仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末までで終了いたします。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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第328号2017年05月号「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話

皆様 好天に恵まれ気持ちの良い大型連休をいかがお過ごしでしょうか。私は昨日、ソラマメの種を見つけまして、苗床に植えました。数か月後を楽しみにしています。ニュースをお届けします。まだ、昭和20年前後の思い出話です。おつきあい下さい。

 1945(昭和20)年5月、英米露中等連合軍の攻撃によりベルリン陥落、ドイツ降伏、そして、ヒットラーは自殺しました。その後、日本への攻撃は激しさを増しました。

 その年の5月25日、米軍は新潟、仙台などを上空から撮影し、それを組み合わせて「リト・モザイク」といわれる図を作製し、仙台爆撃の準備をしました。爆撃中心点は新伝馬町(現クリスロード)と東三番丁の交点で、そこを中心にした1.2キロの範囲が爆撃目標でした。

 それで、今月は、「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話です。

 1945(昭和20)年7月10日未明、米爆撃機B29、123機が仙台の上空に飛来し、午前0時3分から2時5分まで、約2時間にわたり爆撃目標地点に911.1トンの焼夷弾を投下しました。仙台市街は火の海となり、多くの家が焼け、死者、怪我人が出ました。

1937(昭和12)年、既に国は、空襲を想定して防空訓練や、灯火管制の必要性を認識しましたが、隣組が「国土防衛の第一戦」と、その任を担うことになりました。

 翌年に出された要綱では「防空壕とは空襲を受けた際に爆弾の破片や爆発物、爆風等を避けるための応急的な施設で、焼夷弾が落下してきたら直ぐに飛び出して消火するために、各自の庭や空き地に壕を堀り、そこから庭や屋内を見やすいようにしなければならない」と説明されました。つまり、防空壕は一般国民が信じていた爆弾から身を守るための構造物ではなく、単なる待機所に過ぎなかったのです。そのために、国は少人数用の壕を多数分散させる方針をとり、原則、地下式、なるべく蓋を付ける等、設置方法を指導しました。

 1942(昭和17)年、日本本土(東京、神戸など)が始めて米軍機により攻撃を受けました。軍は国民に軍への不信感が生まれることを恐れました。防空壕を待避所と呼ぶとし、床下などに簡単な待避所を自発的に作るように周知しました。これは、国民が空襲を恐れて逃げることで街の消火活動に支障を来すことがないよう、また、壕の設置に材料や費用がかからぬように採られた方針でした。この方針によって空襲当時、仙台では質はどうであれ、ほぼ一家に一つの防空壕がありました。

 被災者(11歳少年A)の証言「警戒警報で起こされて一旦、母達と庭の防空壕に入った。父が危ないと言ったので、焼夷弾が降る中を濡らした布団をかぶって大橋の下に逃げた。橋の上を炎上する町へ向かって軍馬が何頭も駆け抜ける音を聞いた」

 被災者(11歳少年B)の証言「今夜、空襲があると聞き、早くから評定河原の防空壕に避難した。空襲が終わって家に帰ると家は全焼していたので、片平丁小学校に避難した。そこに川内の兵隊さんが炊き出しを持ってきてくれた。兵隊さん達は空襲中はどこにもいなかった」

 被災者(31歳、女性)の証言「空襲が始まると勤務先の学校へ行き、重要書類を持って校庭の防空壕に入った。間髪を入れず雨のように焼夷弾が落とされた。翌朝、河原や街中で家族を捜した。結局、夫と息子、娘の3人は自宅の防空壕の中で息を引き取っていた。みんなに棺箱を作って貰い3人を入れて焼き場に運んだ。そこには足の踏み場もない程、むき出しの死体が横たわっていた」

 ベルリンやローマでは人命を第一とし、緊急時には堅牢な地下鉄やシェルターに避難する政策が取られており、国はこれらの都市を視察はしましたが、それを実際の政策に生かすことはありませんでした。多くの市民は防空壕の中で命を失い、または逃げ遅れて被爆し、命を落としました。

 東京を始め他の大都市が連日のように空襲を受け、夥しい人々が倒れていく現実の前にも、国は正確な情報を国民に伝えず「敢闘精神と水、砂があれば焼夷弾は怖くない」という安全神話を流布し、人命を守ることを二の次にしました。「知らしむべからず。寄らしむべし」という国民軽視の考えは、現在も日本国の政策決定の底流に脈々と流れているように感じます。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第327号2017年04月号「私の8月15日(24)金属供出」の話

 新しい年度を迎えました。桜の開花も間近です。皆様、お変わりなくおいでのことと存じます。ニュースをお届け致します。

 前号で干草を学校に持って行ったことを書きましたが、それを粉にしたものを小麦粉などに混ぜたパンを給食で食べた方がおいでになりました。臭くてまずく、子ども達は「馬ふんパン」と呼んだということです。当時のことで、また、思いだすのは家にある鍋、スコップなど金属を町内会で集めたことです。「家庭鉱脈」という新語が生まれました。

 それで、今月は、「私の8月15日(24)金属供出」の話です。

 戦局が長引くにつれ物資、特に武器生産に必要な金属資源が不足しました。昭和16年に政府は金属類回収令を出し、官民所有の金属の回収を始めました。

 この令には「此度国家ニ譲渡致サネバナラヌコトニ相成リマシタ。指定物件ヲ隠匿シタリ移動シマスト罰セラレマス」とありました。

 官公署・職場・家庭の別なく、子どもが遊ぶおもちゃまでを含め金属類は根こそぎ回収されました。玩具は竹製や木製になりました。木や竹のおもちゃは、とげがあって痛かったことを覚えています。

 昭和17年になると、さらに大々的な金属回収に乗りだしました。家庭で使われていた鉄びん・火箸・花器・仏具・窓格子等をはじめ、金銀杯・時計鎖・煙管(きせる)・置物・指輪・ネクタイピン・バックルなど、ありとあらゆる金属が回収対象となりました。神社・寺院・教会なども例外ではなく、祭礼に使う道具、杯、鐘、火の見櫓、鉄扉、門柱、道路のマンホール、橋の欄干、擬宝珠、さらに、いくつかの鉄道では複線は不要とされ、レールが取り去られ単線化されました。

 これまでしても鉄は不足しました。「まだある金属出せ いまだ」「まだ出し足らぬ家庭鉱」などの標語がつくられ、回収が強化されました。学校の二宮尊徳像をはじめタンスの取手や蚊張の釣手、仏壇の仏具、看板、フォーク・ナイフ・スプーン、便所紙巻取器(トイレットペーパーホルダー)、階段スベリ止、屋根を葺いている銅板、鉄製の図書目録箱なども回収対象になりました。

 お寺の梵鐘が回収された後、鐘の代わりに石やコンクリートなどの代替物が吊されました。鐘楼は鐘などの重量がないと倒壊する構造となっているからです。あるお寺では、戦後、檀家が鐘の寄進を申し出ましたが「世の中から戦争がなくなるまで、金属の鐘を下げるつもりはない」と「梵鐘記念」と刻んだ石の梵鐘を守り続けているそうです。

 金属の供出が開始されると、金属鍋に代わる土鍋や行平が飛ぶように売れ出しました。陶製のストーブ・ガスバーナー・鎖・湯たんぽ・タオル蒸器・陶製農具、ボタンなどが作られ、焼き物の工場では早朝から夜遅くまで仕事をしても追いつかないほどであったという記録もあります。

 帝国ホテルの料理長・石渡文治郎は昭和16年の初めに「調理場の銅鍋を隠せ」と指示しました。これを部下に、堅く口止めをしたのは当然です。その後「特別金属回収運動」が発令され、調理場に残され使用中の鍋のほとんどが回収されました。隠した鍋のことを知っていた料理人は次々に召集され戦地で死亡したり、故郷に帰ったりと、この鍋の存在は一時忘れられていましたが、昭和29年に鍋はホテルに戻り、現在も使われているということです。

 仙台では伊達政宗公の銅像が回収対象になりました。この像は「伊達政宗公三百年祭協賛会」(総裁・第30代内閣総理大臣・斎藤実)が柴田町出身の小室達作に依頼し政宗の300回忌にあたる昭和10年に仙台城本丸に建立されたものでした。大事な像でしたので、騎馬は供出しましたが、政宗の半身像は隠されました。

 現在「伊達政宗騎馬像」の原型試作品は竹駒神社馬事博物館に、供出されなかった部分を用いた初代の胸像は仙台城三の丸(仙台市博物館)の庭に、復元された第二代の像は仙台城本丸に設置されています。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第326号2017年03月号「私の8月15日(23)敵性語とカムカム英語」の話
 
弥生3月を迎えました。
 昨日、庭で福寿草が一輪咲いているのを見つけました。春は確実に近づいているのを感じました。ニュースをお届けします。

 日本では、第二次世界大戦中の交戦国、アメリカやイギリスとの対立が深まった1940(昭和15)年ころから英語を使うのを「軽佻浮薄」とし、英語は精神論的に「敵性」にあたるものだとして排斥する運動が始まりました。

 この問題を提起したのはナショナリズムに燃える警察や「非国民」という言葉を武器にする一部の国民であったようで、国会に「高等教育の現場における英語教育を取りやめるべき」と内閣総理大臣・東條英機陸軍大将へ要求が提出され、これに対して東條総理大臣が「英語教育は戦争において必要である」と答弁したという事ですが、現実には英語教育は縮小され続けました。 

 それで、今月は、私の8月15日(23)敵性語とカムカム英語」の話です。
 
 昭和15年1月に陸軍省は陸軍予備士官学校の入試問題から英語を廃止しました。英語が苦手も優秀な兵を確保するため、という理由でした。

 その年の3月には内務省は芸名などの英語使用を禁止しました。そのためにディック・ミネは「三根耕一」、ミス・ワカナは「玉松ワカナ」と名前を変え、9月には文部省からの勧告をうけて、フェリス女学院は「横浜山手女学院」、東洋英和女学校は「東洋栄和女学院」と改称しました。 また、情報局は「極東」という表現はイギリスを世界の中心とする言葉であると、その使用を禁止しました。
 昭和17年3月には米英人の大学講師は原則として解雇されました。17年8月には女学校で、18年1月には中学校でも外国語が必須科目から選択科目になりました。このような中で、海軍士官学校では必修科目として存続し続けました。

 この頃から私企業の多くが自主的に社名を和風に変更する動きが起きました。例えば「欧文社」は「旺文社」、「ブリジストン・タイヤ」は「日本タイヤ」、「銀座ワシントン靴店」は店主の名前から「東條靴店」と改称しました。

 スポーツ界にも英語排斥の波が打ち寄せ、ラグビーは闘球、バレーボールは排球、ゴルフは打球、または、芝球、ハンドボールは送球、水泳のクロールは速泳、スキーは雪滑、スケートは氷滑になりました。

 野球はアメリカの国技であることから、その用語には徹底した英語排除が行われました。野球が大好きだった正岡子規らが作った打者、走者、四球、直球、飛球、遊撃手などがすでに使われていたことも、言い換えが徹底される理由となったようです。

 ストライク・ワンは「よし1本」、ストライク ツーは「よし2本」、ストライク スリー、 アウトは「よし3本、それまで」。ボールは「だめ1つ」、ファウルは「だめ、圏外」、アウトは「ひけ」。セーフは「よし」。バッテリーは「対打機関」、タイムは「停止」等々。

 鉄道・バスなどの交通関係では、入口、出口の英語表記は排され、「オーライ」は「よし」と言い換えることになりました。発車よし、右よし、左よし、といった案配です。練習し定着するまでに多くの混乱がありました。

 音楽では「ドレミファソラシド」が「はにほへといろは」になり、楽器の名前も言い換えられました。

 たばこも名前を変えました。ゴールデンバットは「金鵄」、チェリーは「桜」、カメリアは「椿」。この波は飲食物の名前にも押し寄せました。サイダーは「噴出水」、ビールは「麦酒」、フライは「洋天」、コロッケは「油揚げ肉饅頭」、カレーライスは「辛味入汁掛飯」…。

 しかし、終戦1か月後の9月、早くも東京放送局(現NHK)がラジオ英会話を放送し始めました。「証城寺の狸囃子」の軽快なリズムをテーマソングに、平川唯一さんのさわやかな声と共に「カムカム英語」が日本中に響き渡りました。

 このような、社会や大人の変化を敏感に感じ、かつ影響を受けつつ、私たち、この時代の子どもは育ちました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第325号2017年02月号「私の8月15日(22)軍用兎」の話
 
皆様お変わりなくお過ごしの事ともいます。2月、寒いとはいえ、日差しに、かすかですが、明るさを感じるこの頃です。
トランプ大統領が就任してから、特に変化の多い日々です。しっかり眼を開き、耳をそばだて、頭を使って生きて行きたいと考えます。

 厳寒の季節になりました。
 先日、テレビドラマで、ペットとして育てていたウサギを世話しきれなくなった人が、引き取ってくれる人を漸く見付け、ウサギを預けました。後でそのウサギがどうしているかを尋ねましたら「食べた」と言われ、全員があっけにとられ、食べた人が逆にショックを受けた。という話がありました。
 これを見ていて私は小学生の頃 に飼育したウサギを思いだしました。

 それで、今月は「私の8月15日(22)軍用兎」の話です。
 
 1944(昭和19)年の春先、学校から兎を飼育するように言われて、小さな白い子兎が渡されました。それから私は、朝夕家の周辺に生えている草を刈って与えました。雨が降ると濡れた草は兎に食べさせてはいけないと聞き、雨の日には草を濡らさないように気をつけたり、晴れた日に草を蓄えたりして懸命に育てました。ところが、北海道の冬は早く訪れます。10月になり、気温が下がり、雪が降ると野の草はなくなり、兎に食べさせるものが不足するようになりました。食糧難の時代、八百屋からくず野菜をもらえる状態ではありません。乏しい食用の野菜を母からもらって何とか飼育をし、もう限界と思われる翌年の2月ころ、学校から育てた兎を持ってくるように言われました。

 学校に行きますと見慣れない人達が校庭にいました。雪の中、いくつかのテントが立てられておりました。兎を持った子ども達は一列に並び、兎を差し出したのち、別の列に並びました。そして何かを渡されました。家に持ち帰りましたら、兎の肉でした。食糧難の時代、食べましたが、割り切れない思いが残りました。

兎は、日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と戦争のたびに、軍隊用のコートや帽子などのために、たくさん必要とされました。それで、軍や国は、1945(昭和20)年度に1,000万羽の飼育を目指して、すべての家庭で兎を数羽飼うよう呼びかけました。兎は比較的、手間がかからず世話をしやすいことから、小学生にも飼育するようにすすめられました。1945(昭和20)年1月の『少国民新聞』(今の毎日小学生新聞)に「飼おう、殖やそう、軍用兎」という特集記事が3回にわたって掲載され、その後「兎さんの出征」という少女の作文が掲載されたということです。

 内容は、兄の出征と、ウサギを軍に売ったことに触れたもので、かわいがって育てた31羽の兎すべてが買い取られたことを聞いて「ああうれしい。兎は兄さんと一緒に出征したのでした」とあるそうです。造り話っぽいという感じですが、当時としては、当然の話だったのかも知れません。この新聞は当時唯一の子ども向けの新聞で、私も定期購読をしていましたが、その記事の記憶はありません。

 この他、戦争中に経験したことで「あれは何だったのか」と思いだすことがいくつかあります。その一つが「ヒマの栽培」です。学校で植物の種を渡され、育てるように言われました。庭に蒔きました。すくすくと大きくなり、もらった種と同じような実をたくさんつけました。大人たちは見たことのない植物だと言いました。種には猛毒があるから食べてはいけないと言われ、実をつけた草ごと学校に持って行きました。その種から下剤であるヒマシ油が採れるということでした。本当は何のためだったのでしょうか。

 シダを集めるように言われたこともありました。私の育った所では、街を出ますと、藪だらけで、多くの雑草が生い茂っていました。町内会の大人が一緒に行って、どの草なのかを教えてくれ、刈った草を背中いっぱいに背負って帰宅しました。草刈りを数日繰り返し、乾し、夏休み明けに学校に持って行きました。何に使われたのでしょう。同じような経験をされた方はおいででしょうか。 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第324号2017年01月号「日露和親条約」の話

 
 昨年末に定刻より約3時間遅れで到着されたプーチン大統領と安倍首相の会談が長門で開かれました。プーチンさんの遅刻はこれまでもよくあったことで、彼はこれで、交渉を優位に進められると考えているようです。
 北方四島返還について、いくらかの進展があるかと淡い期待を持ったのですが、それは全くの期待外れでした。両首脳は「日露双方の立場を害さない形で4島での共同経済活動に向けた協議を始めることで合意した。これは、平和条約締結に向けた重要な一歩だ」と報告しました。この会談は「引き分け」というのが大方の見方です。
 日本側からプーチン大統領に「プチャーチン来航図」の複製が贈られました。

 それで、今月は「日露和親条約」の話です。

 幕末、ペリーが来日して日本は開国やむなき事態に追い込まれました。ハリスにより「日米和親条約」が締結され、日本は250年続いた鎖国に終止符を打ちました。日本開国を知ったロシアは、500名のロシア兵を乗せた軍艦ディアナ号(艦長プチャーチン)を下田に派遣し、幕府との交渉に当たらせました。
 1854年12月22日(嘉永7年11月3日)、下田の玉泉寺で、第1回日露会議が開かれました。ここで、プチャーチンは「日米和親条約と同じく日露和親条約を締結したい、それにはまず両国の修好のため国境を定めることと、通商開始を決めることにある」と述べ、日本がロシアとの通商開始に同意するなら、エトロフ島を日本領土と認め、樺太についても譲歩の用意があると述べました。

 またプチャーチンは「日米和親条約」の内容を公表するよう要求しましたが、幕府川代表の川路らは即答を避けました。
 ついでプチャーチンは開港する港を問題にし、下田は適当でないとして、大坂、箱館、兵庫、浜松などを希望しましたが、日本側は下田開港を譲らず、これについても後日、話し合うことして初日の会談は終わりました。
 これから本格的な交渉に入るべく日露双方とも意気込んでいましたが、その翌日、午前8時すぎ伊豆地方に大地震(M8.0?)がおこり、下田に大津波が襲来しました。この地震は後に「安政東海地震」と名付けられましたが、その地震から32時間後に、南海道沖を震源とするM8.4の「安政南海地震」が発生し、近畿から四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらしました。

 この2地震による被害があまりにも甚大であったため、その年の元号が「嘉永」から「安政」に変えられました。
 
 プチャーチンの秘書官として下田にいたゴンチャロフ(後に小説家)はこの津波の有様を以下のように記録しています。「12月23日午前10時、地震が起き、下田湾は大きな津波に襲われた。波は岸に当たって跳ね返った。ここにさらに大きな波がきて二つの津波がぶつかり合った。湾内に溢れた水は円周運動をしながら全湾を洗い、陸上に跳び上がって、下田の人たちが難を避けている高い所まで押し寄せ、下田の町を洗い去った。それからまた新しい津波がやってきた。次第に力を強めた渦巻きは陸上に残っていたすべてのものを破壊し、洗い流し、運び去った。湾内は家屋や舟の破片、死骸、器物など、ありとあらゆる雑多なもので埋め尽くされた。」
 まさに東日本大震災の有様そのものです。
 
 この津波でプチャーチンの旗艦ディアナ号も大破し、曳航される途中、戸田(ヘダ)沖で沈没しました。

 被災したプチャーチン等に日本側は将兵らの救護、食事、住むところ、帰国する船の手当、などについて協力しました。戸田ではロシア兵帰国のための船(ヘダ号)が建造されました。日本の船大工は西洋風の船の製造知識と技術を習得しました。
 
 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
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第323号2016年12月号「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話


 アメリカ大統領選挙にトランプさんが勝ちました。その予想外の結果に世界中は大きな衝撃を受けています。トランプさんはアメリカ第一主義を掲げ、これまで世界の警察官として君臨してきたアメリカがその役割から下りると宣言しています。その発言通りにアメリカが行動したら世界はどうなるのか、大きな懸念が起きています。

 一方、日本では、またも、衆議院解散の声が大きくなっています。この選挙で自民党は更に議員数を増やし、憲法改定の作業を進めると聞いています。日本国の理念「三権分立」は風前の灯火です。
 今の平和憲法のままでも、南スーダンでPKO活動している自衛隊に「武器を使って駆けつけ警護」をする役割が国会で承認され、早速、秋田の部隊がスーダンに向かいました。その役目の危うさに、心ある人が危機感を募らせています。戦後72年が過ぎ、戦争を知っている人々が減りつつあります。戦争の悲惨さ、非人間性、不条理を経験した人がまだ残っている今、平和の大切さ、平和憲法の重さを叫ばなければなりません。

 それで、今月は、「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話です。

 憲法はだれのものでしょうか。国民のものです。国民の声を代表するのは誰でしょうか。国会議員です。でも、投票率は選挙権のある人の50%程度に過ぎません。それでも国会議員が国民の声を代表するとして良いでしょうか。

 戦争が終わって新制中学ができ、私たちはその一期生となりました。1年生の時に社会科ができました。それまでの「知らしむべからず、よらしむべし」という社会から国民総参加の社会を作るとされました。文部省の指導要領には「我が国の政治の働きについて調べ、国民主権と関連付けて政治は国民生活の安定と向上を図るために大切な働きをしていること、現在の我が国の民主政治は日本国憲法の基本的な考え方に基づいていることを考えるようにする」とされ、中学1年生に「あたらしい憲法のはなし」が配布されました。

 これは「みなさん、あたらしい憲法ができました。… ところでみなさんは、憲法はじぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっていないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです」と始まる15章からなり、平明に憲法を解説しています。しかし、この読本は朝鮮半島が不穏な情勢となった1950(昭和25)年に副読本に格下げされ、1952(昭和27)年から発行されなくなりました。

 それでも幸いなことに、この憲法の下で日本の平和は守られてきました。今や、戦争を知らない大人が増え、国民の無関心がこのまま続くと、私たちの子孫は再び私たちが経験したような悲惨な経験をし、その人たちは平和を叫ぶようになるでしょう。人間は時が経つと忘れる愚かな生き物なのです。

 戦争の最中を私たちは生きました。母に抱かれて防空壕に走りました。その壕が爆破されて多くの家族や友人が死にました。家族を残して父や兄は戦場へ行きました。姉達は勤労奉仕で家を離れ、私たちは学童疎開で家族から引き離されました。残された母たちは空襲の中を逃げ惑いました。親も、兄弟も、親戚も、友人も、家も、食べものも、着るものもすべてを失って戦争は終わりました。
 戦争が終わって復員兵と傷病兵と引き揚げ者と浮浪児で国は溢れました。みな、傷つき、病み、寡黙に、怒りやすく、疑い深くなりました。

 1946(昭和21)年、平和憲法ができ、翌年発布されました。それから日本は戦争に巻き込まれずにきました。今、また、戦争を知らない大人たちが、憲法を変えようとしています。今こそ、戦争を体験した私たちが声を上げるときです。

 「良い戦争なんてあったためしがない。また、悪い平和なんてものもあったことがない。ベンジャミン・フランクリン」

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第322号2016年11月号「日本女性の地位②女子学生亡国論」の話


いよいよ11月になりました。皆様お変わりなくおいでのことと存じます。昨日までのハロウィンの騒ぎは驚きです。時代差を感じました。

 政府は人口減少、とりわけ労働人口の減少を視野に入れて「働き方改革」に着手しようとしています。女性が多い非正規労働者の待遇改善のため「同一労働、同一賃金」、女性を働きやすくするための「長時間労働の是正」、それに外国人労働者受け入れなど、多くの問題が検討され始めています。

 それで、今月は「日本女性の地位②女子学生亡国論」の話です。

 前号で日本は女性の「人間開発指数」は高いが実生活では女性の地位が低いことを書きました。

 日本は教育に熱心な国です。明治政府は明治6年に初等教育の義務制を導入しました。学校では新しいタイプの労働力である人材を育成しました。明治期から日本は近代的な学校教育を徐々に整備して多くの有能な人材を社会に送り出しました。子どもの親は自己資金を使って子どもを教育しました。一種の投資です。教育を受けた子どもは学歴や資格等を得て社会で働き、家庭を作り、生まれた子どもを教育する事で日本は近代化し、社会が発展するシステムを確立させ維持してきました。

 このように、男女が教育を受ける体制は整えられましたが、その教育目的、内容は大きく異なりました。戦前の女子教育が掲げた理念は「良妻賢母」でした。旧制の中学校と女学校では、重点を置く教科に差があるばかりでなく教育程度にも歴然とした差がありました。中学校は卒業後、社会で働くことを念頭に置いた教育をし、女学校はよき家庭を作り夫を助け、子どもを育てることを主たる目的として教育されました。女学校は一般に経済的に裕福な家庭のお嬢様が通う学校でした。「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業が学校教育で行われたのでした。この傾向は戦後、男女共学という新しい教育制度においても形を変えて維持されました。大学に進学した女性が選択する専攻分野と男性のそれとは大きく異なりました。女性の学校教育は労働市場への参入すなわち就職を全く考慮していませんでした。そもそも高等教育を受けた女性が社会で働き収入を得ることを、親も本人も学校も考えていませんでした。女性が受けた教育は結婚して夫である男性とその子どもを支えるのに役立つことしか考慮されていませんでした。

 戦後、高等教育を受ける女子は着実に増加し、徐々に男子に追いついていったばかりでなく1980年代には大学・短大をあわせた進学率は男子を追い越しました。さらに1990年代には女子の四年制大学の進学率が短期大学への進学率を上回りました。しかし、専攻分野での隔たりがあり、就職率にも差がありました。女性とその家族の意識もありますが、学校教育と職業とが連動していないのです。

 大卒女子の就業率は30歳で急激に下がり、その後も上がることはありません。これは、高卒女子の就業率が35歳以上になると再上昇するのと大きな違いです。大卒女性は一旦離職した後、再就職をしないのです。過剰な教育を受けた存在として労働市場からもてあまされ、使い捨ての労働力となりました。また、大卒女性は家庭からも排除されました。1960年代「…テナこといわれて、その気になって、女房にしたのが大間違い。掃除洗濯まるでダメ。ひとこと小言を言ったなら、プイと出たきり、ハイ、それまでよ」と歌われました。

 高等教育を受けプライドは高いが家事能力の低い女性が揶揄の対象になっています。また、女子学生の多くは文学部などを選んで入学しました。1990年代に暉峻康隆(早稲田大学教授)は「文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校化している」と「女子学生亡国論」を展開しました。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第321号2016年10月号「日本女性の地位」の話


今年もはや10月を迎えました。7月のイギリス首相メイ氏、8月の小池東京都知事の誕生に加え、9月には民進党代表に蓮舫氏が選ばれました。11月には、米大統領にクリントン女史が選ばれそうな気配です。いよいよ女性の時代到来かと心を躍らせています。

 それで、今月は「日本女性の地位」の話です。

 「8・15はどんな日でしたか」という調査では「男(父)は悔しがり、女(母)はほっとした」でした。敗戦を迎えて男は虚脱しましたが、女にはそのようなゆとりはありませんでした。女は、これまで通り食料の調達など、日々の暮らしと格闘する毎日でしたが、戦争という重石から解放され、少なくとも命の危険から逃れたという安堵感がありました。

 この年の10月11日、GHQは日本政府に5大改革を指示しました。その一つが「婦人参政権」でした。その他は「労働組合の結成」「教育の自由化」「圧政的諸制度(治安維持法など)の撤廃」「経済の民主化」と、そのいずれも男女同権に向かう改革を含んでいました。アメリカにとって日本の圧倒的な男性支配・男性優位は軍国主義の土壌として排除すべき目標の一つだったのです。GHQによらずしては、未だに低いと言われる日本女性の地位ですが、ここまででも変化する事はなかった考えられています。

 戦争中、男性の不在を補うために、女性があらゆる職場、平時であれば決して女性に立ち入る事を許さなかった多くの工場・駅・役場や市役所・学校・警察・消防にまで女性は臨時職員、代用教員などとして動員されました。女性は良くその役目を守り職業人として立派にやり遂げました。しかし、戦後、不要になった軍需工場の整理による男性失業者増、復員や引き揚げ男性の職場確保のために、当時の厚生省は「女性の家庭復帰」を叫び、女子労働者に離職を迫り、女性は泣く泣く家庭に帰りました。

 また、GHQ指令による婦人選挙権の賦与に当たって帝国議会議員は女性に選挙権を与えたら、日本の家族制度がこわれると主張しました。また「自己ノ自由意志ニヨッテ投票ヲナシ得ル婦人ハ極メテ稀デアラウ」と、女性をみくびる発言も公然と行われました。また「婦人ノ穏健中性ニ期待シテ宜シイノデハナイカ」という、意味不明な意見もあり、婦人参政権は辛うじて、平和憲法と共に議会を通過しました。この結果、翌年4月の総選挙で39人の婦人議員が誕生しました。今に至るまで,これ以上の数の女性が当選したことはありません。

 参政権を筆頭に「教育の機会均等」「男女共学」「労働基準法」「民法」など両性の平等に向けて次々に法整備がなされました。民法の改正により「伝統的(封建的)家族制度」が崩壊しました。制度が変わったからといって、家族関係が急に変化したわけではありません。法的には一家の大黒柱=戸主でなくても父親はやはり一家の中心であり、母親は育児と家事を取り仕切り、祖父母と同居するという状態に変化はありませんでした。

 しかし昭和30年代に入ると「核家族」が浸透し、昭和35(1960)年には「家つき、カーつき、ババ抜き」という、若者の本音を語る流行語が生まれました。
 戦後70年、日本の家族制度は大きく変化しましたが、現在でも、日本女性の地位は世界145カ国中101位という低さです。

 安倍晋三氏は、社会のあらゆる分野において「女性が輝く社会」を目指し、女性管理職を、2020年までに30%にするという目標(202030)を掲げましたが、未だ 10%にも充たない状態です。国家財政の低迷と共に、その実現は道遠しです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第320号2016年09月号「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話



台風一過の好天、まだ湿気を含み暑い日になりました。お変わりなくおいでのことと存じます。

7月末にオーストリアのウィーンで第30回 国際女医会が開かれ、出席して参りました。成田から片道約12時間の空の旅、疲れました。
 国際会議ですので、世界各国から出席者があります。夕食会で隣になったのはオーストリアの皮膚科医でした。かなり高齢の方で、伺うと1925(大正14)年生まれで、91歳とのことでした。また「私の大叔父はハインリッヒ・ハラーと言って戦争中にパキスタンに幽閉され、ヒマラヤを越えて脱出した人である」と話をされました。

 帰って調べました。ハインリッヒ・ハラーは登山家で、アイガー北壁の登山に成功したドイツ登山隊の一人としてイギリス領インド(パキスタン)にいました。その時、第二次世界大戦が勃発し、帰国する為の船を待っていた登山隊一行は敵対国の国民としてその場で拘束されました。その後、捕虜収容所から数度の脱走を試みた後、成功し、ヒマラヤを越えてチベットに逃れダライラマに保護され、聖都ラサで暮らしました。1951(昭和26)年、中国がチベットに攻め入り、ダライラマがチベットを去るまでの記録を『チベットの七年』として出版しました。

 それで、今月は「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話です。

 ウィーンでは会議の合間に市内観光に行きました。観光バスは何系統か走っていますが、すべてイアホーンで日本語の解説が聞かれました。ドナウ川の近くにあるバスプールを出てシェーンブルン宮殿巡りのコースに乗りましたら、観光案内はサラエボ事件から始まりました。当時オーストリア領であったサラエボに新婚旅行をかねて視察に行ったオーストリア皇太子が暗殺された事件です。オーストリアは第一次世界大戦のきっかけとなる事件が起きた国でした。

 オーストリア生まれのヒットラーはドイツ国籍を取得し、ドイツ総統となった後の1938(昭和13)年にオーストリアをドイツに併合しました。そのために、オーストリアは第二次世界大戦末期、西側陣営から徹底的に攻撃され、ウィーンは大きな被害を受けました。その時破壊されなかった建物と修復された建物が道路沿いに延々と並んでいます。新しい建物には外装の飾りは無く、如何にも安普請といった感じで、古い建物との差は一目瞭然です。かつての見事な街を想像すると古都ウィーンがいかにひどい破壊を受けたのか、それをオーストリアの人々がいかに悔しく、残念に記憶しているかは、観光案内の解説でも知ることができました。敵から街を守る為に築かれた街壁、石造りの建物群がまだらに残るオーストリアの復興と日本の焼け野原からの復興、それぞれに大変であったと改めて感じました。

 帰国したのは8月。日本都市への無差別攻撃。広島、長崎への原爆投下は、一般市民に対するナチスによるホロコースト以上の残虐行為ではないか。なぜ、ウランとプルトニウム成分の異なる2発の原爆を落としたのか、天皇陛下のお言葉、オリンピック、全国高校野球など、喧噪の中で、いろいろな思いを新たにしました。
 特に印象が深かったのは「NHK特集 科学と戦争」でした。科学者がその頭脳で生み出した、あらゆる成果は戦争に使われました。火薬、飛行機、レーダー、戦車、通信技術、毒ガス、核融合…。戦争はまた、科学や技術を進歩させます。戦争は医学の進歩にも貢献しました。戦傷に対する外科治療、レーザー光線の医学的応用、白内障の眼内レンズのヒントはドイツ軍戦闘機の風防硝子の破片が眼に入ったことでした。

 「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を置きて去る」 金子兜太
                               トラック島を去る時に詠む。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第319号2016年08月号「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話

    72回目の終戦記念日がやって来ます。1937(昭和12)年に作曲家・信時 潔は大友家持の歌の一部「海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草むす屍…」を歌詞にして「海ゆかば」を作曲しました。これは国民の戦意高揚を意図されて作曲依頼された曲で、太平洋戦争中は、大本営発表や、部隊の玉砕を伝える際にラジオから流されました。

 そのすぐれた調べから第二の国歌ともいわれました。そのためもあって戦後一時、この曲の放送が禁止されました。

   それで、今月は「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話です。

   戦争をするには軍隊が必要です。軍隊には必ず軍医が付き添います。第二次世界大戦のころには日本には現在の防衛医大にあたる軍医養成学校はありませんでした。
 当時、軍医になるには二つの道がありました、一つは医学生に奨学金を支給して卒業後は軍医として勤務する約束をする道、もう一つは赤紙で応召されて軍医となる道です。戦争が始まると、45歳以下の医師(開業医・勤務医)に赤紙が来ました。この場合、多くの医師は軍医を志願しました。軍医としての勤務を拒否すると二等兵扱いですが、軍医であれば将校扱いとなります。
 軍医となっても、勤務が日本国内の軍病院や野戦病院であれば戦死する危険は低いのですが、海軍の場合は軍艦に乗船すれば戦死の可能性が高くなります。特に潜水艦に乗組んだ場合は沈没すれば確実に死亡します。
 ドイツ軍は「軍医は貴重な人材」とされていたので潜水艦には軍医ではなくて、衛生兵が乗っていたということです。
 戦地では、兵と共に多くの軍医が戦死しました。長引いた日中戦争のころから、日本軍は軍医不足に悩まされました。
 国は促成の医師養成を開始しました。医師でさえあればいつでも軍医として徴兵できます。  昭和15年5月、七帝大の医学部と六医大に医学部よりも教育期間が短い「医学専門学校(医専)」を新設し、医師の養成を始めました。それでも不足する医師を補うために、国は歯科医師を教育して医師免許を与える「臨時科」を慶応義塾大学と慈恵会医科大学に開設しました。ここでは歯科医師を医学部3年生に編入させて教育し、医師免許を与えました。さらに、第二次世界大戦末期の昭和20年4月には各県でも歯科医師に医学教育をし、6か月の実施修練を行った後に医師免許を与える道を作りました。それでも男性医師はどんどん戦地に送られたた結果、国内で医師不足となりました。国は札幌、秋田、福島、名古屋、高知などに、女子医専を新設し、女性医師の養成を行いました。
 このため、戦後の日本は復員してきた医師、引き揚げてきた医師、国内で速成された多くの医師による医師過剰に悩まされました。
 北大医学部を昭和20年に卒業し、いまは98歳になられる今村昌耕氏がその時代について以下のように述べておられます。
 「第二次世界大戦中には大正時代生まれの男子、1,340万人中200万人(15%)が戦死しました。これは全軍人戦死者の83.3%を占めています。私は海軍に所属しましたが、海軍軍医については、昭和17年に医学部を卒業して海軍軍医になったのは475人で、そのうちの108人、18年卒業では578人中164人、19年卒業では675人中106人、計2,107人の海軍軍医中、379人(約20%)が戦死しました。」
 陸軍でもそれ以上の軍医が亡くなられたはずです。戦争では、戦地で軍人が、内地で一般市民が空襲などで命を落としました。戦争はもうこりごりです。  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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