【転記】公務員バッシングの正体 | 矯正知力〇.六

矯正知力〇.六

メモ的ブログ

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2012年4月17日(火)「しんぶん赤旗」
より転記。

公務員バッシングの正体

神戸女学院大学教授 石川康宏さんに聞く(1)

市民の不満そらす世論操作


 「身を切る」とした公務員削減と賃下げ、大阪市での「思想調査」…。さまざまな形であおり立てられている公務員バッシング。公務員を批判すれば政治はよくなるのでしょうか。いまなぜ公務員バッシングか。そのねらいと構造はどういうものか。神戸女学院大学の石川康宏教授に聞きました。(聞き手 行沢寛史)

 いま公務員バッシングを、少なくない市民が応援するような状況が生まれていますが、それはこの社会にとってたいへん危険なことだと思います。この問題を正確にとらえるには、まず公務員バッシングを積極的に行っている財界や政府のねらいを見ておく必要があります。

責任なすりつけ

 公務員バッシングが受け入れられている背景の一つが、貧困と格差の広がりです。その最大の要因は、財界と政府がすすめてきた「構造改革」路線です。非正規雇用労働者が増大し、社会保障が切り捨てられました。それによって財界は巨大な利益をあげました。

 しかし、こうした状況は、市民の不満、怒りを強めます。その不満の矛先を、財界や政府に向けさせないために「原発安全神話」よろしく演出されたのが「公務員=貧困者の敵神話」です。

 「国民生活から切り離された生ぬるい労働、生活環境が公務員にはある」「公務員は働かない」「公務員は市民の苦労をよそに、ぬくぬく暮らす既得権勢力だ」というわけです。

 これによって財界と政府は、貧困拡大の責任を、公務員たちになすりつける。巧妙な世論操作です。

 公務員職場の一部の問題が大きく報道されることがありますが、それは問題ごとに適切に解決すればよいことです。それを「だから公務員はだめだ」というバッシングの理由にしてしまえば、財界・政府の思うつぼということです。

 日本の長者番付ベスト10は大企業経営者で埋めつくされています。大企業の利潤の源は、正規・非正規両方をふくむ労働者の安づかいであり、公務員人件費の削減も、法人税減税や大企業への補助金につかわれていけば、まったく同じ役割を果たします。

 こんな見え透いた責任逃れや、矛先かわしの世論操作に、市民や労働者が簡単に乗せられていてはいけないのです。最初に根本の問題として、この点を強調しておきます。

 くわえて公務員バッシングを通じた公務員の人件費削減は、民間労働者の賃上げ要求を鎮静化させ、さらに公務と民間での「賃金引き下げの連鎖」をつくることで、民間労働者の人件費削減につなげられます。いうまでもなくこれは民間大企業の利潤拡大に直結します。

赤字の根源扱い

 先日、国家公務員の賃金を平均7・8%削減する法律が強行成立させられました。推進したのは、民主、自民、公明という「構造改革」をすすめてきた張本人です。これが正規・非正規を問わず日本の労働者全体の賃金抑え込みの新しい条件づくりになることを、労働者はもっとしっかり自覚するべきです。

 また公務員バッシングは「公務員の給料が高いから財政赤字だ」という、事実にもとづかない荒唐無稽な「公務員=財政赤字の根源神話」としても悪用されています。

 しかし、たとえば2000年に84万人もいた国家公務員は、2011年には30万人に減らされましたが、その間に財政赤字は拡大しています。

 理由は簡単で、赤字拡大の最大の原因である法人税減税や、証券優遇税制による税収の減少、無駄な大型公共事業などでの浪費、そして景気の低迷による税収の伸びのストップといった根本問題への対策が、まるで的外れなままになっているからです。

 ここでも公務員バッシングは、問題の「真実の根源」から市民の目をそらす「魔法の盾」「目くらましの道具」とされています。




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2012年4月18日(水)「しんぶん赤旗」
より転記。

公務員バッシングの正体

神戸女学院大学教授 石川康宏さんに聞く(2)

財界奉仕者への転換を狙う


 「大企業が潤えば、やがて国民も潤う」という大企業第一主義の「構造改革」路線は、国民の絶対的な貧困化という形で破綻が明らかになりました。それにもかかわらずこの路線を継続しつづける。そのための国民ゴマカシの格好の手段として意図的に演出されているのが、公務員バッシングです。それは悪政を免罪させる手段であり、そのような悪政を政治に求める財界を免罪させる道具ともなっています。

震災後の猛奮闘

 実際の公務員の働きですが、たとえば昨年の東日本大震災の現場には、公務員たちの自己犠牲的ながんばりが無数にありました。

 ハローワークは、たいへんな量の業務をこなし、わずか2カ月で1年分の失業給付の支給を行いました。流された保育所を、ただちに再開していく努力も行われました。国土交通省の地方整備局は、寸断された道路15本を4日間で開通させ、さらには物資の輸送に不可欠だった仙台空港を、津波から5日目に復旧させました。

 これらを担ったのは公務員です。全国から支援に入ったたくさんの公務員が、復興を願う地元の人たちやボランティアの人たちと力をあわせました。

 私はこういう能力と責任感をもつ公務員をたたいて、つぶしていくのは日本社会の今後にとって大きなマイナスにしかならないと思っています。

 いま私たちが行わねばならないのは、公務員バッシングという財界発の悪巧みに乗せられてしまうことではなく、逆にそのねらいをしっかり見抜いて、くらしの改善のために、公務員の仕事をいっそう充実させていくことだと思います。

 国民の生活や命を支える国や自治体をつくろうとすれば、その具体的な仕事を行うのは公務員です。その公務員をたたくことで、市民のくらしが改善されるはずがありません。

全体の奉仕者が

 この国の憲法は「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない」(第15条2項)としています。そして「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条1項)とも書いています。

 現在の公務員バッシングには、公務員を「全体の奉仕者」から「一部の奉仕者」に転換させるねらいが込められています。

 公務員を全国民・住民のくらしを支える公務労働の担い手から、住民のくらしは二の次、三の次として、大企業に奉仕することを最優先する財界の手下に変質させようということです。

 1960年代から70年代にかけて、全国各地に革新自治体がつくられました。最大時には全国民の43%がそれらの自治体で生活しました。「憲法をくらしの中に生かそう」が合言葉とされ、住民の生存権や学習権を守り、大企業による環境破壊を規制するために、自治体や公務員は大いに活躍しました。そもそも、そういう自治体をつくる上で、各地の公務員の労働組合は住民とともに大きな役割を果たしていました。

 しかし70年代半ば以降、財界の強い巻き返しによって、革新自治体はつぶされ始めます。当時の社会党の路線転換が決定的な要因となりました。

 これをきっかけに、80年代には財界指導者が政治の前面に出た「臨調行革」路線が推進されます。社会保障など革新自治体の取り組みの成果をこわし、さらに「財界の声が通りやすい国」をめざすというものでした。同じ時期に公務員の労働組合や、民間もふくめた全国の労働組合に対する攻撃が強められます。




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2012年4月19日(木)「しんぶん赤旗」
より転記。

公務員バッシングの正体

神戸女学院大学教授 石川康宏さんに聞く(3)

「全体の奉仕者」の意味は


 財界の巻き返しの動きとして、1980年代には政府の各種会議に経団連や日経連などの財界団体幹部を参加させる、いわゆる「諮問委員会政治」が広められます。戦後はじめて法人税率が引き下げられ、大企業のもうけの自由を拡大する「規制緩和」路線が明確になり、さらに国の形の問題としては、国家は防衛、外交、対外経済政策に専念し、国民生活は自治体まかせにすればよいという議論も強まります。労資協調*の色合いを強くもった連合という労働組合(全国組織)の結成を、財界が大歓迎したのは89年のことでした。


(写真)大阪市議会開会日に「職員・教育基本条例を撤回せよ」とデモ行進する市民=2月28日、大阪市役所前

財界と政府一体

 90年代の後半には橋本「六大改革」の一つに「行政改革」が位置づけられ、その後、2001年に、他省よりも格上の行政機関となる内閣府がつくられ、そこに経済財政諮問会議がつくられます。そして、この会議の議員に経団連と経済同友会の幹部が入りこみ、政府首脳と一体になって、この国の特に経済政策を動かすようになっていきます。

 現在の公務員バッシングにつながる「公務員制度改革」論は、こうしてこの国の形や公務のあり方を、財界の願いにそってつくりかえるという流れのもとに登場したものです。

 自分の生活を国や自治体に頼るなという「自己責任」論を国民に浸透させ、「小さな政府」づくりの名目で、住民生活をささえる公務を縮小し、あるいはそれを民営化します。

 財界の利益に直結しない公務は不必要なものであり、利益のじゃまになるものは解体するということです。それが「官から民へ」「官は怠惰で不合理だ、競争のある民にまかせた方が合理的だ」―こういうスローガンのもとにすすめられました。

 その結果、保育や介護など福祉の民営化がすすみ、国立大学も投げ捨てられるといったことが起こりました。公務員の削減や公務の解体、あるいはそれを正当化するために繰り広げられた公務員バッシングは、何より住民の生活や学びの権利の喪失に結びついていたのです。

 先日、大阪の橋下市長が、公務員は「国民に対して命令をする立場」だと言い放ちましたが、その橋下氏のバックには関西経済同友会など大きな財界団体がついています。不法な「思想調査」アンケートが問題になりましたが、ああいう強権的な姿勢も、公務員を一部大企業への奉仕者にかえることを、大きなねらいの一つとしたものです。

 このように80年代以後の政治の流れを大きくふりかえるとき、私はあらためて公務員とは何か、公務労働とは何か、それは誰のためにあるもので、どういう人間が担うべきものなのか、こうした根本の問題を考えることが必要になっていると思います。70年代までは、大いに論じられた問題でした。

 基本点にふれておくなら、公務員がどうあるべきかという問題は、国や地方の政治がどうあるべきかに直結します。財界がやりたい放題を行う政治なのか、国民のくらしを守る政治なのか、それによって公務員の果たす役割は大きくかわってくるわけです。

 その意味では、私たちは個々の公務員の行動ばかりに目を奪われるのでなく、この国の政治は公務員に何を行わせようとしているのかという、政治の根本に注目することが必要です。根元にある悪政を野放しにしておいて、公務員には善政を求めるというチグハグは、私たち主権者の責任で正すことが必要です。

住民と手を結び

 もう一つ大切なのは、憲法が公務員を「全体の奉仕者」だとしていることの意味の問題です。仮に政治が財界の利益ばかりを追求しようとするとき、「上司の命令だから仕方がない」とするのが当然なのか、それとも「全体の奉仕者」であることに反すると思われるときには、これに異を唱えることができるのか。そういう問題があるわけです。憲法は「国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令…の全部又は一部は、その効力を有しない」(98条)と書いていますから。

 この点の現場での実際は、具体的な「力関係」に大きく左右されるでしょう。だからこそ「全体の奉仕者」たろうとする公務員と、「全体の奉仕者」にふさわしい公務を必要とせずにおれない住民は、日頃からしっかり手をとりあうことが必要です。公務労働論にとどまらない、公務労働運動論が重要です。


*労働者と資本家が相互に協力して企業の業績を高めれば、資本家の利潤も労働者の賃金も増大し、国民の生活水準が上昇するという思想的立場。


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2012年4月20日(金)「しんぶん赤旗」
より転記。

公務員バッシングの正体

神戸女学院大学教授 石川康宏さんに聞く(4)

全国民への攻撃 見抜いて


公務員バッシングは、結局、国民のくらしを支える公務をバッシングするもので、これは財界や政府からの全国民に対する攻撃といっていいものです。国民の中に対立を持ち込み、国民同士、労働者同士を仲たがいさせ、その隙に、財界のめざす国づくりをすすめようというものです。ですから、これは公務員の賃金や処遇だけでなく、より根本的な国のあり方全体に関わる問題です。


(写真)国家公務員の賃下げに反対して行動する労働者ら=1月31日、衆院第2議員会館前

住民利益と結び

 そのことをうまく、広く伝える必要がある。大阪では、橋下市長と大阪市労連(連合加盟)の交渉の様子の一部がテレビのニュースで流されました。放映された限りでは、労組側は賃金の問題について「私たちの生活」「私たちの権利」の問題しか語らない。ひょっとするとその言葉だけが切り取られたのかも知れませんが、映像は「公務員は自分のことしか考えていない」「組合は既得権益を守る組織だ」という印象を与えるものとなりました。

 生活の大変さや権利を主張することは間違いではありませんが、それを住民の利益と切り離して語るなら、逆手に取られることがあるということです。

 大阪市長選では、橋下氏が市役所職員を批判すると、若者から拍手が起きるということもありました。「私たちはいくらがんばっても、低い給料しかもらえないのに」という思いが巧妙にねじ曲げられ、公務員バッシングに結びつけられてしまった一例です。

 私は公務員バッシングへの反撃は、遠回りに思われるかもしれませんが、ここまで壊されてしまった日本の社会や人間同士の関係を、どういう形につくりなおすのかという大きな議論とセットで行う必要があると思います。

 財界やり放題、大企業第一の社会でいいのか、国民生活が第一の社会に転換するのか。自己責任のみで生きるのが当たり前の社会でいいのか、各人の努力のうえに助け合い、連帯し合う社会をめざすのか。そういうあるべき社会の理念をはっきりさせていく中で、公務員の必要性や役割への理解も深まっていくと思うのです。それは公務員の削減や賃金引き下げとたたかう地盤を広げることにもなっていきます。

 かつての公務労働者論や民主的な自治体労働者論は、国民・住民への「全体の奉仕者」としての役割や姿勢をはっきりさせる中で、労働者としての自分たちの権利や生活も守るという太い組み立てをもっていました。

 いまもそういう姿勢でがんばっている公務員や労働組合はたくさんあります。しかし、公務員と民間労働者、公務員と国民・住民を対立させる意図的な攻撃のもとで、両者の連帯が強まっているとはいえません。

 「構造改革」路線のもとで貧困に突き落とされ、行政からも手を差し伸べてもらえず、「しょせん世の中そういうものなのだ」「みんなが貧しくなれば、自分もつらさを感じなくてすむ」「公務員もおれの苦しみを味わえ」といった発想が広まる土壌も生まれています。

助け合う社会に

 しかし、こんな社会を多くの人がよいと思っているかといえば、そうではないと思います。労働者・市民が分断され、孤立し、助け合いや共同を信じることができないギスギスした関係にある。こういう社会をなんとかしたいと、多くの人が思っているのではないでしょうか。

 「人間は本来、助け合って生きるものだ」「支え合うのが当然だ」「そういう当たり前の社会に向かって力を合わせよう」―いまのような社会状況の中では、そのようなめざすべき社会についての理念の提示や、あたたかい社会づくりへの共同の呼びかけが大切ではないかと思います。

 その基本は、憲法がめざす日本の社会像でしょう。そうであれば公務員は国民の基本的人権を守るものとしてきわめて重要な存在となっていきます。

 財界やり放題の国づくりにとっては、「全体の奉仕者」は不要でしょうが、国民が主人公の国づくりには「全体の奉仕者」は不可欠です。むしろ、それに必要な能力の育成と人格の陶冶(とうや)が、ますます重要になってきます。そのような公務員の位置づけは、各地で苦労、奮闘している公務員一人ひとりに、揺らぐことのない「働く誇り」をもたらすものともなるでしょう。


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【転記】生活保護&公務員の給料の基準が下がると社会全体の給料も下がる