愛すればこそ :p | ほたるいかの書きつけ

愛すればこそ :p

 kikulog のコメント欄で、TAKESANさんが紹介 していた早期教育に関する論文 を読んだ。
 でまあ今回はその話ではなく(内容は良いので御一読あれ)、そのあと、以前ここでも取り挙げた『子どもの貧困』 との関係だとか、「ホメオパシー」が貧困化と結びついて政策的に導入されたらいやだなあ、とか、そんなことを漠然と考えていて、ふと思ったこと。

 なんで私はニセ科学を批判しようとするのか?

 いやまあ以前も考えましたよ。理屈はいろいろあります。だけど、理屈ではなくて、感情の部分はなんなんだろう、と。なんでニセ科学を批判したくなるのか、と。

 どうやら、それは私がトンデモを愛しているから、と考えるのがいいようだということに気付いてしまったのだ。
 トンデモを愛しているからこそ、トンデモがニセ科学となり人を喰い物にするのが許せないんだと思う。
 トンデモはトンデモとして、ちょっと切ない気持ちで愛でていたいのだ。ハマッてしまって人生を無駄にしてしまう人には申し訳ないとは思いつつ。それこそ「町の発明家」みたいな人が楽しそうに珍「発明」をしたり、熱くUFOや宇宙人について語ったり、4次元の世界について語ったり(そーゆー意味ではアセンションで移行する5次元の話はつまらん!!)、そういうものを、文化として、受容したいと思うわけだ。

 ところが、現実にはびこる「ニセ科学」はそういうものではない。「水伝」のように人間の価値を貶めたり、「血液型性格判断」のように人間それ自体を見ずに優生学のように人を判別したり、ホメオパシーのように無知な人々を取り返しのつかない容態にしたり。要するに文化を破壊し、人間性を貶めるのが現実の「ニセ科学」なわけだ。というか、そういうものを批判しているわけだ。

 トンデモがニセ科学化し、暴虐の限りを尽くしていたら、楽しく愛でてなんていられないじゃないか。

 だから、たぶん、科学を愛するが故に批判する、というのではなくて(もちろんそれはあるんだろうけど)、それ以上に、トンデモを愛するが故に批判しているという側面の方が強いんじゃないか。私の場合。

 これは例えば、自衛隊の海外派兵を批判する心情にも通ずるものがあるだろう。
 これだって勿論海外派兵をすることが日本にとって世界にとってどういう意味があるのかという観点から批判を展開するわけだ。するわけだけど、でも単に論理的におかしいから批判しているだけではなくて、おそらく私を含めた多くの人は、日本を代表している集団が海外で人を殺すということに耐えられないからなんじゃないかと思う。日本が好きだからこそ、日本にはそういう役回りを演じて欲しくない、もちろん論理的に考えてどうしても日本がそういう役割を果たさなければならないことが国際社会の合意としてあり、実際それがもっとも合理的だという結論になればそれを認めるだろうけれども、実際はそうではない。だったら、「やめてくれ!」と叫びたくなるわけだ。日本が好きであるが故に、日本が海外で人を殺すことはやめてほしい、と。

 マンガや小説の中だけではなくて、現実の世界でバカやってる人はいっぱいいる。自分だって、まあ時にはやるわけです。罪のない、意味のないことを楽しくやるのは我々の権利でもあるわけだ。非生産的なことにどっぷり漬かっている姿というのは、ある意味「あこがれ」でもあるわけです。町のマッドサイエンティストになってみたいという心性はやはり自分の中にあるわけですよ。
 
 ちうわけで、まどーでもいい戯言ではあるのですが、今後もトンデモを愛でつつニセ科学を批判しようとあらためて思ったのでした。