙


ぜーんぶ持ってきたいけど
持ってきてもそれを置くスペースもない





いつ帰れるんだろう

いつ「普通」の生活に戻れるんだろう