仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。

FC2ブログより引っ越しました。           
2009年12月~平日朝8時より早朝診察を始めました。どうぞご利用下さい。       
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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小田眼科ニュース医心伝信

第320号2016年09月号「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話



台風一過の好天、まだ湿気を含み暑い日になりました。お変わりなくおいでのことと存じます。

7月末にオーストリアのウィーンで第30回 国際女医会が開かれ、出席して参りました。成田から片道約12時間の空の旅、疲れました。
 国際会議ですので、世界各国から出席者があります。夕食会で隣になったのはオーストリアの皮膚科医でした。かなり高齢の方で、伺うと1925(大正14)年生まれで、91歳とのことでした。また「私の大叔父はハインリッヒ・ハラーと言って戦争中にパキスタンに幽閉され、ヒマラヤを越えて脱出した人である」と話をされました。

 帰って調べました。ハインリッヒ・ハラーは登山家で、アイガー北壁の登山に成功したドイツ登山隊の一人としてイギリス領インド(パキスタン)にいました。その時、第二次世界大戦が勃発し、帰国する為の船を待っていた登山隊一行は敵対国の国民としてその場で拘束されました。その後、捕虜収容所から数度の脱走を試みた後、成功し、ヒマラヤを越えてチベットに逃れダライラマに保護され、聖都ラサで暮らしました。1951(昭和26)年、中国がチベットに攻め入り、ダライラマがチベットを去るまでの記録を『チベットの七年』として出版しました。

 それで、今月は「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話です。

 ウィーンでは会議の合間に市内観光に行きました。観光バスは何系統か走っていますが、すべてイアホーンで日本語の解説が聞かれました。ドナウ川の近くにあるバスプールを出てシェーンブルン宮殿巡りのコースに乗りましたら、観光案内はサラエボ事件から始まりました。当時オーストリア領であったサラエボに新婚旅行をかねて視察に行ったオーストリア皇太子が暗殺された事件です。オーストリアは第一次世界大戦のきっかけとなる事件が起きた国でした。

 オーストリア生まれのヒットラーはドイツ国籍を取得し、ドイツ総統となった後の1938(昭和13)年にオーストリアをドイツに併合しました。そのために、オーストリアは第二次世界大戦末期、西側陣営から徹底的に攻撃され、ウィーンは大きな被害を受けました。その時破壊されなかった建物と修復された建物が道路沿いに延々と並んでいます。新しい建物には外装の飾りは無く、如何にも安普請といった感じで、古い建物との差は一目瞭然です。かつての見事な街を想像すると古都ウィーンがいかにひどい破壊を受けたのか、それをオーストリアの人々がいかに悔しく、残念に記憶しているかは、観光案内の解説でも知ることができました。敵から街を守る為に築かれた街壁、石造りの建物群がまだらに残るオーストリアの復興と日本の焼け野原からの復興、それぞれに大変であったと改めて感じました。

 帰国したのは8月。日本都市への無差別攻撃。広島、長崎への原爆投下は、一般市民に対するナチスによるホロコースト以上の残虐行為ではないか。なぜ、ウランとプルトニウム成分の異なる2発の原爆を落としたのか、天皇陛下のお言葉、オリンピック、全国高校野球など、喧噪の中で、いろいろな思いを新たにしました。
 特に印象が深かったのは「NHK特集 科学と戦争」でした。科学者がその頭脳で生み出した、あらゆる成果は戦争に使われました。火薬、飛行機、レーダー、戦車、通信技術、毒ガス、核融合…。戦争はまた、科学や技術を進歩させます。戦争は医学の進歩にも貢献しました。戦傷に対する外科治療、レーザー光線の医学的応用、白内障の眼内レンズのヒントはドイツ軍戦闘機の風防硝子の破片が眼に入ったことでした。

 「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を置きて去る」 金子兜太
                               トラック島を去る時に詠む。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第319号2016年08月号「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話

    72回目の終戦記念日がやって来ます。1937(昭和12)年に作曲家・信時 潔は大友家持の歌の一部「海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草むす屍…」を歌詞にして「海ゆかば」を作曲しました。これは国民の戦意高揚を意図されて作曲依頼された曲で、太平洋戦争中は、大本営発表や、部隊の玉砕を伝える際にラジオから流されました。

 そのすぐれた調べから第二の国歌ともいわれました。そのためもあって戦後一時、この曲の放送が禁止されました。

   それで、今月は「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話です。

   戦争をするには軍隊が必要です。軍隊には必ず軍医が付き添います。第二次世界大戦のころには日本には現在の防衛医大にあたる軍医養成学校はありませんでした。
 当時、軍医になるには二つの道がありました、一つは医学生に奨学金を支給して卒業後は軍医として勤務する約束をする道、もう一つは赤紙で応召されて軍医となる道です。戦争が始まると、45歳以下の医師(開業医・勤務医)に赤紙が来ました。この場合、多くの医師は軍医を志願しました。軍医としての勤務を拒否すると二等兵扱いですが、軍医であれば将校扱いとなります。
 軍医となっても、勤務が日本国内の軍病院や野戦病院であれば戦死する危険は低いのですが、海軍の場合は軍艦に乗船すれば戦死の可能性が高くなります。特に潜水艦に乗組んだ場合は沈没すれば確実に死亡します。
 ドイツ軍は「軍医は貴重な人材」とされていたので潜水艦には軍医ではなくて、衛生兵が乗っていたということです。
 戦地では、兵と共に多くの軍医が戦死しました。長引いた日中戦争のころから、日本軍は軍医不足に悩まされました。
 国は促成の医師養成を開始しました。医師でさえあればいつでも軍医として徴兵できます。  昭和15年5月、七帝大の医学部と六医大に医学部よりも教育期間が短い「医学専門学校(医専)」を新設し、医師の養成を始めました。それでも不足する医師を補うために、国は歯科医師を教育して医師免許を与える「臨時科」を慶応義塾大学と慈恵会医科大学に開設しました。ここでは歯科医師を医学部3年生に編入させて教育し、医師免許を与えました。さらに、第二次世界大戦末期の昭和20年4月には各県でも歯科医師に医学教育をし、6か月の実施修練を行った後に医師免許を与える道を作りました。それでも男性医師はどんどん戦地に送られたた結果、国内で医師不足となりました。国は札幌、秋田、福島、名古屋、高知などに、女子医専を新設し、女性医師の養成を行いました。
 このため、戦後の日本は復員してきた医師、引き揚げてきた医師、国内で速成された多くの医師による医師過剰に悩まされました。
 北大医学部を昭和20年に卒業し、いまは98歳になられる今村昌耕氏がその時代について以下のように述べておられます。
 「第二次世界大戦中には大正時代生まれの男子、1,340万人中200万人(15%)が戦死しました。これは全軍人戦死者の83.3%を占めています。私は海軍に所属しましたが、海軍軍医については、昭和17年に医学部を卒業して海軍軍医になったのは475人で、そのうちの108人、18年卒業では578人中164人、19年卒業では675人中106人、計2,107人の海軍軍医中、379人(約20%)が戦死しました。」
 陸軍でもそれ以上の軍医が亡くなられたはずです。戦争では、戦地で軍人が、内地で一般市民が空襲などで命を落としました。戦争はもうこりごりです。  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第318号2016年07月号「私の8月15日(18)平和憲法」の話

     日本国憲法は、今から70年前の昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されました。いま、憲法改定論議が盛んです。

   それで、今月は「私の8月15日(18)平和憲法」の話です。

   今、論議を呼んでいるのは集団的自衛権の行使容認を含む、安全保障関連法案をめぐる問題です。

 集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国が武力攻撃を受けた場合、自国が直接攻撃されていなくても、実力で阻止する権利」です。これまでの政府は憲法第9条で許容される自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどめるべきであり、集団的自衛権を行使することは、憲法上許されないとしてきました。ところが、現政府はこれまでの解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとしています。

 戦争、武力闘争、そして暴力の応酬が絶えない今日の国際社会で、日本国民が全世界の国民とともに、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指し、平和憲法を守る意義は極めて大きいと考えます。

 終戦後、平和憲法が制定されましたが、その経緯についてマッカーサーは次のように述べています。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるように言ったのは幣原首相です。首相は、私の職業軍人としての経歴を考え、このような条項を憲法に入れることに私がどんな態度をとるか不安であったと言っておられました。この提案を聞いた私は、最初は驚きましたが、心から賛成であるというと、首相は安堵の表情を示され、私は感動しました」。

 幣原氏はこの事について秘書の平野三郎氏に「口外無用」と口を封じましたが、昭和39(1964)年2月に憲法調査会が開かれた際に、時の憲法調査会会長・高柳賢三氏(英米法学者。東京大学名誉教授)の説得で、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみて、あえて公にすることにした」として、平野氏は調査会にその経緯を書いた、いわゆる「平野文書」を提出しました。これは、憲法調査会の参考資料として正式に採択され、現在、国立国会図書館に保管されています。平野氏にこの文書を公にするように迫った高柳氏は「私は第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っています。自衛権は本来的にあるという意見がありますが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥になってしまいます」。と語り、さらに「日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しいと希望されたのは天皇陛下でした。天皇のこの考えがマッカーサー元帥を動かしたのです。元帥に直接言ったのは幣原首相ですが、戦争放棄自体は天皇のお考えです」と言っています。

 第3代米大統領ジェファーソンは「政府は信用してはならないものであり、憲法は国家の暴走・国民に対する横暴を抑えるためのものである」と言い、井上ひさしは「私たちがときの政府に対して命令するというのが憲法で、ときの政府が国民に命令するのが法律です。では、その国民の命令と政府の命令がぶつかった場合にどうするか。常に憲法のほうが優先するのです」と説明しています。   憲法は、政権の力を制限することによって、国民の権利、自由、安全などを確保するためのものです。憲法は国民のものであり、すべての国民は憲法によって守られなければなりません。戦争を経験した人々がだんだん少なくなっています。次の世代のために平和憲法をしっかり守りたいと思います。                  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第317号2016年06月号「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話

 昭和21(1946)年1月4日、GHQはポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として、好ましくない人物「軍国主義者・国家主義者等」を国会議員・報道機関・団体役職員などの公職から追放し、政治活動も禁ずる公職追放(パージ)指令を出しました。これは翌年、対象範囲が拡げられ戦前・戦中の有力企業や軍需産業の社長・幹部、市町村長・助役・町内会長等、さらに教員も対象になりました。

   それで今月は「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話です。

   GHQによるこの指令は戦後の国民生活に大きな混乱を起こしました。パージを受けた人は実質的に社会から抹消されたも同然でした。しかも、パージの対象が中央に留まらず、地方にまで拡大された結果、全国で20万人以上、その家族を含めると100万人以上の人のその後の人生に大きな影響を与えました。

 この指令は日本の指導者を戦争に積極的に協力した軍国主義者とそれ以外の者とを分けるものであり、初めのうちは機械的に公平に実施されましたが、次第に政治的色合いが加味され、日本の政治指導者を刷新するための手段として利用されました。戦後初の国政選挙に勝利し首相の座に着く直前になされた鳩山一郎氏の追放令はGHQの見せしめであったといわれています。鳩山氏がパージされて以後、GHQに反旗を翻す人はいなくなったということです。

 この指令で政党幹部に追放者が続出したために、政界は流動化しました。企業でも戦前からの経営者が追放され、創業者でもオーナーでもない、それまで重役になる見込みのなかった若手の社員が役員に押し上げられ、会社の実権を握るようになりました。源氏鶏太氏の小説『三等重役』はこのような時代背景で書かれたものでした。

 さらに、その年の11月にパージの範囲が市町村長・助役・町内会長などにまで拡げられました。終戦以前から市町村長や助役をしていた者、町内会長、隣組長であった者らすべてがパージになり、地方選挙への立候補も制限されました。この追放令の拡大によって地方自治体は混乱しました。

 こうしたきびしい措置にもかかわらず、追放該当者と思われる者がそのまま現職に居座ったり、行政の外部団体の役職に就いている例があり警告が出されました。

 教員に対する公職追放は、特に国策に協力した国粋派の教師や管理職について、互に指名追放する方法がとられたために、教職員間に不信感、不安、動揺をきたし、教育現場は大きくゆれました。

 これに加え、戦時中の住民組織である隣組にも影響がありました。隣組は5軒から10軒の世帯を一班とし、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、消火訓練、怪我人の介護訓練、竹槍訓練などを一緒に行うだけでなく、住民同士の相互監視の役目も担っていました。食糧などの生活物質が隣組を通して配給されたため全員が隣組に組み込まれました。しかし一部の隣組長には、戦争に批判的なインテリ層などに圧迫を加えたり、配給物資を独占したり、一部の世帯に優先的に分けるなど「えこひいき」的な行動を行った人もいました。そのような人は、このパージにより役目を追われたばかりで無く、その地に住み続けられないような状況も起きました。パージされた人の多くは名誉を失ったばかりで無く生活の基盤をも失いました。

 というわけでパージは日本中の組織、人心、生活にGHQが予期した以上の変化をもたらしました。一方、それまで、何の役目も与えられていなかった若い人たちに、責任ある役職が回ってくることになり、指導層が若返る、いわゆる「三等重役」現象が起き、風通しが良くなりました。

 この指令は昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅しました。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第316号2016年05月号「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話

   風香る5月、ゴールデンウイークの日々の天候は思わしくありませんが、お元気でおいでのことと存じます。「私の8月15日」シリーズ中々終わりません。しばらくおつきあいをお願いします。

   今月は「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話です。

   東京裁判の結果、東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、松井石根、武藤章ら7人のA級戦犯に死刑が宣告され、昭和23(1948)年12月23日(当時は皇太子であった現天皇陛下の誕生日)に刑が執行されました。その翌日、岸信介を含む19人のA級戦犯容疑者は全員釈放されました。

   刑が執行される前、東條英機は遺言として「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反していない。敗戦については総理大臣であった私の責任だ。しかし、この戦争が国際犯罪であると訴えられ、敗戦国の個人が犯罪者、条約違反者として糾弾されるとは考えたこともなかった」と裁判の不当性を指摘しました。これはこの裁判を行い、傍聴し、聞き知ったすべての人々の共通の思いでした。

 東京裁判で死刑になった7人のA級戦犯は、戦争の共同謀議と捕虜虐待の監督不行き届きを問われた人たちだけでした。この人たちはすべて東京でそれぞれの役目を果たしていました。広田弘毅は外務大臣として、事件の信憑性そのものが疑われる「南京大虐殺」を阻止しなかったこと、木村兵太郎はビルマ戦役で、板垣征四郎は満州とマレーで、土肥原賢二はシンガポールで、武藤章はフィリピンで捕虜虐待を阻止しなかったこと、東條英機は総理大臣として幕僚を取り締まらなかったことの罪を問われました。

 共同謀議については、毎年のように内閣の顔ぶれが変わった当時の日本議会のありようを知りますと、お門違いの「なんくせ」という感じがします。

 戦前、日本が中国を始め朝鮮半島への共産党進出を防ぐ防波堤としての役目をはたしていた事は国際的に認められ、日本が旧満州の統治に力を貸すことは世界的な了解事項でした。中国の蒋介石にとって、日本は自分の権力を強め、中国の皇帝になるという野心を遂げるためにアメリカの力を借りる時間稼ぎに利用するものでしかありませんでした。第二次世界大戦後、ソ連の援助を受けた毛沢東の軍が、蒋介石を中国から追い出し、中国は共産党支配国になり、朝鮮半島も南北の分断国家となり、北朝鮮は共産党支配国になりました。

 戦い済んで日が暮れて、アメリカは共産党の台頭という誤算に直面しました。昭和25(1950)年、ソ連の後押しを得て北朝鮮が国境を越えて大韓民国に攻め入る事態になって、アメリカは日本が果たしていた役割、日本の主張が正しかったと初めて認識しました。その結果が、1月号で紹介したマッカーサーの証言「アメリカが過去100年に東アジアで犯した最大の政治的過ちは、共産主義が中国に勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである」です。日支事変で、のらりくらりと戦争を長引かせていた蒋介石がこの結末を予想できたら、蒋介石の行動は変わっていたかも知れません。

 戦後、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀は日本による保護を希望しましたが、ソ連に拉致され強制収容所に収監されました。東京裁判で証言台に立たされた溥儀はすべての罪を日本に押しつけました。

 満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にありました。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中国の主権下にあるべきとし、このことが日本が国際連盟から脱退する主要な原因となりましたが、その後、ドイツ、イタリア、タイ、スペインなどの中立国は満洲国を承認し、ソ連も満洲国と相互に領事館設置を承認するなど、多くの国と国交が結ばれ、独立国として承認されました。共産党に対する防波堤となることが期待されたのでした。  第二次世界大戦末期にソ連は満洲に侵攻し、満洲国は滅亡しました。その後の中国における毛沢東の台頭、紅衛兵、文化大革命等は記憶に新しいことです。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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2016/4/7~4/10、仙台国際センター・東北大学百周年記念館にて。
(山形大学眼科学教室主催)

緑内障の「視野」と「視覚障がい者を支える」の講演を聴いてきました。
普段の診療に役立てたいです。

ビジョンバン

東日本大震災での眼科診療に貢献したビジョンバン。
熊本地震で困っている方々の為に活動の機会があるといいと思います。

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第315号2016年04月号「私の8月15日(15)東京裁判」の話

    第二次世界大戦が終わった後、日本の戦争犯罪を裁く「極東国際軍事裁判」(東京裁判)が開かれました。この裁判はドイツで行われた裁判(ニュ-ルンベルク裁判)とつじつまを合わせるべく開かれたもので、ユダヤ人の虐殺を行ったドイツと日本とでは、多くの点で異なっていたにも拘わらず強引に裁判が行われました。

   それで今月は「私の8月15日(15)東京裁判」の話です。

   東京裁判は、昭和21(1946)年から昭和23(1948)年まで、東京・市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部で開かれました。執行委員会(検察官)11人、裁判官11人はすべて戦勝国から選定され、中立国からは任命されませんでした。弁護人団は日本人8人、アメリカ人20人で構成されました。

 開廷の冒頭、主席検察官キーナン(1888-1954)は「昭和3(1928)年から20(1945)年に至る期間、日本はナチス(ドイツ)やファシスト(イタリア)と同質の軍閥によって支配されていた。その軍閥により日本国民は勝ち目の無い戦争にひきずりこまれた。日本国民は被害者である。日本軍部は文明に対し宣戦を布告した。この裁判は全世界を破滅から救うために断乎たる闘争を開始する」と起訴状を読み上げました。  太平洋戦争の始まりは昭和3(1928)年に起きた満州事変からであるとする考えは日本には承服しがたいものでした。日本はポツダム宣言は受諾しましたが、受諾したのは太平洋戦争についてのみで、それ以前の満州事変や日支事変は問題外と日本は理解していましたが、連合国側は聞く耳を持ちません。

 弁護人となった清瀬一郎(明治17-昭和42)氏は、この法廷には「平和、人道、殺人」に対する罪を裁く権利が無いと、管轄権忌避動議を行いました。ポツダム宣言の時点では戦争犯罪は交戦法違反のみでした。その時に法整備がされていなかった平和、人道、殺人に対する罪を裁く権利がないのは当然です。検察団は痛いところを突かれました。数日後に裁判長は「この問題については将来、宣告する」と返事をしましたが、結局、その説明は無いまま、裁判は終わりました。

 この裁判は世界中から批判を浴びましたが、GHQによる言論統制の厳しかった時代、日本のメディアが自由に報道し批判できる状態にはありませんでした。

 裁判で弁護人の1人となったファーネス(1896-1985 米軍人・弁護士)は、裁判の公平を期すために中立国側からの判事が必要であると言い、ブレイクニー(1908-1963 米軍人・法律家)は「戦争そのものは国際法上合法である。戦争は国家の行為であって個人の行為ではないから、戦争犯罪人として個人を裁くのは間違いである。戦争が合法である以上戦争での殺人は合法である。そうでなければ広島・長崎への原爆投下、日本の都市に無差別爆撃を行った国の人間に、被告を裁く資格は無い」と述べました。このブレイクニーのバクダン発言は同時通訳が即時に停止され、多くの日本人傍聴者には聞き取れませんでした。

 さらに、裁判そのものへの批判として、弁護側が提出した3,000件を超える資料(日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)の2/3が却下されたにも拘らず、検察側の資料は伝聞や偽証と考えられるものでも、その信憑性を確かめること無く採用されました。この時用意された日本側の資料は『東京裁判却下未提出弁護側資料』として出版されています。  結局、この裁判で7人の日本政府高官が死刑になりましたが、これは裁判という名を借りた黄色人種への人種差別が基礎にあるリンチ、「勝者の裁判」などと言われています。

 昭和27(1952)年に、日米間で講和条約が締結されましたが、未だに東京裁判の不当性は、つまびらかに検討されていません。                       
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第314号2016年03月号「私の8月15日(14)ABCD包囲網」の話

 平成28(2016)年1月、両陛下がフィリピンへ慰霊の旅をされました。戦争の記憶を風化させまいとする御意思の表れで、これは悲惨な戦争を経験した人々の共通した思いでもあります。昭和16(1941)年12月8日、日本は遂に太平洋戦争に突入しました。そこに至った理由はいくつかあります。

 それで今月は「私の8月15日(14)ABCD包囲網」の話です。
 
 それまで日本は日清戦争、日露戦争を戦い勝利しました。日本が力をつけてくることを快く思わない国が出てくるのは当然です。その一つがアメリカ(以下 米)でした。その頃、支那へは英・仏・独・露が租借地などの形で進出していました。オランダ(蘭)はインドネシアなどに進出しており、日本も満州国に関わっていました。西部開拓などを終えた米はアジアに進出するチャンスを狙い始めました。

 大正9(1920)年、カリフォルニアで、日本人移民の土地所有を禁じる法案が州議会を通過しました。これが日本人排斥の始まりでした。勤勉で次々に荒れ地を開拓して成功する黄色人種が疎ましくなったのです。この法に多くの州が追随しました。さらに大正13(1924)年、米連邦政府は「絶対的排日移民法(帰化不能外国人移民法)」を成立させました。ここまでされて日本の対米感情は一変しました。これが日米開戦の底流となりました。

 昭和4(1929)年10月24日、ニューヨークの株式暴落から世界大恐慌が起きました。これも第二次世界大戦の原因の一つになりました。

 昭和12(1937)年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋の近くで、夜間演習を行っていた日本軍が銃撃を受けました。これをきっかけに日本軍と蒋介石軍とに武力衝突(盧溝橋事件)が起き、日本は広大な支那大陸で、米から武器供与を受けて戦う蒋介石軍と泥沼の日中戦争に引きずり込まれました。盧溝橋事件の真相は謎に包まれていますが、この後、世界の対日感情が悪化し、日本は、経済封鎖(ABCD包囲網)をされることになりました。(A=米 B=英 C=支那 D=蘭 Dutch)これにより日本は太平洋戦争に向かわざるを得なくなりました。

 この経済封鎖を画策したのは、チャーチル(英)でした。第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻で始まりましたが、それを阻止しようとした英は苦戦をしました。この事態を解決するには米を戦争に引きずり込むしかないと英は考えました。

 しかしルーズベルトは絶対に参戦しないという公約を国民に掲げて当選した大統領でした。それで、英は日米間に戦争を起こさせて、日本と同盟関係にあるドイツと米が戦うように画策しました。

 英は米に、日本に対する石油禁輸措置を持ちかけました。石油をまったく輸入できなくなった日本は蘭領インドネシアから石油を得ようとすると、英米はそこにも日本への石油輸出禁止を働きかけ、昭和16(1941)年8月、遂にABCD包囲網が完成しました。それまでも米は次々に日本へ締め付け政策(在米日本人隔離、日米通商航海条約失効、石油、鉛、鉄屑の輸出許可制から禁止、日本の在米資産凍結)等を行ってきました。これらの政策に対して日本は辛抱強く抗議しましたが、米は全く聞く耳を持ちませんでした。米は日本が攻撃してくるのを待っていたのです。

 石油備蓄の限界を切った日本陸軍は渋る海軍を説き伏せ、米に「宣戦布告」をすると同時に、真珠湾にあった米太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけ成功しました。ところが日本が送った対米宣戦布告が大使館員の不手際で米への伝達が遅れ、日本は無警告で攻撃をした。卑怯だという汚名を着せられ、米国民の世論は一気に開戦に振れました。日本軍の暗号解読に成功していた米は日本軍の動きの一切を承知していましたが、そのことについては口を閉じていました。
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