最近、中国各地から特級品を含む様々な品種が輸入されるようになり、
当店にも一部が入荷致しました。
この特級たる素晴らしい金魚達は、
どのような場所で、
どのような思いを抱く人々に育まれてきたのだろうか?と、
大変興味を持ち、拙くも、再確認させて戴いた次第です。
以下に書かれることは、当然のことながら、
既に大多数の方が御存知のことだとは思われますが、
「金魚といふものへの思い」の一部として、この場を借りた次第であります。
本日、北京特大龍睛蝶尾の補足説明の一環として、
人民網記事 (人民日報社)を、
販売ページ大~特大 項に於いて、御紹介差し上げました。
(※リンクに際し、人民日報社様には電話にて許可を得ております。)
人民日報とは金魚の専門情報誌である筈もなく、
中国を代表する一般的な新聞であるのですが、
蝶尾品種の作出年度と産地別の特徴が、細かくわかりやすく分類されており、
そういった情報が一般新聞というメディアに載せられている事からも、
中国人民の金魚への関心の深さを垣間見ることが出来ます。
記事によれば、1961年に紅蝶尾が誕生し、
72年までの間に、ただ紅(あか)かった蝶尾は
様々な色彩表現を展開していったようですが、
72年の白蝶尾を最後に、93年の瑪瑙眼蝶尾※1まで、
21年に渡り、蝶尾の色彩変化は沈黙を守ることとなります。
(※1 瑪瑙眼蝶尾・・・眼球に瑪瑙色が配された蝶尾)
1972年というのは、文化大革命のまっただ中の年であり、
翌年の73年は批林批孔運動
(※リンク先参照)が起こり、
一層文革の激しさが増した時代でもありました。
これが金魚に対してどういう影響を及ぼしたのかといえば、
先ずもって、金魚というものは
宮廷文化と密接な繋がりを持つ生き物であります。
それは食べることが出来ず、ただ、「観賞」する為だけに生産されるという、
極めて「文化的」な存在であり、
「造反有理・革命無罪」のスローガンの下、ブルジョア的であるものとされ、
当時、糾弾・破壊の対象とされた養魚場も多数あったようです。
文革自体は、1976年に一応の終結宣言がなされますが、
その間、破壊・殺害された伝統工芸施設や職人達、宗教人や知識人らの数は、数百万人から一千万人以上とも言われております。
たった11年間続いた文革の為、
それらの貴重な施設や人材が忽然と中国から消えてしまいました。
その影響は長く続き、92年の全省都開放
まで(※リンク先参照)
中国の対外的・内的イメージに
何かしら歪んで見える部分を残してしまう結果となったのですが、
21年間沈黙した金魚達に何が起こったのかは知る術もありません。
しかし、苦難の歴史を乗り越え、
またここに素晴らしい姿で私たちの前に登場してくれたことを、
喜ばずにはいられません。
御存知の通り、ここ数年来、中国は激しく変貌しております。
年配の方の中には、改革開放中に文革で破壊された
技術・文化的なものの支援を日本に頼ってきたかよわいイメージを、
イコール中国人のイメージとしてお持ちの方も大勢いらっしゃる事と思われますが、当店・坂巻の留学中の知人の話で全く恐縮なのですが、
ここに一つの例を挙げさせて戴きます。
上海にお住まいのとある中国人老夫妻は、
日本で言うところの農協で、コオロギ養殖をしていらっしゃったそうです。
そのご夫妻は殆ど新聞も読めず、パッと見失礼なのですが、
全く文化的な趣味を持たないように見えたらしいのですが、
その実、文革前に奥様はキリスト教のシスターで、
旦那様は牧師であったそうです。
文革により身の危険を感じた二人は、表面上棄教し、
コオロギ養殖の農民として生活することにしたとの事でありました。
本当は彼らは、文字が読めて、
英語の詩を暗誦し、クラシックを嗜むご趣味をお持ちであったのに、
固くそれらを秘し、無知・無学な農民を装って生きてきたと仰っていたそうです。
改革開放が進み、何もわからないなりの老農夫婦が、
突然英語の詩を諳んじて、バイオリンを弾き始めることもあったと聞き、
私は耳を疑った次第です。
しかし坂巻に言わせると、
そのご夫婦は、とても「中国的」なのだとのことでした。
何を言いたいのかと言うと、
中国の故事成語にあるように「君子豹変」そのものであり、
中国に於ける最近の金魚事情も、
それに近い形で私たちの耳に、目に、
情報として飛び込んできているのではないでしょうか?
夜郎自大とは恐ろしいものです。
93年以降、21年の沈黙を忘れたように、蝶尾の色彩は激しく変貌し、
今や北京では、かつての文革で打ち捨てた
「宮廷文化的」な特級金魚を国家事業の一部として育成しております。
それが「蝶尾なら北京!」と中国人をして言わしめる所以であります。
今後、当地の素晴らしい金魚達を次々と御紹介してゆくことが出来れば、
私どものこの上ない喜びとなることと存じます。