「北海道開拓 移民」の話(292号2014年05月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第292号2014年05月号「北海道開拓 移民」の話

 戊辰戦争が終わった1869(明治2)年、北海道に開拓使が置かれ北海道開拓が始まりました。北海道開拓は囚人、屯田兵、移民の三段階で進められました。

 今月は「北海道開拓 移民」の話です。

   明治の初期に版籍奉還、廃藩置県など政治を大転換させて中央政府が誕生しました。目まぐるしく変化する制度改革に反対する不平士族による反乱が各地で起きました。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱等々、そして最後の西南戦争。これらの乱により多くの逮捕者が出ました。その逮捕者を収容する流刑の地として北海道が選ばれました。

 最初に建てられたのは樺戸集治監でした。この集治監の初代典獄であった月形 潔は囚人に開墾をさせ、食料の自給自足を行うと共に、刑期が終わった後には希望者に開墾した土地を与え、定住させることを目的として、囚人を開墾に従事させました。しかし、このやり方では北海道開拓は思うように進みませんでした。二代目典獄の頃から道路の開削、橋を架けるなどの土木工事、さらに鉱山開発にも囚人を使役するようになりました。囚人に過酷な労役が強いられましたが、これによって北海道の道路網が整備されました。
 囚人が作った道路を通って北海道開拓と北海道進出を狙うロシアに備えるために屯田兵がやって来ました。囚人は兵舎を建て井戸を掘りました。

 屯田兵の次にやって来たのが開墾のための移民です。この移民には「募集移民」と「自費移民」とがありました。開拓使は各県に職員を派遣して役場を通して移民を募集しました。
 募集移民の条件は「移民後3年間は米・塩・味噌を支給する他に15坪の家屋と小屋掛けに5両、さらに農具と家具を与え、初年には穀物、蔬菜の種を支給する。3年後には開墾した土地に開発料としてを1反歩(10アール)当たり2両を支給する」という手厚いものでした。無資産でも北海道へ行くと3年間は家と食べものがに不自由しない。その上、自分の土地を持つ自作農になれるというので、多くの応募者がありましたが、その多くは厳しい気象条件と困難な開拓に挫折し、開墾を放棄しました。

 この失敗から、開拓使は募集移民を止めて自費移民に切り替えました。自費移民はある程度の自己資金を用意して相当な覚悟で北海道に来ましたので、彼らによって北海道開拓は大いに進みました。

 ある自費移民の経験談に「3月に移民し雪の中で大木を伐採したが、雪が溶けたら、根本から2メートルの部分が残っていて再度伐採した。切った木の皮で家の外壁を補強し、屋根をふいた。残りの木に火を付けて地面の雑草や笹を焼いた。縦横に根を張っている樹木や笹の根を取ってある程度、土が見えるようにするのには1日かかって2坪がやっとだった。しかし、初年に植えたナス、蔬菜類は大収穫であった。各自ナスを持ちよって収穫祭を行った」とあります。

 移民たちは稲作を試みました。アメリカから来た農業指導者たちは「北海道では稲作は無理、麦を植えよ」と言いましたが、農民には郷里での経験がある上、稲作に拘りがありました。稲は米を収穫するだけでなく稲藁に無限の利用価値があります。縄、筵、俵、蓑、笠、わらじ、雪靴、動物の敷藁、資料、さらに肥料にもなります。
 川から水を引き寒冷地用に改良された米を植え、3年後に稲の作付けをしました。最初の年は殆ど実りませんでしたが藁は採れました。次の年には僅かでしたが米の収穫がありました。このようにして北海道に稲作が定着しました。 寒冷地ではありますが、地味豊かな土地に支えられ、北海道開拓は徐々に進みました。                  
小田眼科医院理事長 小田泰子