メモ | ほたるいかの書きつけ

メモ

最近の動きで色々と思うところはあるのだけれど、まとまって書く時間がないし、しかし書かないと深まらないのでとりあえずメモ。気が向いたら、後日エントリにしたいと思います。

○「ニセ科学」という概念はそんなに明瞭?「ニセ科学批判」が意味するものと、「疑似科学批判」が意味するものとはそんなに明確に違うのだろうか。中心課題は明らかに違うだろうけど(いや、「疑似科学批判」と言った場合はその意味するところも人によってかなり違うような気がするので、言葉だけでは判断できないな)、重なる部分もあって、それがまた議論に混乱をもたらしているような気がする。

○たとえば「ニセ科学」と「オカルト」は別物と言えるか?「占い」は?オカルトと言う人が多そうだけど、でもそれが「予知」「予言」的なものを含んでいたら、それは実証(検証)可能になるわけで、科学の俎上に乗っちゃうでしょう。逆に「水伝」だってその主張のコアはオカルト的な部分にあるわけで、そう考えると個別の「言説」について、ニセ科学かオカルトかと分けるのは意味がなくなる。さらに言えば「ルルド」みたいな話もあるわけで、宗教だって明瞭にラインを引けるわけではない(まあオウムだって宗教だったわけだし)。
 そういうわけで、ニセ科学の「定義」(括弧づきなのは勿論きちんと定義できる状況ではないからだ)として「科学ではないが科学を装うもの」というのは「標語」として機能はしても「そういうものがニセ科学だ」と言うには厳しいような気がする。ニセ科学がそうだ、というのは正しいと思うけど。
 あと「装う」の意味も、それこそ「誤読」されやすいのではないか。「意図」の有無がそこにあると誤解する人は多いような気がする。
 まあ「標語」だからいいんですけど。
 で、これは結局「科学」と「ニセ科学」の間のグレーゾーン、という問題にもつながる。「ニセ科学」と呼ぶことがレッテル剥しというのは一面正しくて一面では正しくない。なぜなら「それは非○○だ」というのではなくて「それは○○だ」と言うのであるから、そういう単純な(実に単純な)意味において、レッテル貼りである、という面はある(もちろんネガティブな意味で言っているのではありません)。単にレッテル剥がしだというのであれば、科学とニセ科学の間にグレーゾーンなんて存在しないのではないか(ここはもっと分析しないとわからないけど。確信は持てない)。

件のmzsmsさんのエントリ (どこにリンクするか悩みましたが私がブクマしたとこへ。なお、打ち消し線を引かなくてもいいのにと思います。論点としては重要なものが含まれていると思うので)については、気持ちとして共感するところもあるのだけれども、やはり「困った宗教」なりなんなりってのは科学の力を頼るのではなく、人間としてどうか、というところが本質だろう。これはブクマコメントで
fireflysquid fireflysquid ブックマークを削除する コメントを編集する 結局、「道徳」や「宗教」や「生き方」の問題として我々みんなが引き受けるべき問題について、外部(科学)が自分の代わりに「解答」を出してくれ、と言っているように見える。/「非科学」って、雑駁すぎ。 2009/04/11
と書いたし、また hietaro さんとこのコメント欄 でも書いた。で、この問題意識はT-3donさんのエントリ と重なる。
 ただ、じゃあそういうものに対して科学(あるいはニセ科学批判でもいいのだけれど、そういうと「ごっちゃにするな」とお叱りを受けるかな^^;;)が無力かというとそうではなくて、実証可能な部分についてトコトン攻めれば良い。で、実証不可能な部分(不可能なのが悪いと言っているのではなくて、ストレートに価値観が問われる部分)に彼らの主張を追いこめば良い。これは以前dlitさんが「水伝」と言語学の関係について書かれていたことと似ているのだけれど、たとえば「オウム」でもいいし「占い」でもいいのだけれど、客観的(科学的)に検証可能な部分については「それは間違ってるよ」と言えば崩壊する主張というのは多いだろう。それは「水伝」も同じで、「水伝」の場合は特に検証可能な部分がなければ主張全体が崩壊するので「オカルト的なニセ科学」というイメージが批判者の中にもあるのではないか。
 「客観的に検証可能」な部分を責められるということは実に強力な武器ではあるのだけれど、その使いどころを間違えると、それはものの価値という人間の高度な精神活動の所産が外部によって決定されてしまうという大問題を引き起こす。それは「水伝」が侵している誤ちに通ずるものがある。
 その意味で、今回、田部勝也さんがコメントされていた、mzsmsさんの主張が水伝のようなものに親和的、というのはわからなくもないのだけれど、しかしそれは「共通するものがある」というだけで、「親和的」というのは言い過ぎな気がする。なぜならば、それはmzsmsさんに限らず誰しもが陥りやすい誤りであると思うから。

○再び「占い」について。で、私は占いも批判する。批判するし、実証できないものをさも実証したかのような(たとえば「四千年の統計」みたいな)のはおかしいと批判するし、それは科学の面からの批判と言っていいだろう。だが、やはり本質はそこにはないのであって、己の人生をわけのわからん占いなんぞに頼るようでいいのか?という批判が対置されるべきなんだと思う。人として。

○我々はなにを目指しているのか?って「我々」ってナニ?となりますが、まあ要するにいわゆる「ニセ科学批判」の目的はなんだ?ということについて。これもまあ「色々」の一言で終わり、と言えばそうなのだけど、それでもまあ「完全撲滅」は実際問題不可能にしても、被害(詐欺から教育まで短中長期すべてにおいて)を極力減らしたいというのはそれなりに共通する気持ちなのだと思う。で、だとすれば、「どうすれば言葉が届くか」という問題は避けて通れないはず。
 で、これはJさん(Judgementさん)の問題意識 とも重なる部分はあると思うのだけれども、「水伝」を信じちゃうような、「ホメオパシー」にはまってしまうような、「EM」で環境問題は解決すると思うような、「マイナスイオン」で健康になると思ってしまうような、「血液型と性格には強い相関がある」と思ってしまうような人々(と考えていくと眩暈がするほど膨大な人数でしょ?)に、最終的には伝わらんといかんわけです。
 もちろん全員が伝える努力をする必要はないわけで、個別の問題についてどこがどう間違っているか詳細な分析をする人、なぜそれが広まるのかを分析する人、どう伝えるのか分析する人、どれくらい効果があるのか分析する人、それぞれがそれぞれの問題意識で深めていけばいいのだけど、大事なのは、「どれも重要で、発展させる必要がある」という認識を持つことではなかろうか。どうせ一人では全部できないのだし、自分が取り組めないところで頑張ろうという人がいれば、足をひっぱらずに支えられればいいと思う。だから、どうやって伝えるか、ということについて、「くだらん」と切って捨てるのはちょっと違うんじゃないか、と思う。
 もちろん(「もちろん」だらけですんません)、これは一面危うい部分もある。端的に言ってしまえば、相手を子ども扱いしていると取られかねないのだ。相手が大人であると信じられるからこそ、手厳しいことも言えるわけで、「厳しいことを言うと聞いてもらえなくなりそうだから遠慮しとこう」では本末転倒だし、どうやったら聞いてもらえるかに腐心することは、ある意味相手を信頼していないということにもなりかねない。
 で、そのハザマで悩むことになるわけだけど、こればっかりは相手のいることでもあるし臨機応変にやるしかない。ただ、本気でなんとか伝えよう、なにが問題で、なにが足りなくて、どうすべきなのか考えよう、という問題意識は大事にしたいと思う。
# このあたりは lets_skeptic さんの一連のエントリに色々あったはず(「はず」ってなんやねん>自分^^;;)。

このへん、「愛のあるS」としてのJさんに期待したいと思います。(^^)

というわけで、結論はJ(I)=S、と。(違
いやいや、まあ一連の流れを見ると、たしかにhietaroさん言うように「残念」という感想なんですよねえ。色々深めるべき天があるような気がするし。
 とりあえず書き殴った。独立したエントリには…しないかな。(^^;; まあでも今後なにかと反映されると思いますので、その際に。