仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末までで終了いたします。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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第332号2017年09月号「ベトナム」の話


雨続きであった8月が過ぎ、長雨の季節を迎えました。皆様、お変わりなくお過ごしのことと存じます。ニュースをお届けします。

お盆休みを利用してベトナムへ行って参りました。ベトナムは、ぎらぎらと輝く太陽の下の高温多湿、多くの世界遺産は、階段を100段以上がった丘の上にあり、汗まみれになりながらの過酷な旅でした。

 それで、今月は、「ベトナム」の話です。

ベトナムはかつて仏領インドシナと言われていた国です。幕末の1847(弘化4)年フランスがベトナムを植民地にするべく侵略を始めました。

 それ以後、多くの争いを経て、結局、42年後の1889(明治22)年に、ベトナムはフランス領インドシナとなり、フランスの植民地になりました。

 日本にペリーが来たのが1853(嘉永6)年のことでしたから、フランスがベトナムに手を出し始めたのは、その6年程前のことでした。幸い、日本はアメリカの植民地にはなりませんでしたが、開国後、日本では幕府が崩壊し明治維新が起きるなど大きな混乱を経験しました。

 フランス植民地時代、ベトナムでは過酷な支配に多くの抵抗運動が起きました。1940(昭和15)年、第二次世界大戦中フランスがドイツに負け、フランスにドイツよりのヴィシー政権が誕生しました。ドイツと同盟国であった日本軍はベトナムの独立を支援しましたが、1941(昭和16)年、日本が第二次世界大戦に参戦してから、植民地解放運動は混沌となりました。それでも1945(昭和20)年、日本の援助を受けてバオ・ダイ帝がベトナム帝国の独立を宣言しました。

 この帝国はジュネーヴ協定により北緯17度線を境に南北に分断されはしましたが、ベトナム民主共和国(初代主席ホー・チ・ミン)が誕生しました。その後のベトナム人民の悲願は南北統一となりました。

 束の間の平和が続きましたが、1961年5月、ケネディ米大統領は「軍事顧問団」という名目で、実際は南ベトナムでベトナムの南北統一運動を展開するいわゆる「ベトコン」の掃討を目的とした特殊作戦部隊の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、ベトコンにクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤等を使用する攻撃を開始しました。アメリカはベトナムが共産圏に引き込まれたら、東南アジア全体がドミノ倒しのように共産化すると考え、それを恐れたといわれています。アメリカは「ベトコンはすぐに降伏する」と思っていまが、戦争は長期化しました。

 ついに、ベトナムでの戦争はゲリラ戦になり、ジャングル戦になりました。民間人も軍人も関係なく、子供までもが戦争に巻き込まれました。そこで、アメリカは、ジャングルを丸裸にするべく、猛毒の枯葉剤を空中から散布し、北ベトナムに255万トンもの爆弾を落としました。太平洋戦争中、日本が受けた爆弾の量は正確かどうかは不明ですが、13万トンといわれています。国土の広さに差はありますが、約20倍の爆弾を落としたのです。それほどの攻撃をしても、アメリカはベトナム戦争で勝利することができませんでした。

 アメリカは国内外の戦争反対運動と若者の厭戦気分、経済的負担もあり、攻撃を続けられなくなりました。暗殺されたケネディの後を継いだジョンソン大統領は北爆停止を宣言しました。しかし、次に選出されたニクソン大統領は、時にはジョンソン時代を上回る激しい北爆を行いながらも「名誉ある撤退」を訴え、遂に1973(昭和44)年、ベトナム和平協定が調印されました。フランスがベトナムに進攻してから約156年、フランス植民地になってから80年以上、アメリカが介入してから12年に及んだベトナム独立闘争は遂に終わりました。アメリカはベトナム戦争に「敗北」し、ベトナム社会主義共和国が誕生しました。

 ベトナム戦争といえばピュリッツア賞を受賞した澤田教一(1936-70)氏の『安全への逃避』(銃弾を避けながら川を渡る母子の写真)が思い浮かびます。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第331号2017年08月号「遺伝子組み換え」の話


暑い夏を迎えています。皆様いかがお過ごしでしょうか。 最近のニュースとして仙台市長選挙がありました。おかげさまで郡和子市長が誕生しました。本当に有り難うございました。でも、これからが大変です。今後ともよろしくご支援下さい。

 最近、世界的に遺伝子組み換え食物が多く生産されるようになり、すでに日本の輸入穀類の半量以上は遺伝子組み換え作物であると推定されています。私達は選択の余地無く遺伝子組み換え食物を直接、または間接的に(組み替え飼料で育てられた動物の肉など)食べています。
 遺伝子組み換えとは何なのか、どこが問題なのかを調べました。

 それで、今月は、「遺伝子組み換え」の話です。

 「遺伝子組み換えとは、遺伝子工学の手法を用いて試験管内で遺伝子を組み換えること」と定義されています。

 遺伝子組み換えによって、除草剤耐性、病害虫耐性を持ち、貯蔵性が良くなる作物などが開発されますと、農薬使用量が減り、害虫被害が少なく、病気にかかりにくい作物ができます。その結果、収穫量が増え、保存による損耗が少なくなることで農業経は安定し、安価で安全な食品の供給につながるという点で消費者にとっても大きなメリットがあると考えられます。

 厚生労働省と内閣府食品安全委員会は、平成29年2月16日現在で、遺伝子組み換えを行ったジャガイモ、ダイズ、テンサイ、トウモロコシ、ナタネ、ワタ、アルファルファ、パパイア等8作物310種類について、安全であると宣言しました。アメリカ合衆国では遺伝子組み換え手法に厳しい規制が設け、このガイドラインは日本での規制の基礎となっています。

 最近「スギ花粉症緩和米」の研究が進んでいます。スギ花粉症は、日本では近年特に罹患者が増え、春を憂鬱にする原因となっています。スギ花粉症緩和米というのはスギ花粉のアレルゲンを持つ米のことです。その米を毎日食べ続けることにより、スギ花粉に対する免疫を獲得してスギ花粉症を減らすことを目指しています。成人が一日一合、毎日食べることで十分に効果があると期待されています。ただし、スギ花粉症緩和米は医薬品とみなされ、まだ、商品化のメドは立っていません。この他、涙の出ないタマネギ、褐変しにくいリンゴ、鉄分が豊富な米などの研究もされています。

 食用でない植物の遺伝子組み換え研究の一つに花があります。

 青いバラは世界中のバラ愛好家の夢とされており、英語でBlue Rose(青いバラ)という言葉は「不可能」を意味するさえいわれていました。

 1990年にサントリーとオーストラリアのバイオベンチャー企業とが青いバラ作製の共同研究を始めました。翌年、青いペチュニアから遺伝子の取得に成功し、94年にはペチュニアの遺伝子を導入したバラを咲かせる事に成功しました。残念なことに、このバラは青くなりませんでした。95年に、同じ操作をしたカーネーションは青い花を咲かせました。これは翌年に「ムーンダスト」として商品化されました。研究はさらに続けられ、パンジーの青色遺伝子を入れたバラが咲きました。これは青とは言いがたい程のピンクがかった色でした。より濃い青いバラを咲かせるべく研究が続けられました。それから約12年後の2009年11月、遂に青いバラ「アプローズ」(日本名・喝采)、花言葉は「夢 かなう」の作製に成功しました。

 しかし、遺伝子組み換えによる生態系や環境への影響、経済問題(野菜などの種を毎年買う必要がある) 、倫理面 、食品としての安全性などに対する人々の抵抗感は未だ根強いものがあります。
 本当はどうなのかは分かりませんが、問題が明らかになった段階では遅すぎると警鐘をならす人もいます。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第330号2017年07月号「安倍総理の失言 私は立法府の長」の話


 今朝は梅雨特有の空が広がっています。皆様お変わりなくおいでのことと存じます。
 仙台市長選挙の公示日が近づいて参りました。都議会選挙はたけなわです。防衛大臣の不用意な発言は日本の国の未来を心配させるものでした。今月は久しぶりで、今のことを話題にしました。

 6月末、通常国会の会期末を迎えて政府与党の強引な国会運営が目立ちました。テロ等準備罪、憲法改正など、数を頼んだ議決には納得できない点が多くありました。森友学園、加計学園問題では「言った。言わない」「記録はない。あった」など、物事を曖昧に済ませようとする印象を国民に与えました。さらに、総理大臣である安倍さんも、心底にある「おごり」を示すような、耳を疑う失言を発せられました。

 それで、今月は、「安倍総理の失言 私は立法府の長」の話です。

私達の戦後は「三権分立、象徴天皇、平和憲法」で始まったように思います。それまでは軍事一色、物言えば唇寒しの時代でした。非国民という「ジョーカー」のような言葉があり、それを言われた人は全く反論することができない時代でした。

 戦後、間もなく学制が改められ、六三三制が誕生しました、私達はそこで「三権分立、象徴天皇、平和憲法」を非常に新鮮な思いで学びました。

 雲の上の存在であった天皇陛下が国民に帽子を振って挨拶され「アッソー、アッソー」と相づちを打たれる姿は時代の変化を深く印象づけるものでした。

 平和憲法のもとで日本は戦争をしない国になりました。学校ではこれからの日本は、これまでのような軍の主導ではなく司法・立法・行政の三権が分立して国を運営していくと教えられました。総選挙が行われ、多くの女性議員が誕生しました。戦後間もなくのことで食べるもの、着る物にも不足していましたが、気持ちは明るかったように思います。

 これがずーっと続くと思っていましたが、最近の国際状勢、緊張感のない政府与党議員の国会答弁などを聞いていますと「なにか変だ、危ない」と感じるようになりました。

 例えば、東京電力福島第一原発事故により、余儀なく避難し、漸く避難地域の指定が解除はされましたが、帰宅をためらっている住民に今村雅弘復興相は「帰宅するかどうかは本人の自己責任」と発言。さらに、山本幸三地方創生担当相は外国人観光客らへの文化財などの説明、案内が不十分として「一番のがんは学芸員」と発言しました。現実を全く知らない、不用意な発言をマスコミに突っ込まれて、2人の大臣は発言を撤回、謝罪しました。

 安倍首相も例外ではありません。山尾議員に対する答弁で「議会の運営ということについて山尾さんは勉強していただいたほうがいいと思います」と前置きして「議会については私は立法府、立法府の長であります」と発言しました。(2016年5月16日予算委員会)

 安倍首相の「立法府」発言はこれが初めで最後ではありません。翌17日の予算委員会でも福山議員に対して「立法府の私がお答えしようがない」と言われました。

 実は安倍首相は第一次安倍政権の2007年の憲法調査特別委員会でも「私は立法府の長」(2007年5月11日)と発言したことがあります。この時は、その誤りを指摘され撤回しましたが、2014年には集団的自衛権の行使を憲法解釈の変更だけで可能にするこという首相の発言が追求された時「憲法解釈の最高責任者は私です」と言い放ちました。

 今年になって、森友学園問題で、小池晃議員の「(昭恵)夫人はいつ籠池氏と知り合ったのですか」という質問に対し「私は立法府の長ですが、妻は私人です。妻を犯罪者扱いするのはやめていただきたい」また、簗瀬進議員の中央公聴会開催を求める発言に対して「私が立法府の長として何か申し上げるのは…」とも。

 これらの発言はすべて、単なる言い違いとして議事録から削除訂正されました。国会の議事録というのは、謝罪もなく、議会の了解を得ることもなく修正される程度の軽い記録なのでしょうか。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第329号2017年06月号「私の8月15日(26)仙台空襲と米軍報告書」の話


5月連休中に思い立って戦災復興記念館地下にある資料室へ行って参りました。風化しつつある仙台空襲を語り継がなければならない、という思いを改めて強くしました。仙台空襲の4か月前、東京大空襲があった3月10日に、米軍は霞目飛行場を攻撃しました。この時、1,370発の焼夷弾が投下されましたが、不発弾が多く、命中率も低く、全く被害がありませんでした。その上、攻撃をした3機は帰路、吹雪の中、蔵王連峰に衝突炎上しました。

 7月に仙台空襲を実施することは米軍の短波放送で予報されていました。また「仙台良い町、森の町、7月10日は灰の町」と書いたビラも撒かれましたが、多くの市民にこれらの情報は知らされませんでした。

 それで、今月は「私の8月15日(26)仙台空襲と米軍報告書」の話です。

 霞目飛行場への攻撃が失敗であったことを踏まえたのか、仙台空襲にあたり、米軍は事前偵察をし、正確な地図を作成し、攻撃地点を定めるなど綿密な計画をたてて実行しました。当時は全国で地方都市が空襲を受けていましたが「仙台が攻撃されることはあるまい」と、多くの市民は考えていました。

 一方、米軍は「仙台は人口の殆どが駅を中心とする2マイル内に住んでいる。火災を食い止める公園や空き地がない。木造の建物が密集しており、東京以北で最も火災に弱い都市である。ここを襲撃すれば想定外の攻撃ということで、日本人により強い、恐怖心や焦りを与えるであろう」と考えたのです。

 米軍は仙台攻撃後「作戦実行時の天候は晴れで、火災発生によって視界は更に良好になり目視爆撃を可能にした。ただ、火災の上空を飛ぶ時は高熱に悩まされた。日本軍の反撃は非常に無力であった。戦闘機が10機飛来したが、攻撃を仕掛けたのは1機のみであった。攻撃にM47とM17集束焼夷弾を使った。M47は6発、M17は110発の焼夷弾が束ねられていて、それぞれが空中で解束した。M47は100フイート、M17は50フィート間隔で投下した。仙台には対空砲火とサーチライトの整備はされていなかった。レーダー対策としてすべての攻撃機が電波妨害片(ロープ)を搭載し投下した。(ロープは幅1.3センチのアルミニウム・テープで電波を妨害するものである)」と報告しています。

 東北大の金属材料研究所に勤務されていた米崎 茂氏の記録では「7月9日、夜9時、警戒警報が鳴ったが、間もなく解除された。深夜0時5分、いきなり大きな音がし、続いて空襲警報が鳴った。市の中心部に火の手が上がり、真昼のように明るく市内を照らした。翌日、街に入ると、市電環状線の内側は完全に焼け野原になっていた。熱気を含む瓦礫の山を掘り起こし、肉親を捜す市民の姿は至るところで見られた。防空壕の中では大勢の人が窒息死していた。兵舎から逃げ出して焼け死んだ軍馬が道路のあちらこちらに横たわっていた。カメラでこれらの焼け跡を写していたら2人の兵士が現れ「スパイ」だと、憲兵隊に連行された。私は短波受信機を自作して米の放送を聞いていたので、家宅捜索で発見されれば大変なことになる。その時、警戒警報が鳴り響いて助かった。数日後、焼死した軍馬の肉が配給された。身元不明の遺体180体は発見場所を明記して国見の壽徳寺に仮埋葬された」とあります。

 空襲から50年後に記念誌『フェニクス仙台』が出版されました。ここで多くの方が空襲警報発令の遅れが、逃げ遅れに繋がったと書いています。電波妨害のためのロープは有効だったのです。「七夕さんの吹き流しのようなものが降ってきた」「空襲の後、長さ5メートルくらいのアルミのテープ1束50本くらいが2、3束落ちてきた。それを拾って田んぼのカラスよけにした」とも書かれています。

 後日、米は偵察飛行を行い「目標面積の27%の壊滅に成功」と評価しました。
 日本側の記録では、被害を受けた面積約500ha、死者約1,500人、被災者57,321人とあります。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第328号2017年05月号「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話

皆様 好天に恵まれ気持ちの良い大型連休をいかがお過ごしでしょうか。私は昨日、ソラマメの種を見つけまして、苗床に植えました。数か月後を楽しみにしています。ニュースをお届けします。まだ、昭和20年前後の思い出話です。おつきあい下さい。

 1945(昭和20)年5月、英米露中等連合軍の攻撃によりベルリン陥落、ドイツ降伏、そして、ヒットラーは自殺しました。その後、日本への攻撃は激しさを増しました。

 その年の5月25日、米軍は新潟、仙台などを上空から撮影し、それを組み合わせて「リト・モザイク」といわれる図を作製し、仙台爆撃の準備をしました。爆撃中心点は新伝馬町(現クリスロード)と東三番丁の交点で、そこを中心にした1.2キロの範囲が爆撃目標でした。

 それで、今月は、「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話です。

 1945(昭和20)年7月10日未明、米爆撃機B29、123機が仙台の上空に飛来し、午前0時3分から2時5分まで、約2時間にわたり爆撃目標地点に911.1トンの焼夷弾を投下しました。仙台市街は火の海となり、多くの家が焼け、死者、怪我人が出ました。

1937(昭和12)年、既に国は、空襲を想定して防空訓練や、灯火管制の必要性を認識しましたが、隣組が「国土防衛の第一戦」と、その任を担うことになりました。

 翌年に出された要綱では「防空壕とは空襲を受けた際に爆弾の破片や爆発物、爆風等を避けるための応急的な施設で、焼夷弾が落下してきたら直ぐに飛び出して消火するために、各自の庭や空き地に壕を堀り、そこから庭や屋内を見やすいようにしなければならない」と説明されました。つまり、防空壕は一般国民が信じていた爆弾から身を守るための構造物ではなく、単なる待機所に過ぎなかったのです。そのために、国は少人数用の壕を多数分散させる方針をとり、原則、地下式、なるべく蓋を付ける等、設置方法を指導しました。

 1942(昭和17)年、日本本土(東京、神戸など)が始めて米軍機により攻撃を受けました。軍は国民に軍への不信感が生まれることを恐れました。防空壕を待避所と呼ぶとし、床下などに簡単な待避所を自発的に作るように周知しました。これは、国民が空襲を恐れて逃げることで街の消火活動に支障を来すことがないよう、また、壕の設置に材料や費用がかからぬように採られた方針でした。この方針によって空襲当時、仙台では質はどうであれ、ほぼ一家に一つの防空壕がありました。

 被災者(11歳少年A)の証言「警戒警報で起こされて一旦、母達と庭の防空壕に入った。父が危ないと言ったので、焼夷弾が降る中を濡らした布団をかぶって大橋の下に逃げた。橋の上を炎上する町へ向かって軍馬が何頭も駆け抜ける音を聞いた」

 被災者(11歳少年B)の証言「今夜、空襲があると聞き、早くから評定河原の防空壕に避難した。空襲が終わって家に帰ると家は全焼していたので、片平丁小学校に避難した。そこに川内の兵隊さんが炊き出しを持ってきてくれた。兵隊さん達は空襲中はどこにもいなかった」

 被災者(31歳、女性)の証言「空襲が始まると勤務先の学校へ行き、重要書類を持って校庭の防空壕に入った。間髪を入れず雨のように焼夷弾が落とされた。翌朝、河原や街中で家族を捜した。結局、夫と息子、娘の3人は自宅の防空壕の中で息を引き取っていた。みんなに棺箱を作って貰い3人を入れて焼き場に運んだ。そこには足の踏み場もない程、むき出しの死体が横たわっていた」

 ベルリンやローマでは人命を第一とし、緊急時には堅牢な地下鉄やシェルターに避難する政策が取られており、国はこれらの都市を視察はしましたが、それを実際の政策に生かすことはありませんでした。多くの市民は防空壕の中で命を失い、または逃げ遅れて被爆し、命を落としました。

 東京を始め他の大都市が連日のように空襲を受け、夥しい人々が倒れていく現実の前にも、国は正確な情報を国民に伝えず「敢闘精神と水、砂があれば焼夷弾は怖くない」という安全神話を流布し、人命を守ることを二の次にしました。「知らしむべからず。寄らしむべし」という国民軽視の考えは、現在も日本国の政策決定の底流に脈々と流れているように感じます。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第327号2017年04月号「私の8月15日(24)金属供出」の話

 新しい年度を迎えました。桜の開花も間近です。皆様、お変わりなくおいでのことと存じます。ニュースをお届け致します。

 前号で干草を学校に持って行ったことを書きましたが、それを粉にしたものを小麦粉などに混ぜたパンを給食で食べた方がおいでになりました。臭くてまずく、子ども達は「馬ふんパン」と呼んだということです。当時のことで、また、思いだすのは家にある鍋、スコップなど金属を町内会で集めたことです。「家庭鉱脈」という新語が生まれました。

 それで、今月は、「私の8月15日(24)金属供出」の話です。

 戦局が長引くにつれ物資、特に武器生産に必要な金属資源が不足しました。昭和16年に政府は金属類回収令を出し、官民所有の金属の回収を始めました。

 この令には「此度国家ニ譲渡致サネバナラヌコトニ相成リマシタ。指定物件ヲ隠匿シタリ移動シマスト罰セラレマス」とありました。

 官公署・職場・家庭の別なく、子どもが遊ぶおもちゃまでを含め金属類は根こそぎ回収されました。玩具は竹製や木製になりました。木や竹のおもちゃは、とげがあって痛かったことを覚えています。

 昭和17年になると、さらに大々的な金属回収に乗りだしました。家庭で使われていた鉄びん・火箸・花器・仏具・窓格子等をはじめ、金銀杯・時計鎖・煙管(きせる)・置物・指輪・ネクタイピン・バックルなど、ありとあらゆる金属が回収対象となりました。神社・寺院・教会なども例外ではなく、祭礼に使う道具、杯、鐘、火の見櫓、鉄扉、門柱、道路のマンホール、橋の欄干、擬宝珠、さらに、いくつかの鉄道では複線は不要とされ、レールが取り去られ単線化されました。

 これまでしても鉄は不足しました。「まだある金属出せ いまだ」「まだ出し足らぬ家庭鉱」などの標語がつくられ、回収が強化されました。学校の二宮尊徳像をはじめタンスの取手や蚊張の釣手、仏壇の仏具、看板、フォーク・ナイフ・スプーン、便所紙巻取器(トイレットペーパーホルダー)、階段スベリ止、屋根を葺いている銅板、鉄製の図書目録箱なども回収対象になりました。

 お寺の梵鐘が回収された後、鐘の代わりに石やコンクリートなどの代替物が吊されました。鐘楼は鐘などの重量がないと倒壊する構造となっているからです。あるお寺では、戦後、檀家が鐘の寄進を申し出ましたが「世の中から戦争がなくなるまで、金属の鐘を下げるつもりはない」と「梵鐘記念」と刻んだ石の梵鐘を守り続けているそうです。

 金属の供出が開始されると、金属鍋に代わる土鍋や行平が飛ぶように売れ出しました。陶製のストーブ・ガスバーナー・鎖・湯たんぽ・タオル蒸器・陶製農具、ボタンなどが作られ、焼き物の工場では早朝から夜遅くまで仕事をしても追いつかないほどであったという記録もあります。

 帝国ホテルの料理長・石渡文治郎は昭和16年の初めに「調理場の銅鍋を隠せ」と指示しました。これを部下に、堅く口止めをしたのは当然です。その後「特別金属回収運動」が発令され、調理場に残され使用中の鍋のほとんどが回収されました。隠した鍋のことを知っていた料理人は次々に召集され戦地で死亡したり、故郷に帰ったりと、この鍋の存在は一時忘れられていましたが、昭和29年に鍋はホテルに戻り、現在も使われているということです。

 仙台では伊達政宗公の銅像が回収対象になりました。この像は「伊達政宗公三百年祭協賛会」(総裁・第30代内閣総理大臣・斎藤実)が柴田町出身の小室達作に依頼し政宗の300回忌にあたる昭和10年に仙台城本丸に建立されたものでした。大事な像でしたので、騎馬は供出しましたが、政宗の半身像は隠されました。

 現在「伊達政宗騎馬像」の原型試作品は竹駒神社馬事博物館に、供出されなかった部分を用いた初代の胸像は仙台城三の丸(仙台市博物館)の庭に、復元された第二代の像は仙台城本丸に設置されています。

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第326号2017年03月号「私の8月15日(23)敵性語とカムカム英語」の話
 
弥生3月を迎えました。
 昨日、庭で福寿草が一輪咲いているのを見つけました。春は確実に近づいているのを感じました。ニュースをお届けします。

 日本では、第二次世界大戦中の交戦国、アメリカやイギリスとの対立が深まった1940(昭和15)年ころから英語を使うのを「軽佻浮薄」とし、英語は精神論的に「敵性」にあたるものだとして排斥する運動が始まりました。

 この問題を提起したのはナショナリズムに燃える警察や「非国民」という言葉を武器にする一部の国民であったようで、国会に「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」と内閣総理大臣・東條英機陸軍大将へ要求が提出され、これに対して東條総理大臣が「英語教育は戦争において必要である」と答弁したという事ですが、現実には英語教育は縮小され続けました。 

 それで、今月は、私の8月15日(23)敵性語とカムカム英語」の話です。
 
 昭和15年1月に陸軍省は陸軍予備士官学校の入試問題から英語を廃止しました。英語が苦手も優秀な兵を確保するため、という理由でした。

 その年の3月には内務省は芸名などの英語使用を禁止しました。そのためにディック・ミネは「三根耕一」、ミス・ワカナは「玉松ワカナ」と名前を変え、9月には文部省からの勧告をうけて、フェリス女学院は「横浜山手女学院」、東洋英和女学校は「東洋栄和女学院」と改称しました。 また、情報局は「極東」という表現はイギリスを世界の中心とする言葉であると、その使用を禁止しました。
 昭和17年3月には米英人の大学講師は原則として解雇されました。17年8月には女学校で、18年1月には中学校でも外国語が必須科目から選択科目になりました。このような中で、海軍士官学校では必修科目として存続し続けました。

 この頃から私企業の多くが自主的に社名を和風に変更する動きが起きました。例えば「欧文社」は「旺文社」、「ブリジストン・タイヤ」は「日本タイヤ」、「銀座ワシントン靴店」は店主の名前から「東條靴店」と改称しました。

 スポーツ界にも英語排斥の波が打ち寄せ、ラグビーは闘球、バレーボールは排球、ゴルフは打球、または、芝球、ハンドボールは送球、水泳のクロールは速泳、スキーは雪滑、スケートは氷滑になりました。

 野球はアメリカの国技であることから、その用語には徹底した英語排除が行われました。野球が大好きだった正岡子規らが作った打者、走者、四球、直球、飛球、遊撃手などがすでに使われていたことも、言い換えが徹底される理由となったようです。

 ストライク・ワンは「よし1本」、ストライク ツーは「よし2本」、ストライク スリー、 アウトは「よし3本、それまで」。ボールは「だめ1つ」、ファウルは「だめ、圏外」、アウトは「ひけ」。セーフは「よし」。バッテリーは「対打機関」、タイムは「停止」等々。

 鉄道・バスなどの交通関係では、入口、出口の英語表記は排され、「オーライ」は「よし」と言い換えることになりました。発車よし、右よし、左よし、といった案配です。練習し定着するまでに多くの混乱がありました。

 音楽では「ドレミファソラシド」が「はにほへといろは」になり、楽器の名前も言い換えられました。

 たばこも名前を変えました。ゴールデンバットは「金鵄」、チェリーは「桜」、カメリアは「椿」。この波は飲食物の名前にも押し寄せました。サイダーは「噴出水」、ビールは「麦酒」、フライは「洋天」、コロッケは「油揚げ肉饅頭」、カレーライスは「辛味入汁掛飯」…。

 しかし、終戦1か月後の9月、早くも東京放送局(現NHK)がラジオ英会話を放送し始めました。「証城寺の狸囃子」の軽快なリズムをテーマソングに、平川唯一さんのさわやかな声と共に「カムカム英語」が日本中に響き渡りました。

 このような、社会や大人の変化を敏感に感じ、かつ影響を受けつつ、私たち、この時代の子どもは育ちました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第325号2017年02月号「私の8月15日(22)軍用兎」の話
 
皆様お変わりなくお過ごしの事ともいます。2月、寒いとはいえ、日差しに、かすかですが、明るさを感じるこの頃です。
トランプ大統領が就任してから、特に変化の多い日々です。しっかり眼を開き、耳をそばだて、頭を使って生きて行きたいと考えます。

 厳寒の季節になりました。
 先日、テレビドラマで、ペットとして育てていたウサギを世話しきれなくなった人が、引き取ってくれる人を漸く見付け、ウサギを預けました。後でそのウサギがどうしているかを尋ねましたら「食べた」と言われ、全員があっけにとられ、食べた人が逆にショックを受けた。という話がありました。
 これを見ていて私は小学生の頃 に飼育したウサギを思いだしました。

 それで、今月は「私の8月15日(22)軍用兎」の話です。
 
 1944(昭和19)年の春先、学校から兎を飼育するように言われて、小さな白い子兎が渡されました。それから私は、朝夕家の周辺に生えている草を刈って与えました。雨が降ると濡れた草は兎に食べさせてはいけないと聞き、雨の日には草を濡らさないように気をつけたり、晴れた日に草を蓄えたりして懸命に育てました。ところが、北海道の冬は早く訪れます。10月になり、気温が下がり、雪が降ると野の草はなくなり、兎に食べさせるものが不足するようになりました。食糧難の時代、八百屋からくず野菜をもらえる状態ではありません。乏しい食用の野菜を母からもらって何とか飼育をし、もう限界と思われる翌年の2月ころ、学校から育てた兎を持ってくるように言われました。

 学校に行きますと見慣れない人達が校庭にいました。雪の中、いくつかのテントが立てられておりました。兎を持った子ども達は一列に並び、兎を差し出したのち、別の列に並びました。そして何かを渡されました。家に持ち帰りましたら、兎の肉でした。食糧難の時代、食べましたが、割り切れない思いが残りました。

兎は、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と戦争のたびに、軍隊用のコートや帽子などのために、たくさん必要とされました。それで、軍や国は、1945(昭和20)年度に1,000万羽の飼育を目指して、すべての家庭で兎を数羽飼うよう呼びかけました。兎は比較的、手間がかからず世話をしやすいことから、小学生にも飼育するようにすすめられました。1945(昭和20)年1月の『少国民新聞』(今の毎日小学生新聞)に「飼おう、殖やそう、軍用兎」という特集記事が3回にわたって掲載され、その後「兎さんの出征」という少女の作文が掲載されたということです。

 内容は、兄の出征と、ウサギを軍に売ったことに触れたもので、かわいがって育てた31羽の兎すべてが買い取られたことを聞いて「ああうれしい。兎は兄さんと一緒に出征したのでした」とあるそうです。造り話っぽいという感じですが、当時としては、当然の話だったのかも知れません。この新聞は当時唯一の子ども向けの新聞で、私も定期購読をしていましたが、その記事の記憶はありません。

 この他、戦争中に経験したことで「あれは何だったのか」と思いだすことがいくつかあります。その一つが「ヒマの栽培」です。学校で植物の種を渡され、育てるように言われました。庭に蒔きました。すくすくと大きくなり、もらった種と同じような実をたくさんつけました。大人たちは見たことのない植物だと言いました。種には猛毒があるから食べてはいけないと言われ、実をつけた草ごと学校に持って行きました。その種から下剤であるヒマシ油が採れるということでした。本当は何のためだったのでしょうか。

 シダを集めるように言われたこともありました。私の育った所では、街を出ますと、藪だらけで、多くの雑草が生い茂っていました。町内会の大人が一緒に行って、どの草なのかを教えてくれ、刈った草を背中いっぱいに背負って帰宅しました。草刈りを数日繰り返し、乾し、夏休み明けに学校に持って行きました。何に使われたのでしょう。同じような経験をされた方はおいででしょうか。 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
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第324号2017年01月号「日露和親条約」の話

 
 昨年末に定刻より約3時間遅れで到着されたプーチン大統領と安倍首相の会談が長門で開かれました。プーチンさんの遅刻はこれまでもよくあったことで、彼はこれで、交渉を優位に進められると考えているようです。
 北方四島返還について、いくらかの進展があるかと淡い期待を持ったのですが、それは全くの期待外れでした。両首脳は「日露双方の立場を害さない形で4島での共同経済活動に向けた協議を始めることで合意した。これは、平和条約締結に向けた重要な一歩だ」と報告しました。この会談は「引き分け」というのが大方の見方です。
 日本側からプーチン大統領に「プチャーチン来航図」の複製が贈られました。

 それで、今月は「日露和親条約」の話です。

 幕末、ペリーが来日して日本は開国やむなき事態に追い込まれました。ハリスにより「日米和親条約」が締結され、日本は250年続いた鎖国に終止符を打ちました。日本開国を知ったロシアは、500名のロシア兵を乗せた軍艦ディアナ号(艦長プチャーチン)を下田に派遣し、幕府との交渉に当たらせました。
 1854年12月22日(嘉永7年11月3日)、下田の玉泉寺で、第1回日露会議が開かれました。ここで、プチャーチンは「日米和親条約と同じく日露和親条約を締結したい、それにはまず両国の修好のため国境を定めることと、通商開始を決めることにある」と述べ、日本がロシアとの通商開始に同意するなら、エトロフ島を日本領土と認め、樺太についても譲歩の用意があると述べました。

 またプチャーチンは「日米和親条約」の内容を公表するよう要求しましたが、幕府川代表の川路らは即答を避けました。
 ついでプチャーチンは開港する港を問題にし、下田は適当でないとして、大坂、箱館、兵庫、浜松などを希望しましたが、日本側は下田開港を譲らず、これについても後日、話し合うことして初日の会談は終わりました。
 これから本格的な交渉に入るべく日露双方とも意気込んでいましたが、その翌日、午前8時すぎ伊豆地方に大地震(M8.0?)がおこり、下田に大津波が襲来しました。この地震は後に「安政東海地震」と名付けられましたが、その地震から32時間後に、南海道沖を震源とするM8.4の「安政南海地震」が発生し、近畿から四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらしました。

 この2地震による被害があまりにも甚大であったため、その年の元号が「嘉永」から「安政」に変えられました。
 
 プチャーチンの秘書官として下田にいたゴンチャロフ(後に小説家)はこの津波の有様を以下のように記録しています。「12月23日午前10時、地震が起き、下田湾は大きな津波に襲われた。波は岸に当たって跳ね返った。ここにさらに大きな波がきて二つの津波がぶつかり合った。湾内に溢れた水は円周運動をしながら全湾を洗い、陸上に跳び上がって、下田の人たちが難を避けている高い所まで押し寄せ、下田の町を洗い去った。それからまた新しい津波がやってきた。次第に力を強めた渦巻きは陸上に残っていたすべてのものを破壊し、洗い流し、運び去った。湾内は家屋や舟の破片、死骸、器物など、ありとあらゆる雑多なもので埋め尽くされた。」
 まさに東日本大震災の有様そのものです。
 
 この津波でプチャーチンの旗艦ディアナ号も大破し、曳航される途中、戸田(ヘダ)沖で沈没しました。

 被災したプチャーチン等に日本側は将兵らの救護、食事、住むところ、帰国する船の手当、などについて協力しました。戸田ではロシア兵帰国のための船(ヘダ号)が建造されました。日本の船大工は西洋風の船の製造知識と技術を習得しました。
 
 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
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第323号2016年12月号「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話


 アメリカ大統領選挙にトランプさんが勝ちました。その予想外の結果に世界中は大きな衝撃を受けています。トランプさんはアメリカ第一主義を掲げ、これまで世界の警察官として君臨してきたアメリカがその役割から下りると宣言しています。その発言通りにアメリカが行動したら世界はどうなるのか、大きな懸念が起きています。

 一方、日本では、またも、衆議院解散の声が大きくなっています。この選挙で自民党は更に議員数を増やし、憲法改定の作業を進めると聞いています。日本国の理念「三権分立」は風前の灯火です。
 今の平和憲法のままでも、南スーダンでPKO活動している自衛隊に「武器を使って駆けつけ警護」をする役割が国会で承認され、早速、秋田の部隊がスーダンに向かいました。その役目の危うさに、心ある人が危機感を募らせています。戦後72年が過ぎ、戦争を知っている人々が減りつつあります。戦争の悲惨さ、非人間性、不条理を経験した人がまだ残っている今、平和の大切さ、平和憲法の重さを叫ばなければなりません。

 それで、今月は、「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話です。

 憲法はだれのものでしょうか。国民のものです。国民の声を代表するのは誰でしょうか。国会議員です。でも、投票率は選挙権のある人の50%程度に過ぎません。それでも国会議員が国民の声を代表するとして良いでしょうか。

 戦争が終わって新制中学ができ、私たちはその一期生となりました。1年生の時に社会科ができました。それまでの「知らしむべからず、よらしむべし」という社会から国民総参加の社会を作るとされました。文部省の指導要領には「我が国の政治の働きについて調べ、国民主権と関連付けて政治は国民生活の安定と向上を図るために大切な働きをしていること、現在の我が国の民主政治は日本国憲法の基本的な考え方に基づいていることを考えるようにする」とされ、中学1年生に「あたらしい憲法のはなし」が配布されました。

 これは「みなさん、あたらしい憲法ができました。… ところでみなさんは、憲法はじぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっていないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです」と始まる15章からなり、平明に憲法を解説しています。しかし、この読本は朝鮮半島が不穏な情勢となった1950(昭和25)年に副読本に格下げされ、1952(昭和27)年から発行されなくなりました。

 それでも幸いなことに、この憲法の下で日本の平和は守られてきました。今や、戦争を知らない大人が増え、国民の無関心がこのまま続くと、私たちの子孫は再び私たちが経験したような悲惨な経験をし、その人たちは平和を叫ぶようになるでしょう。人間は時が経つと忘れる愚かな生き物なのです。

 戦争の最中を私たちは生きました。母に抱かれて防空壕に走りました。その壕が爆破されて多くの家族や友人が死にました。家族を残して父や兄は戦場へ行きました。姉達は勤労奉仕で家を離れ、私たちは学童疎開で家族から引き離されました。残された母たちは空襲の中を逃げ惑いました。親も、兄弟も、親戚も、友人も、家も、食べものも、着るものもすべてを失って戦争は終わりました。
 戦争が終わって復員兵と傷病兵と引き揚げ者と浮浪児で国は溢れました。みな、傷つき、病み、寡黙に、怒りやすく、疑い深くなりました。

 1946(昭和21)年、平和憲法ができ、翌年発布されました。それから日本は戦争に巻き込まれずにきました。今、また、戦争を知らない大人たちが、憲法を変えようとしています。今こそ、戦争を体験した私たちが声を上げるときです。

 「良い戦争なんてあったためしがない。また、悪い平和なんてものもあったことがない。ベンジャミン・フランクリン」

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