メモ2 | ほたるいかの書きつけ

メモ2

「メモ」 の続き。

もはや mzsms さんを中心としたやりとりは視野外です。だいたい Judgementさんの最近の一連のエントリ及びそのコメント欄での議論を見て考えたことのメモです。メモなのでまとまっていません。まだまとまらない。けど書かないとまとまらないので出します。すいません。たぶんとても当たり前のことです。あちらでの議論の筋からも外れていると思います。応答とかそんなんじゃなくて、ちょっとこういう論理はどうなんだろう、というあたりで考えたことを。

 一言だけ述べておくと、「その後」の mzsmsさんのエントリを見てもわかるように(たぶん)、「科学」と「宗教」や「道徳」などとの「境界」についての分析がまだまだ大雑把なので、これ以上なにかを言う気はしません。どのあたりが大雑把と感じるかは前回のエントリに書いた。おそらくメタな視点があまりに強過ぎて、実際の現象でどうなっているかの分析が足りなくなっているのだと思う。抽象的に分けられるだの分けられないだの言ってても始まらなくて、具体的事例でもって検討を積み重ねていくことが大事だろう、とだけ指摘しておきます。

○戦場は選択できるか
 たとえば家族が怪しいものにハマってしまって、それをなんとかしたいとでも言うのであれば、しのごの言ってるヒマはない。こちらに選択権はなく、完全なる防衛戦である。しかしそれだけではないだろう。巷に溢れるニセ科学のどれを批判するかは「優先順位問題」と言われるようにそれぞれの人が選んでいるのである。なぜ選択できるかといえば、逆説的に聞こえるかもしれないが全面的な防衛戦になっているからである。つまり、そこらじゅうが戦場なのであり、どこで参戦するか、どこで陣地を築くかは実に消極的ではあれ批判する人が選んでいるのだ。
 優先順位問題の議論の仕方にもおそらくは色々あって、「○○の批判をしないのはケシカラン」的な主張はまったくもって非生産的ではあるが、「○○は批判する必要があるよね」「○○は興味のある人にまかせておいても当面は大丈夫かな」「○○を批判することは、社会的には□□という意味があるよね」という議論は意味があると思う。いやもちろん意味のある議論が可能だろうと思うだけだけど。ただ、たとえば学校教育における諸問題は「水伝」を通してあぶりだされるのではないか(全部ではないにしろ)、だとすると、「水伝」をキーとして教育現場の問題を批判していくことは重要ではないか、とか、そういう社会的な、あるいはある領域での「位置付け」としてどこに防衛戦の陣地を築くかということは議論する価値が(少なくとも原理的には)あることだと思う。

○「括る」ということ
 本質は常に現象をまとって現れる。我々が見るのは常に現象である。我々は「ニセ科学」を見るのではなく、個別の問題、血液型性格判断や水伝やマイナスイオンや波動やEMや…を見るのである。これらに共通しそうな要素を持つものを、「ニセ科学」と括ったわけだ。そしてその括りが一面の本質を衝いていたということは、その一言で世の中に蔓延する様々な問題の関連が見えてきたということからもわかるだろう。
 では、具体的にあるのが抽象的な「ニセ科学」ではなく個別の問題であり、批判は常にそれら個別の問題であるからと言って「ニセ科学批判」と括ることに意味はないのか?それは違うだろう。批判対象は「ニセ科学」として括られる「なにか」を持っているわけである。批判の内容は個別の問題に応じて違うのは当たり前で今更言うまでもないが、批判の対象はなんらかの共通点を持っているわけだ。だから、共通点を持っているものそれぞれへの批判を「ニセ科学批判」と括ることには意味があるだろう。
 様々な人が様々な観点で批判しているわけだし、誰かが指揮を下して批判をしているわけでもない。必要な場合はそのことを強調しなければならないこともあろう。しかしそれは逆に言えば客観的にはニセ科学を批判するということがある種の党派性を帯びるということであり、それは避けられないだろう。
 もっと言えば、「科学者」って一体なんだ、ということだ。「科学者」が行っているのは個別の課題についての研究であって、抽象化された「科学」をやっているわけではない。それでも「科学」や「科学者」と括ることには意味があるわけだ。そして、科学が重要であるという「価値観」はまるで常識のようになっているからなかなか気付かないが、それだって「科学が重要である」という「価値観」を我々は選択し、また科学を遂行するために「科学者」というものを雇うような社会の仕組みを作っているわけである。そのことは、論理的には科学に価値を見出す集団という党派性を持つわけである。
 いや、このあたりは相対主義と議論する際には当然の前提としておかないと話が噛み合わないと思うのだが、あまりに「括ること」「括られること」への忌避を正面に押し立てるのは、かえって変な方向に進みかねないという気がするのだが。
 各種のニセ科学を批判していくことに社会的な意味を付与しようというのであれば、そのようなニセ科学を対象とする批判を「ニセ科学批判」としてまとめるのは議論の出発点として大事なのではないかなあ。
 科学を大事にする、そして科学的思考を大事にするというのは一つの価値観だ。そしてそれは(いちおうは)社会的合意とされているはずだ。問題は、それがないがしろにされつつあるのではないか、ということだろう。一般の人々についてもそうだし、そのような科学的思考を教育することの放棄を迫っているのではないかとさえ思われるような政策いおいてもそうだ。科学を大事にするべきだという立場はアプリオリには出てこないだろう。だとすれば、その発想自体は「道徳」などと同列に語られるものだと思う。無論、その「御利益」が莫大であることが(テレビが見れるとかネットができるとか美味しいものが食べられるとかの「御利益」を良しとする立場であれば)導かれるわけで、それは「根拠」にはならないが「判断基準」として重要なものである。
 そして、そういう社会的なプロセスがあってこその「社会における科学」だという認識があればこそ、「科学ではない大事なもの」を大事なものとして認めようということにもなると思うのだが。


 念のために言っておくと、優先順位は強制されるものではないし、誰かの批判の方法に準拠しなきゃいけないというのもおかしな話だし、基本的にやりたい人がやりたいようにやればいい話なのだ。ただ、これだけ色々なものが蓄積されてきたのだから、それこそ「戦略的に」動こうと思えば動けるのではないのかなあ、と思うわけ。戦略をたてるだけの議論は無意味だけど、現象に寄り添いつついま必要なものはなにか、という議論が深まるなかで、じゃあそれは自分がやってみましょう、という人が出てくるのが理想的だと思うのですけどね。どうでしょう。
# 考えがまとまらんうちに考えながら書くと、やっぱし無駄に長くなるな。(^^;;