【転記】「法学セミナー」憲法/人権論入門 Ⅰ憲法学と人権 | 矯正知力〇.六

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『「法学セミナー」憲法/人権論入門 Ⅰ憲法学と人権』/九州大学准教授 南野森
より転記。

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1 日本社会と人権
人権とは、人が人であるがゆえに当然にもつ権利のことを言う。人でありさえすればすべての人に認められるべき権利であるから、国籍にも、信仰にも、性別にも、学歴にも、貧富にも関係がない。すべての人が等しくもつ権利、それが人権である。読者はこれまで中学や高校で、そう教わってきたはずである。そして日本国憲法の三大原理の一つが 「基本的人権の尊重」であり、その第三章には多くの権利規定が置かれていることも学んだであろう。法の下の平等や表現の自由、信教の自由、財産権の不可侵や勤労の権利、さらに 「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」や 「幸福追求」の権利などを知っている読者も多いかと思う。では、我々の日本社会において、はたして人権は保障されているであろうか。
読者の多くにはおそらく生々しい記憶がないであろうし、ひょっとすると想像することすら難 しいかもしれないが、今からほんの20年前、この日本社会は一種独特の雰囲気に包まれていた。87歳という高齢であった昭和天皇の病状が、1988年秋以降深刻化していたのであった。そして彼は翌1989年 1月7日に亡くなり、元号は昭和から平成へと変わる。その頃、天皇が重篤な病に伏しているのだから、コンサートやスポーツ大会,お祭りなどは不謹慎であり、ゆえに主催者の自主的な判断で開催をとりやめるということが相次いだ。これが当時の日本社会を覆った「自粛」現象である。ある新型車のテレビCMで、楓爽と運転席の窓を開けた有名歌手が 「お元気ですか?」と呼びかけるものも、不謹慎との声があったとかで放送とりやめとなった。筆者の知人で茶道をたしなむ数名のご婦人が、新年の 「初釜」なる行事に出席するためあでやかな和服を着て京都駅で待ち合わせをしていたところ、見知らぬ初老の男性に、こんな時に晴れ着とは不謹慎ではないかと詰め寄られ肝を冷や したということもあった。
 そしてその頃、とりわけ平成になってから、ひとつの重大な問題が論じられることになった。昭和天皇その人の「戦争責任」である。歴史学者を中心に、戦後さまざまに論 じられてきた問題ではあったが、それが昭和天皇の死去に際 し、あらためて多くの媒体で取り上げられるようになったのである。そのようななかで、議会において昭和天皇に戦争責任があると思うと答弁した長崎市長が右翼に銃撃されたり、同じく戦争責任があると言い、また大嘗祭の行い方について憂慮の声明を出すなどしていた歴史学者の自宅に銃弾が撃ち込まれるなど、いくつかの言論に対するショッキングなテロが生 じるに至った。天皇機関説を主張 した美濃部達吉(1873-1948)が銃撃されたのは1936年のことであり、読者はそれについても高校で学んだことであろうが、そのような不愉快な現象は、歴史の敦科書上の出来事にとどまらず、それから半世紀以上が過ぎた日本社会にも、厳然と存在 していたのである。くりかえすが、今からほんの20年前の話である。それだけではない。男女差別はもともと古今東西深刻であったが、今日の日本社会でもいまだ解消されたと言うにはほど遠い。欧米のような黒人やユダヤ人に対する差別はないかもしれないが、在日朝鮮・韓国人差別はいまだに根強くあるであろう。日本国籍をもっていても、部落差別はどうか。最近しばしば言われるようになった 「格差社会」という表現は、金持ちと貧乏人、都会と田舎がまるで平等でないことをあらためて我々に突きつける。フリーターやニートと言われる人々が俄然増えているが、彼らにははたして勤労の権利が保障されているのであろうか。ワーキングプアと言われる問題も同様であるし、「健康で文化的な最低限度の生活」すら嘗めない人々は、河川敷や公園や駅構内、そしてネットカフェにあふれている。かろうじて住宅に入居している人のなかにも、そのような生活を営めない人が大勢いる。幸福追求の権利があると言っても、およそ何が幸福であるかは人それぞれである以上、なぜ丸刈りにしなければならないのか、なぜピアスや茶髪はダメなのか、なぜ単身赴任を強いられるのかといった疑問に対する回答は容易に得られそうにない。日本で働き税金 も納めているのに国籍がないという理由だけでなぜ選挙権 もなく、また子どもが日本で生まれ日本の学校に通い日本語しか話せないにもかかわらずなぜ突如国外退去を命じられなければならないのか。いじめによる悲惨な自殺は、人権侵害の最たるものではないのか-。
 ようするに、この日本社会には人権の保障されていない不幸な事態があちこちに存在する。憲法は基本的人権の尊重を詣い、詳細な権利のカタログを定めているはずなのに、である。だとするといったい憲法は、憲法学は、そして憲法学者は何をやっているのか。読者はそう疑問に思わないであろうか。
 至極もっともなこのような疑問に、憲法学としてどのように回答すべきか。筆者を含めて五名の論者がそれぞれの見地からそれを考えてみるのが、この特集「人権論入門」である。本稿に続 く四論文は、「公共の福祉」「私人問効力」「二重の基準論」「違憲審査基準」といった、大学における講義や教科書類では一般に「人権総論」と呼ばれる部分に該当する重要な問題群を扱ったものであり、これらを熟読することで、これからそれらを学ぶことになる読者には適切な見取 り図が与えられ、かつ実は一筋縄ではいかない「人権総論」を自分の頭で考えるきっかけが与えられるであろう。
 本稿では、いわば人権総論の総論として、複雑で錯綜した議論に読者が絡め取られてしまわないように、簡単な交通整理を予め行っておくことを目指す。日本の憲法学においては―そして本特集に集まった五名の論者においてさえも?―、そもそも人権とは何か、そしてそれが憲法学とどのような関係にあるのか、といった人権論の前操にあるべきことがらについて完全な一致があるわけではない。そこで本稿は、本稿の筆者なりの見地にたって、人権という言葉・概念と憲法(学)との関係について述べておくこととする。本特集を始めとし、これからさまざまな論文や教科書、さらには専門書を読み考えて行くことになる読者は、人権なら人権という譜を、それぞれの著者がいったいどのような意味で用いているかということに留意しながらそうして欲しいと思う。まずは本稿における人権と,それに続く四論文における人権が、はたして同 じ意味なのかどうかに気を留めてみてはいかがであろうか。

2 人権という語
人権 という日本欝は,幕末から明治初期にかけて、日本が近代西洋社会 と本格的に出会った際に、
droits de l'homme(仏語),humam rights(英語)といった西洋語の翻訳語 として、我々の語嚢に新たに加えられたものである。最初期には、現在民法学で 「債権」と呼ばれるところのものを指 して用いられていたようであるが、その後、福滞諭吉(1835-1901)や加藤弘之(1836-1916)といった 「明六社」のメンバーの著作等により,今 日的意味における人権という語と思想とが徐々に定着するようになった。
 人権 という語がそれ以前の日本には存在していなかったことが示唆 しうるように、19世紀末までの日本社会には、人が入であるがゆえに一定の権利をもつという思想は、少なくとも一般的には存在していなかった。たとえば明治3(1870)年、新政府は太政官に制度局を置き、そこで民法編纂のための会議を開催したが、のちに明六社にも参加する箕作麟祥(みつくりりんしょう)(1846-97)がフランス語のdroit(s) civil(s)という、現在では「民法」とか、「民事上の権利」「私権」と翻訳される語を「民権」と訳したところ、「我邦においては、古来人民に権利があるなどということは夢にも見ることがなかった事であるから、このママ新熟語に接した会員らは、容易にこの新思想を理会しかね、『民に権があるとは何の事だ』という議論が直ちに起」こり、「箕作博士はロを極めてこれを弁明せられたけれども、議論はますます沸騰して、容易に治まら」なかった。ことほどさように、この時期の日本では、エリートたちにとってさえ、人(氏)に権利があるという発想は異質なものであった。
 さて、明治政府はその後実に驚博すべきスピードで日本の近代化を推 し進めるが、上言己の民法編纂のための会議から20年近くが経とうとする明治21(1888)年、今度は大 日本帝国憲法の草案を審議していた枢密院の会議において、一つの有名な論争が生じた。その当事者は、一方が帝国憲法の起草を担い、初代内閣総理大臣を辞して枢密院議長に就任したばかりの伊藤博文(1841-1909)、そ して他方が伊藤内閣において文部大臣を務めたやはり明六社出身の森有礼(1847-89)であった。帝国憲法は、その第二章のタイトルを 「臣民権利義務」として、兵役や納税の義務のほか、「法律の留保」という重大な制約つきではあったものの、信教の自由や表現の自由等を列挙していたが、まず森が、そのような帝国憲法案が臣民の 「権利」という言葉遣いをしていることにかみついたのである。彼は、「臣民権利義務を改めて臣民の分際と修正せん」と主張した。臣民に権利があるとは何事ぞ、という、先に見た民法編纂会議における 「民権」に対する異論反論とよく似た発想であったかのように思えるであろう。そこですかさず、伊藤が反論した。伊藤によれば、森の主張は 「憲法学及(および)国法学に退去を命じたるの説と云ふべし、抑(そもそも)憲法を創設するの精神は第一君権を制限 ちし第二臣民の権利を保護するにあり、故に若(も)し憲法に於(おい)て臣民の権利を列記せず、只(ただ)責任のみを記載せば憲法を設くるの必要なし」、と。憲法を制定するのは、君主の権限を制限 し、そ して人民の権利を保護することを目的とするのであって、にもかかわらず 「権利」を「分際」に改めようという森の主張は、そもそも憲法の何たるかを理解せぬとんでもない主張である、というわけである。伊藤のこの反論は、近代立憲主義の正当な理解に基づいたものであったと言える。ところが、森の真意は民法編纂会議における 「民権」反対派の主張とは似ても似つかぬもの
であった。伊藤に対する森の再反論では、次のように述べられていたのである。すなわち、「臣民の財
産及言論の自由等は人民の天然所持する所のものにして、法律の範囲内に於て之(これ)を保護 し又之を制限する所のものたり、故に憲法に於て是等(これら)の権利始(はじめ)て生じたるものの如く唱ふることは不可なるが如し」、と。つまり森は、人民には生来的に一定の権利自由があるのであり、まるでそれが憲法によって初めて与えられたかのように考えることは不適切であるとする、近代人権思想の考え方を正当に表明していたのである。20年足らずのうちに、権力の中枢にあった人々に、「天賦人権」の思想と「近代立憲主義」の思想とが、それぞれ正当に理解されるようになっていたことは、我々の先人たちの偉大さを示す一例として、記憶 しておきたいものである。
 ともあれ、まずは今 日的な意味における人権という日本語が、せいぜい百数十年の歴史 しかもたないものであるということを知っておいてほしい。そして日本の場合は、それが意味する思想 もまた、それを表す語と同様の短い歴史しか有していないということが、重要である。
 それでは、西洋においてはことの事情はどうであったのであろうか。実は、人権 という語の西洋における原語の歴史もまた、それほど古いものではない。human rightsという英語について言えば、それを最初に用いたのは、イギリス人でありながら市民革命期のアメリカやフランスを行き来 し、1789年の大革命後のフランスでは市民権を与えられ憲法制定会議のメンバーにさえなった トーマス ・ペイン(1737-1809)であるとされる。彼の1791年の著作『人間の権利(Rights of Man)』では、1789年フランス人権宣言(『人および市民の権利の宣言』)が英訳して紹介されており、そこで、droits de l'homme
翻訳語 としてhuman rightsという語が用いられたのである。フランス語について言えば、その初出を1774年とする辞書もあり、やはり人権宣言から大きく遡ることはないようである。つまり、日本のエリートたちが今から百数十年前に輸入した人権の語は、その本家本元である西洋においても、その時点からさらに百数十年程度遡るものでしかなかったのである。ところが、日本においては人権という語がなかったことと人権という思想がなかったこととがコインの表裏をな していたと言えるのに対 して、西洋においては、人権 という語がなかったとはいえ、人権の思想については必ずしもそうとは言えないそれは、西洋政治思想史の造かな流れのなかで、少なく見積もっても数世紀にわたって醸成されてきたものであったのである。

3 人権という思想
それが、自然権(droits naturels、natural rights)という語で表現されてきた思想である。人が人であるがゆえに権利をもつという場合、それは国家とか憲法とか法律とかそういった人為的なものとは関係なしに、むしろそれらに先立つものとして存在する、という考え方が前提 とされている。国家もなく、憲法も実定法もない、原始的な世界を自然状態と呼ぶことがあるが,そのような自然状態においてさえ、人は人であるがゆえに権利をもっている。つまり人は権利を、naturalに(自然に、当然に)もっている、という意味で 「自然権」と表現されたわけである。そのラテン語であるius naturaleという語は、すでに14世紀半ばには用いられているという。さて、人が生まれながらに して自然権をもっているとしても、なかには悪い奴もいて、他人の自然権を侵害する者が現れる。その場合、自己の自然権守るために、人は自ら侵害者に対して闘わざるをえない。さらにその場合、侵害者は侵害者で、自分に対する反撃をやはり自分の自然権に対する攻撃と考えるかもしれない。中立的な、第三者的な、権威ある裁定者が存在しない自然状態では、放っておくと「万人の万人に対する闘争」に至ってしまう。そこで人々は、このような悲惨な状態から抜け出すために、全員で権威ある第三者を作りだすことを約束し、以後は自分の意思ではなくこの第三者の意思に従い、その判断に全員が従うことで平和を達成しようとした。これが、「社会契約」の物語である。もちろん、歴史的事実としてそのような契約が締結されたというわけではなく、社契約論というのは、いわゆる啓蒙思想家たちが,気がつけば国家なり君主なりの権威に従って自分たちが生きているという事実を前にして、さてそのような国家なり君主なりの存在をいかにして正当化すべきかを考えたすえ、作り上げたひとつの説明の仕方である。ホップズ(1588-1679)やロック(1632-1704)、あるいはその一世紀後に登場するルソー(1712-78)などの著作を通して近代西洋社会に多大な影響を与えたものである。
 そしてこのような、人の自然権を保障するために国家を作りだしたのだ、という考え方は、現にある国家の権威を正当化すると同時に、そのことの裏返しとして、国家権力の目的は人の自然権を保障することにある、つまり、国家が自然権を侵害すること
は許されない、という考え方を含むものであり、ゆえに、現にある国家の権力を制限する論拠ともなる。
 ところが実際の国家なり君主なりは、自然権を保障することにその役割を自己限定しないばかりか、それを侵害さえしてしまう。そこでついに、国王による圧政に対 して、新大陸ではアメリカがイギリスより独立し、旧大陸ではフランスで市民革命が勃発した。こうして18世紀末には、ヴァージニアの権利章典(1776年)、アメリカ独立宣言(同)、そしてフランス人権宣言(1789年)のように、人々の自然権を荘厳に詣いあげる文書が制定されるようになったのである。ヴァージニア権利章典の 1条は 「すべて人は、生来ひとしく自由かつ独立であり、一定の生来の権利を有する」と言うし、独立宣言は「我々は,次の事柄を自明の真理であると考える。すなわち、すべての人は平等に作られ、創造主によって一定の奪うことのできない権利を与えられており、その中には、生命、自由および幸福の追求が含まれていること、これらの権利を確固たるものとするために人々のあいだに政府が組織されること…」と言う。またフランス人権宣言の 1条は「人は、自由かつ権利において平等なものとして生まれ、かつ、そうあり続ける」と、そして2条は「あらゆる政治的社会形成の目的は、人の時効によって消滅することのない自然権を保全することにある」とする。いずれも、社会契約や自然権の思想を表明 したものであることは明らかであろう。18世紀末に相次いで、大西洋の両側で制定されたこれらの諸宣言が、まずは西洋世界に自然権に代わる人権という語と思想を普及せしめ、そしてそれがほぼ一世紀後に極東の日本まで届けられた、ということになる。
 ここで注意しておきたいことは、これらの宣言が「宣言」であった、という事実の含意である。すな
わち、人権宣言によって人に人権が与えられるのではなく、人が生まれながらにもっている権利を人権宣言が確認した、という発想である。つまり、人権宣言には、権利創設的な、そのような意味で法的な効果はもともとないと考えられていた,というわけである。百年後の日本における、森の伊藤に対する再反論を思い出してほしい。
 以上のような米仏両国の市民革命は、いわば社会契約の物語を地でいくものであった。人に人権があることを確認し、それを確固たるものとするために、つまりそれを保障するために、人々が国家権力をconstituteする。国家の行使すべき権力を定め、そ
れを諸機関に配分し(権力分立)、それが乱用され
て人権を侵害しないように限界を定める。それが、constitutionである。 しかし、その際、人権規定を憲法典に置くことがよいのかどうかは微妙な問題である。先に述べたような人権思想からすれば,それを憲法典に置く必要はない し、置くことによってかえって自然権としての人権の性格が誤解され、あるいは規定されたもののみが人権であるという誤解が生じないとも限らない。とはいえそもそも社会契約論が市民革命を準備 した過程を顧みればわかるように、自然権を保障するために作ったはずの国家権力が自然権を侵害 してしまうおそれは十分にある。やはり網羅的とは言わずとも、一定の自然権等を憲法典に列挙して、国家権力の限界を明示するほうが良いとも言えるのではないか。こうして、アメリカは憲法発効から三年後の1791年に権利のカタログを修
正条項として追加したし、フランスは1789年人権宣言をそのまま1791年憲法の冒頭におき、しかし憲法典本体とはひとまず違うものとしていわば祭り上げ、憲法典中には 「自然的および市民的権利」という折衷的な定式でいくつかの権利を定める、という方法をとった。

4 憲法という思想
 こうして、人の権利を保障するために権力を構成し制限するものとして憲法典を定めるべきであるという近代立憲主義の思想が18世紀以降西洋世界に広まっていく。そしてそこでは、「人一般」の自然権としての人権に加えて、「市民」の権利をも含んだ権利条項を置くことが一つの標準的なあり方となる。フランス人権宣言からちょうど育年後に制定された大日本帝国憲法も一応そうであったし、現在の日本国憲法もまたそうである。自然権としての人権は、人が人であるがゆえに当然にもつ権利であるから、それはその侵害主体が誰であれ、それに対抗して主張しうるものと観念される。ところが、いったんそのような自然権のうちのあるものが、憲法典上に定められるやいなや、それは、微妙に、しかし重大に、性質を変えざるをえないことになる。
我々の人権を侵害する悪い奴がまず第一に何者であるかは、社会により、時代により異なりうる。君主なり国家なりが一定程度おとなしくなり、むしろ社会における多数派や強者による少数派や弱者への人権侵害こそが深刻な問題であると考えられるようになれば、自由に対する深刻な脅威は国家権力よりはむしろ「社会による専制」「多数者による専制」であるということが強調されるかもしれない。実際、ミル(1806-73)の『自由論』(1859年)は、社会が暴君となることに対する警戒を強調する。そしてこれをいち早く1872年に邦訳 した、やはり翌年明六社に参加することになる中村正直(敬宇)(1832-91)は、societyという語を「政府」と誤訳 していたとしばしば指摘されるが、実は当時の日本社会における自由の敵は、まず第一に政府であるはずだということを考えたうえでの意訳であったのかもしれない。まさか20世紀末になって日本社会に 「自粛」がはびこるとは、さすがの中村も予想だにしなかったことであろう。たしかに、ミルの生きた19世紀後半の欧州においては、人民の代表が立法権の中心的な担い手となりえ、議会の制定する法律によって人々の権利を制約し保障するという制度が一定限度で機能するようになった。市民社会において権利を侵害するのは他の一般私人や行政権であり、それに対して法律を用いることで民事裁判官や行政裁判官に侵害の排除や回復を請求するというシステムである。制定法国か判例法国かの違いはあるとしても、憲法が人権を保障する最後の砦として登場する余地はさほどないということになる。つまり,多くの人権問題は、憲法問題ではなく、法律問題となる。憲法問題とは、権利が保障されるように国制を構想することであった。19世紀的な議会中心主義、あるいは法律中心主義は、しかしながら、20世紀になって衝撃的な形でその失敗を露呈した。その最たる例が、ナチス政権による議会立法を根拠とする異常なまでの人権侵害であったし、また、大日本帝国末期の翼賛議会も議会に人権保障をまかせてほおけないことを明らかにしたと言える。そのようなあまりに大きい犠牲を払ったうえで、第二次大戦後の諸国の憲法は,国民を代表する議会をも含めた国家権力に対抗するものとして、権利規定を定めるようになった。そして、議会が憲法で保障されたはずの権利を侵害するような法律を作ったときに、それを憲法違反で無効とする権限を作り出し、それを裁判所に委ねた。これが違憲
審査制である。人々の代表であるはずの議会さえも、人々の散になるということを想定した制度である。
 ようするに、憲法を定めるということは、まずは人の自然権を保障するために一種の社会契約として国家権力を作り出し、配分するところから始まって、つぎにその保障を国民代表議会にまかせることとその失敗とを経験したのち、20世紀になって議会立法でさえ侵害してはならない権利を憲法典に列挙してその保障を裁判所に委ねる、という展開を経てきた、近代西洋社会の一つの知恵なのである。そしてその過程で、憲法上の権利規定の方は、自然権としての人権に加えて参政権のような 「市民の権利」(第一世代の人権)、そしてやはり国家の存在を前提とする生存権や教育を受ける権利等のいわゆる社会権(第二世代の人権)へと拡大化・豊富化していく。その反面、一貫 している憲法の思想は、いずれにせよこれらの権利を保障するために、国家権力を制約し拘束する、ということである。
 もちろん、人権が社会において十分に保障されるようにするためには、さまざまな方法が考えられる。しかしそのなかで憲法が担う役割は、以上のような歴史の流れからすると、実は限定されているということになる。一方で、18世紀以来の近代憲法は、国家権力による、「人権」と「市民の権利」の侵害を防止し、また救済し保障するためのメカニズムを定めることをその役割とする。他方で、20世紀以降の現代憲法は、それに加えて 「第二世代の人権」を国民に保障するという役割をも引き受けた。これは、「人権保障のための役割分担」を想定する考え方である。 くりかえすが、憲法は、国家権力を構成する法であるから、人権保障のためのさまざまな役割のうち、国家権力が引き起 こす人権問題を引き受けるわけである。国家権力ではない、隣人や宗教団体や労働組合や会社やメディアが引き起こす人権問題は、もともと憲法が引き受けた役割分担には該当しないものなのである。

5 「人権」と「憲法上の権利」
日本国憲法は、その第三章の標題を 「国民の権利及び義務」とするが、そこに置かれた11条では 「この憲法が国民に保障する基本的人権」という言い方をする。ところがそれに続く12条では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利」という表現になる。これら三種の用語法は、解釈論上実は重要な問題を提起しているはずであるが、これまで十分に論じられてきたとは言えない。いったい人権と基本的人権とは同じものなのか。第三章に置かれた「国民の権利」はすべて 「この憲法が国民に保障する基本的人権」なのか。多くの憲法学説は、この点を―なか
ば意図的に―唆味にしてきた。帝国憲法に定められていた「臣民の権利」が「法律の留保」によっていわばないがしろにされ、 しかもそもそも 「臣民」の権利で しかなかったこととの対照性を強調するために、日本国憲法の定める権利は 「基本的人権」なのであると主張することは、戦略的には理解 しうるところではある。しかしそれは、本稿が述べてきた人権という語と思想の歴史からすると、もはやその拡張を通り越して逸脱と評さざるをえないものであった。「人権」と 「基本的人権」とに違いはないと考えるとすると、先に述べたように、20世紀の憲法は、人権をも定め、人権でないものをも定めているのであり、日本国憲法の一見したところ一貫しない用語法は、そのことをそのままに表現したものとして解釈するべきであるということになる。憲法は、人権と人権でない権利の保障を、国家権力との関係で引き受けるものなのである。
 日本社会にあふれる深刻かつ不幸な問題は、それが人権問題であるならば当然放置するわけにはいかない。それが国家権力によって引き起こされているのであれば、それは憲法問題である。人権問題でなくとも、憲法上の権利が国家権力によって侵害されているならば、当然それも憲法問題である。それらに応えることは、もちろん憲法学の任務である。他方で、それらが国家権力によって引き起こされているのでなければ、それらは憲法問題ではない。もちろん憲法学の任務でもない。とはいえ、侵害主体が異なるからといって、侵害されている利益が憲法上の権利と同じものであるのであれば、憲法学者が問題解決のために役にたつことはあるかもしれないし、憲法学者がそのために努力することは望ましいことであるかもしれない。そうは言ってもしかし、憲法と憲法学に、その「分際」を超えた過剰な期待をすべきではない。

【参考文献】 ①明治3年の民法編纂会議におけるエピソードの引用部分は、穂積陳重『法窓夜話』(1916年刊。岩波文庫版 〔1980年〕の214貢)によった。本書は「雑学」に属する部分も含めて、法学部生が知っておいて損のない逸話に満ちている。②明治21年の枢密院における森と伊藤の論争については、樋口陽一『一語の辞典/人権』(三省堂、1996年)25-6貢を参照。③トーマス ・ペインがhuman rightsという英語を最初に用いたという記述は、深田三徳『現代人権論―人権の普遍性と不可譲性』(弘文堂、1999年)3貢に負う。人が人であるがゆえにもつという人権の思想は、
もともと、それをどう論証するのかということを含めて哲学の領分である。法哲学者による本書は、詳細かつ難解であるが、挑戦する価値はあるだろう。④本稿では、日本の憲法学説における、「人権」「基本的人権」「憲法上の権利」等々の概念のさまざまな用いられ方については語らなかったが、この点については、辻村みよ子「人権の観念」樋口陽一編『講座憲法学 3』(日本評論社、1994年)ll-41貢を参照。⑤法学は実定法のみを対象とすべきであるとする考え方を (港)実証主義と呼ぶことがあるが、そのような立場と自然権としての人権 とがどのような関係にたつのかについては、本来であれば一定の考察が必要であるはずである。興味のある読者は、南野森訳「ミシェル ・トロペール
論文撰9(実証主義と人権)」法政研究74巻4号(2008年)161貢以下を読んでみてほしい。⑥最後に、「人権」と「憲法が保障する権利」とを区別すべきことを強調してこられたのが、奥平康弘教授である。体系書として、『憲法Ⅱ- 憲法が保障する権利』(有斐閣、1993年)がある。

(みなみの ・しげる)


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