仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。

FC2ブログより引っ越しました。           
2009年12月~平日朝8時より早朝診察を始めました。どうぞご利用下さい。       
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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バラが満開
こんもりまぁるく花火のようです
バラの名前がわかるといいです

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小田眼科ニュース医心伝信
第317号2016年06月号「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話

 昭和21(1946)年1月4日、GHQはポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として、好ましくない人物「軍国主義者・国家主義者等」を国会議員・報道機関・団体役職員などの公職から追放し、政治活動も禁ずる公職追放(パージ)指令を出しました。これは翌年、対象範囲が拡げられ戦前・戦中の有力企業や軍需産業の社長・幹部、市町村長・助役・町内会長等、さらに教員も対象になりました。

   それで今月は「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話です。

   GHQによるこの指令は戦後の国民生活に大きな混乱を起こしました。パージを受けた人は実質的に社会から抹消されたも同然でした。しかも、パージの対象が中央に留まらず、地方にまで拡大された結果、全国で20万人以上、その家族を含めると100万人以上の人のその後の人生に大きな影響を与えました。

 この指令は日本の指導者を戦争に積極的に協力した軍国主義者とそれ以外の者とを分けるものであり、初めのうちは機械的に公平に実施されましたが、次第に政治的色合いが加味され、日本の政治指導者を刷新するための手段として利用されました。戦後初の国政選挙に勝利し首相の座に着く直前になされた鳩山一郎氏の追放令はGHQの見せしめであったといわれています。鳩山氏がパージされて以後、GHQに反旗を翻す人はいなくなったということです。

 この指令で政党幹部に追放者が続出したために、政界は流動化しました。企業でも戦前からの経営者が追放され、創業者でもオーナーでもない、それまで重役になる見込みのなかった若手の社員が役員に押し上げられ、会社の実権を握るようになりました。源氏鶏太氏の小説『三等重役』はこのような時代背景で書かれたものでした。

 さらに、その年の11月にパージの範囲が市町村長・助役・町内会長などにまで拡げられました。終戦以前から市町村長や助役をしていた者、町内会長、隣組長であった者らすべてがパージになり、地方選挙への立候補も制限されました。この追放令の拡大によって地方自治体は混乱しました。

 こうしたきびしい措置にもかかわらず、追放該当者と思われる者がそのまま現職に居座ったり、行政の外部団体の役職に就いている例があり警告が出されました。

 教員に対する公職追放は、特に国策に協力した国粋派の教師や管理職について、互に指名追放する方法がとられたために、教職員間に不信感、不安、動揺をきたし、教育現場は大きくゆれました。

 これに加え、戦時中の住民組織である隣組にも影響がありました。隣組は5軒から10軒の世帯を一班とし、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、消火訓練、怪我人の介護訓練、竹槍訓練などを一緒に行うだけでなく、住民同士の相互監視の役目も担っていました。食糧などの生活物質が隣組を通して配給されたため全員が隣組に組み込まれました。しかし一部の隣組長には、戦争に批判的なインテリ層などに圧迫を加えたり、配給物資を独占したり、一部の世帯に優先的に分けるなど「えこひいき」的な行動を行った人もいました。そのような人は、このパージにより役目を追われたばかりで無く、その地に住み続けられないような状況も起きました。パージされた人の多くは名誉を失ったばかりで無く生活の基盤をも失いました。

 というわけでパージは日本中の組織、人心、生活にGHQが予期した以上の変化をもたらしました。一方、それまで、何の役目も与えられていなかった若い人たちに、責任ある役職が回ってくることになり、指導層が若返る、いわゆる「三等重役」現象が起き、風通しが良くなりました。

 この指令は昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅しました。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第316号2016年05月号「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話

   風香る5月、ゴールデンウイークの日々の天候は思わしくありませんが、お元気でおいでのことと存じます。「私の8月15日」シリーズ中々終わりません。しばらくおつきあいをお願いします。

   今月は「私の8月15日(16)戦い済んで日が暮れて 共産主義の台頭」の話です。

   東京裁判の結果、東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、広田弘毅、松井石根、武藤章ら7人のA級戦犯に死刑が宣告され、昭和23(1948)年12月23日(当時は皇太子であった現天皇陛下の誕生日)に刑が執行されました。その翌日、岸信介を含む19人のA級戦犯容疑者は全員釈放されました。

   刑が執行される前、東條英機は遺言として「この戦争は自衛戦であり、国際法には違反していない。敗戦については総理大臣であった私の責任だ。しかし、この戦争が国際犯罪であると訴えられ、敗戦国の個人が犯罪者、条約違反者として糾弾されるとは考えたこともなかった」と裁判の不当性を指摘しました。これはこの裁判を行い、傍聴し、聞き知ったすべての人々の共通の思いでした。

 東京裁判で死刑になった7人のA級戦犯は、戦争の共同謀議と捕虜虐待の監督不行き届きを問われた人たちだけでした。この人たちはすべて東京でそれぞれの役目を果たしていました。広田弘毅は外務大臣として、事件の信憑性そのものが疑われる「南京大虐殺」を阻止しなかったこと、木村兵太郎はビルマ戦役で、板垣征四郎は満州とマレーで、土肥原賢二はシンガポールで、武藤章はフィリピンで捕虜虐待を阻止しなかったこと、東條英機は総理大臣として幕僚を取り締まらなかったことの罪を問われました。

 共同謀議については、毎年のように内閣の顔ぶれが変わった当時の日本議会のありようを知りますと、お門違いの「なんくせ」という感じがします。

 戦前、日本が中国を始め朝鮮半島への共産党進出を防ぐ防波堤としての役目をはたしていた事は国際的に認められ、日本が旧満州の統治に力を貸すことは世界的な了解事項でした。中国の蒋介石にとって、日本は自分の権力を強め、中国の皇帝になるという野心を遂げるためにアメリカの力を借りる時間稼ぎに利用するものでしかありませんでした。第二次世界大戦後、ソ連の援助を受けた毛沢東の軍が、蒋介石を中国から追い出し、中国は共産党支配国になり、朝鮮半島も南北の分断国家となり、北朝鮮は共産党支配国になりました。

 戦い済んで日が暮れて、アメリカは共産党の台頭という誤算に直面しました。昭和25(1950)年、ソ連の後押しを得て北朝鮮が国境を越えて大韓民国に攻め入る事態になって、アメリカは日本が果たしていた役割、日本の主張が正しかったと初めて認識しました。その結果が、1月号で紹介したマッカーサーの証言「アメリカが過去100年に東アジアで犯した最大の政治的過ちは、共産主義が中国に勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである」です。日支事変で、のらりくらりと戦争を長引かせていた蒋介石がこの結末を予想できたら、蒋介石の行動は変わっていたかも知れません。

 戦後、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀は日本による保護を希望しましたが、ソ連に拉致され強制収容所に収監されました。東京裁判で証言台に立たされた溥儀はすべての罪を日本に押しつけました。

 満洲国は建国以降、日本、特に関東軍の強い影響下にありました。当時の国際連盟加盟国の多くは満洲地域は法的には中国の主権下にあるべきとし、このことが日本が国際連盟から脱退する主要な原因となりましたが、その後、ドイツ、イタリア、タイ、スペインなどの中立国は満洲国を承認し、ソ連も満洲国と相互に領事館設置を承認するなど、多くの国と国交が結ばれ、独立国として承認されました。共産党に対する防波堤となることが期待されたのでした。  第二次世界大戦末期にソ連は満洲に侵攻し、満洲国は滅亡しました。その後の中国における毛沢東の台頭、紅衛兵、文化大革命等は記憶に新しいことです。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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2016/4/7~4/10、仙台国際センター・東北大学百周年記念館にて。
(山形大学眼科学教室主催)

緑内障の「視野」と「視覚障がい者を支える」の講演を聴いてきました。
普段の診療に役立てたいです。

ビジョンバン

東日本大震災での眼科診療に貢献したビジョンバン。
熊本地震で困っている方々の為に活動の機会があるといいと思います。

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第315号2016年04月号「私の8月15日(15)東京裁判」の話

    第二次世界大戦が終わった後、日本の戦争犯罪を裁く「極東国際軍事裁判」(東京裁判)が開かれました。この裁判はドイツで行われた裁判(ニュ-ルンベルク裁判)とつじつまを合わせるべく開かれたもので、ユダヤ人の虐殺を行ったドイツと日本とでは、多くの点で異なっていたにも拘わらず強引に裁判が行われました。

   それで今月は「私の8月15日(15)東京裁判」の話です。

   東京裁判は、昭和21(1946)年から昭和23(1948)年まで、東京・市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部で開かれました。執行委員会(検察官)11人、裁判官11人はすべて戦勝国から選定され、中立国からは任命されませんでした。弁護人団は日本人8人、アメリカ人20人で構成されました。

 開廷の冒頭、主席検察官キーナン(1888-1954)は「昭和3(1928)年から20(1945)年に至る期間、日本はナチス(ドイツ)やファシスト(イタリア)と同質の軍閥によって支配されていた。その軍閥により日本国民は勝ち目の無い戦争にひきずりこまれた。日本国民は被害者である。日本軍部は文明に対し宣戦を布告した。この裁判は全世界を破滅から救うために断乎たる闘争を開始する」と起訴状を読み上げました。  太平洋戦争の始まりは昭和3(1928)年に起きた満州事変からであるとする考えは日本には承服しがたいものでした。日本はポツダム宣言は受諾しましたが、受諾したのは太平洋戦争についてのみで、それ以前の満州事変や日支事変は問題外と日本は理解していましたが、連合国側は聞く耳を持ちません。

 弁護人となった清瀬一郎(明治17-昭和42)氏は、この法廷には「平和、人道、殺人」に対する罪を裁く権利が無いと、管轄権忌避動議を行いました。ポツダム宣言の時点では戦争犯罪は交戦法違反のみでした。その時に法整備がされていなかった平和、人道、殺人に対する罪を裁く権利がないのは当然です。検察団は痛いところを突かれました。数日後に裁判長は「この問題については将来、宣告する」と返事をしましたが、結局、その説明は無いまま、裁判は終わりました。

 この裁判は世界中から批判を浴びましたが、GHQによる言論統制の厳しかった時代、日本のメディアが自由に報道し批判できる状態にはありませんでした。

 裁判で弁護人の1人となったファーネス(1896-1985 米軍人・弁護士)は、裁判の公平を期すために中立国側からの判事が必要であると言い、ブレイクニー(1908-1963 米軍人・法律家)は「戦争そのものは国際法上合法である。戦争は国家の行為であって個人の行為ではないから、戦争犯罪人として個人を裁くのは間違いである。戦争が合法である以上戦争での殺人は合法である。そうでなければ広島・長崎への原爆投下、日本の都市に無差別爆撃を行った国の人間に、被告を裁く資格は無い」と述べました。このブレイクニーのバクダン発言は同時通訳が即時に停止され、多くの日本人傍聴者には聞き取れませんでした。

 さらに、裁判そのものへの批判として、弁護側が提出した3,000件を超える資料(日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)の2/3が却下されたにも拘らず、検察側の資料は伝聞や偽証と考えられるものでも、その信憑性を確かめること無く採用されました。この時用意された日本側の資料は『東京裁判却下未提出弁護側資料』として出版されています。  結局、この裁判で7人の日本政府高官が死刑になりましたが、これは裁判という名を借りた黄色人種への人種差別が基礎にあるリンチ、「勝者の裁判」などと言われています。

 昭和27(1952)年に、日米間で講和条約が締結されましたが、未だに東京裁判の不当性は、つまびらかに検討されていません。                       
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第314号2016年03月号「私の8月15日(14)ABCD包囲網」の話

 平成28(2016)年1月、両陛下がフィリピンへ慰霊の旅をされました。戦争の記憶を風化させまいとする御意思の表れで、これは悲惨な戦争を経験した人々の共通した思いでもあります。昭和16(1941)年12月8日、日本は遂に太平洋戦争に突入しました。そこに至った理由はいくつかあります。

 それで今月は「私の8月15日(14)ABCD包囲網」の話です。
 
 それまで日本は日清戦争、日露戦争を戦い勝利しました。日本が力をつけてくることを快く思わない国が出てくるのは当然です。その一つがアメリカ(以下 米)でした。その頃、支那へは英・仏・独・露が租借地などの形で進出していました。オランダ(蘭)はインドネシアなどに進出しており、日本も満州国に関わっていました。西部開拓などを終えた米はアジアに進出するチャンスを狙い始めました。

 大正9(1920)年、カリフォルニアで、日本人移民の土地所有を禁じる法案が州議会を通過しました。これが日本人排斥の始まりでした。勤勉で次々に荒れ地を開拓して成功する黄色人種が疎ましくなったのです。この法に多くの州が追随しました。さらに大正13(1924)年、米連邦政府は「絶対的排日移民法(帰化不能外国人移民法)」を成立させました。ここまでされて日本の対米感情は一変しました。これが日米開戦の底流となりました。

 昭和4(1929)年10月24日、ニューヨークの株式暴落から世界大恐慌が起きました。これも第二次世界大戦の原因の一つになりました。

 昭和12(1937)年7月7日夜半、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋の近くで、夜間演習を行っていた日本軍が銃撃を受けました。これをきっかけに日本軍と蒋介石軍とに武力衝突(盧溝橋事件)が起き、日本は広大な支那大陸で、米から武器供与を受けて戦う蒋介石軍と泥沼の日中戦争に引きずり込まれました。盧溝橋事件の真相は謎に包まれていますが、この後、世界の対日感情が悪化し、日本は、経済封鎖(ABCD包囲網)をされることになりました。(A=米 B=英 C=支那 D=蘭 Dutch)これにより日本は太平洋戦争に向かわざるを得なくなりました。

 この経済封鎖を画策したのは、チャーチル(英)でした。第二次世界大戦はドイツのポーランド侵攻で始まりましたが、それを阻止しようとした英は苦戦をしました。この事態を解決するには米を戦争に引きずり込むしかないと英は考えました。

 しかしルーズベルトは絶対に参戦しないという公約を国民に掲げて当選した大統領でした。それで、英は日米間に戦争を起こさせて、日本と同盟関係にあるドイツと米が戦うように画策しました。

 英は米に、日本に対する石油禁輸措置を持ちかけました。石油をまったく輸入できなくなった日本は蘭領インドネシアから石油を得ようとすると、英米はそこにも日本への石油輸出禁止を働きかけ、昭和16(1941)年8月、遂にABCD包囲網が完成しました。それまでも米は次々に日本へ締め付け政策(在米日本人隔離、日米通商航海条約失効、石油、鉛、鉄屑の輸出許可制から禁止、日本の在米資産凍結)等を行ってきました。これらの政策に対して日本は辛抱強く抗議しましたが、米は全く聞く耳を持ちませんでした。米は日本が攻撃してくるのを待っていたのです。

 石油備蓄の限界を切った日本陸軍は渋る海軍を説き伏せ、米に「宣戦布告」をすると同時に、真珠湾にあった米太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけ成功しました。ところが日本が送った対米宣戦布告が大使館員の不手際で米への伝達が遅れ、日本は無警告で攻撃をした。卑怯だという汚名を着せられ、米国民の世論は一気に開戦に振れました。日本軍の暗号解読に成功していた米は日本軍の動きの一切を承知していましたが、そのことについては口を閉じていました。
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第313号2016年02月号「私の8月15日(13)学校給食」の話

   戦後の食糧難は、それを経験した人、大人にも子どもにも決して忘れる事ができませんが、あまり口外はしたくない思い出です。

 それで今月は「私の8月15日(13)学校給食」の話です。

    戦後、GHQの医官として赴任したサムス(1902-1994)は日本人の食糧事情を調査し、深刻なタンパク質不足にあると結論しました。当時、一般の日本人の食生活は米、芋などの炭水化物が主体でした。サムスが日本人はタンパク質を魚から得ていると想定していましたが、魚を日常的に食べるのは海岸に近い所に住む人だけで、輸送がしっかりしていなかった時代、多くの日本人は特別な場合、お祝い事、お正月など以外には魚や動物性タンパク質を食べる習慣はありませんでした。大豆の植物性タンパク質がその不足を補うものでした。従って日本人は常に栄養不良の状態にあり、貧弱な体格で、結核など慢性病に対する抵抗性が低いとサムスは結論しました。

 第二次世界大戦の始まりとほぼ同時の昭和16(1941)年12月、日本軍がフィリピン(以下、比)に上陸しました。日本軍の優勢を見た比軍総司令官マッカーサーはオーストラリアに逃がれました。このときに、マッカーサーと行動を共にした将兵たちが「バターンボーイズ」で、マッカーサーとは強い信頼関係で結ばれていたといわれます。サムスは「バターンボーイズ」の一人でした。

 戦後、来日したアメリカの元大統領フーバー(マッカーサーを任命した大統領)は厳しい日本の食料事情を知って、マッカーサーに食糧の緊急輸入と世界中から救援物資を募ることを提言しました。その結果、アジア救援公認団体からララ物資、ユニセフからも多くの食料が送られ、日本国民は飢えから解放されました。これは、反日感情が激しい中、多くのアメリカ人や関係者の善意の贈り物だったのです。

 フーバーは、さらに学校給食の導入を提案し、サムスは日本政府に子どもたちの栄養補給のため学校給食の導入を要請しました。しかし、日本の為政者や官僚は即戦力にならない子どもの栄養補給は後回しで良いと考えました。そこで、農林省は大人の食糧が不足しているのに子どもの食糧を調達できないと言い、文部省は学校給食のために人を雇う余裕がないと答え、大蔵省も予算がないと拒否しました。

 そこで、サムスは、その食糧は後で日本政府が返してくれることを条件に米軍の食糧を供与することを提案しました。日本政府は「米軍から食料を借りても返せる見込みがない。だから学校給食は不可能である」と返答しました。これを聞いたサムスの顔色が変わりました。日本の官僚たちは彼の怒りを知って沈黙しました。

 学校給食の導入を諦めなかったサムスは、米軍が差し押さえた日本軍の缶詰 約5,000トンとララ物資の一部を給食にまわし、特に食糧事情が悪かった首都圏から学校給食を始めました。やせ細っていた子どもたちの顔は短期間のうちにふっくらとしてきました。

 サムスはタンパク質の補給として一番良いのは牛乳ですが、生の牛乳を供給するために必要な冷蔵庫などの設備が日本には無いことから、保存が容易な脱脂粉乳を給食に取り入れました。脱脂粉乳は保存性や栄養価などは評価されますが、当時の脱脂粉乳を飲んだ者は、一様に臭くて不味かったと言います。でも口に入る物が貴重だった時代、これを飲まずに捨てたという話を聞いたことはありません。

 当時の給食に供された脱脂粉乳はバターを作った残りで、家畜の飼料用として粗雑に扱われていましたので、輸送途中で変質したとも言われています。

 ララ物資は昭和21年11月から昭和27年6月まで、ユニセフからも昭和24年から昭和39年にかけて、脱脂粉乳を始め多くの食料や日用品が日本に届けられました。この時、送られた物資の総額は推定で400億円(当時)という莫大な金額にのぼったと考えられます。                        
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第312号2016年01月号「私の8月15日(12)マッカーサーの証言」の話

   新しい年を迎えました。改めて「年々歳々人同じからず」を実感します。今年は何が起き、世界がどう変わるか、しっかり目を開いて見ようと考えています。

 アメリカの軍人で、開戦時は極東軍司令官、後に西南太平洋方面連合軍総司令官として対日作戦を指揮し、戦後は、日本占領連合国の最高司令官を務め、東京裁判を主導したダグラス・マッカーサー(1880-1964)は、朝鮮戦争の最中にトルーマン大統領により解任されました。

   それで今月は「私の8月15日(12)マッカーサーの証言」の話です。

   第二次世界大戦の末期、日本の敗戦を見越したソ連は日本に宣戦布告をして満州や朝鮮半島の北部に侵攻して来ました。連合国側はソ連が単独で朝鮮半島を占領することに危機感を抱き、朝鮮半島を38度線で分割して北はソ連、南はアメリカが統治することを提示して了承されました。

 それ以来、アメリカとソ連は軍を朝鮮半島に駐在させ事実上の支配を続けていました。ところが、1950(昭和25)年6月25日、突然、北朝鮮が38度線を越えて侵攻して来て朝鮮戦争が勃発しました。

 この戦いで朝鮮半島全土が戦争に巻き込まれました。一時、国連軍は朝鮮半島から追い出される寸前にまで追い詰められましたが、仁川に上陸して攻勢に転じ、満州の国境近くまで進軍しました。1950(昭和25)年10月15日にアメリカ大統領トルーマンとマッカーサーの会談が行われました。トルーマンは早期停戦を希望しましたが、マッカーサーは、これを無視して「中華人民共和国を叩きのめす」と声明を出し、38度線以北に進撃し、旧満州の工業地帯を攻撃したばかりでなく、最新装備を使って空爆をすることと、中国軍に原子爆弾を使用する事をトルーマンに進言しました。

 このマッカーサーの言動は大統領を含めたアメリカ国民の意見を無視するものでした。マッカーサーの暴走のために、戦闘が中華人民共和国にまで拡大し、さらにソ連を刺激し、その結果として第三次世界大戦にまで発展することを恐れたトルーマンは、1951(昭和26)年4月、マッカーサーを解任しました。

 朝鮮戦争を戦って、マッカーサーは日本が共産主義の防護壁として果たして来た役割、さらに、日本が日清、日露を初めとして太平洋戦争まで戦わざるを得なかった日本を理解したと言われています。   マッカーサーは、帰国後の1951(昭和26)年5月3日、アメリカ上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で、以下の二つの重大な発言をしました。

 1.日本は絹産業以外には、固有の天然資源はほとんど何も持たない国である。彼らには綿も羊毛も石油も錫(すず)もゴムも無い。それら一切のものがアジアの海域には存在している。もし、これらの供給が断ち切られたら、日本では多くの人が失業し、国の財政が破綻をすることは明らかであった。日本が戦争へと向かったのは、自衛のためだった。決して侵略のためではなかった。
2.アメリカが過去100年に太平洋で犯した最大の政治的過ちは、共産主義者が中国において勢力を増大して行くのを黙過してしまったことである。

 この発言はニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたということです。  また、マッカーサーは解任前に東京裁判で弁護側が言ったことは正しかった。東京裁判は誤りだったとも発言しました。  マッカーサーの証言について、あり得ないとする意見もありますが、その意図は兎も角、発言があったことは事実のようです。  
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第311号2015年12月号「私の8月15日(11)本土空襲を行った男」の話

   12月8日、太平洋戦争開戦76年目になりました。この戦争末に日本中が無差別に空襲を受けました。初めて日本本土が空襲をされたのは1942(昭和17)年4月18日で、その時、東京・川崎・名古屋・四日市・神戸が攻撃されました。その後、空襲は徐々に頻度と激しさを増し、昭和20年8月14-15日には熊谷(B29、89機。死傷者687人)、伊勢崎(93機)、小田原(死者30-50人)、土崎(132機。死者250)と、敗戦の日まで空襲が続きました。

   それで今月は「私の8月15日(11)本土空襲を行った男」の話です。

   アメリカ軍による空襲は最初は主として軍需工場を目標とし、日本軍による高射砲攻撃を避けて高い所から爆撃をしましたので、命中率が低く損害はそれほど多くはありませんでした。これを改良する為にアメリカ軍は、ドイツや中国で絨毯爆撃を行って成果を上げたカーチス・ルメイ(1906-1990)を日本に呼び、空爆を指揮させました。ルメイは当時最新鋭のB29爆撃機をで、高射砲攻撃を避けるために夜間を選び低高度から焼夷弾を投下する無差別絨毯爆撃を都市部に行いました。また、ルメイは耐火性の低い日本の家屋に強い威力を発揮する新たな焼夷弾を考案し、それを使って3月10日(当時は陸軍記念日)の東京大空襲をはじめ全国の都市を攻撃し焼き払いました。
 東京大空襲では10万人を超える人が亡くなりました。これについてルメイの上官は「この任務で君の部下はどんなことでもやってのける度胸があることを証明した。空軍は太平洋戦争に主要な貢献をなしうる機会を手にした」と、ルメイに賛辞を送りました。
 それ以後、本土空襲は次第に規模と激しさを増し、日本は「皆殺しのルメイ」を恐れ憎みました。8月6日に広島、次いで9日に長崎に原子爆弾投下を行ったのもルメイの指揮下にあったB29爆撃機でした。その後も空襲は続けられ、8月9日から敗戦の日まで、7日間に12回、それによる死者は約2,500人に達しました。戦後、ルメイはアメリカ空軍の最高位である参謀総長に昇進しました。
 敗戦から9年後の1964(昭和29)年12月7日、第一次佐藤栄作内閣は、ルメイに「勲一等旭日大綬章」の授与を決定しました。この叙勲は、日本の航空自衛隊が「航空自衛隊創立10周年式典」にアメリカ空軍参謀総長を招待したことに端を発します。防衛庁が調査し、審査した結果、慣例により、ルメイへの授章が決定したといわれます。
 推薦は防衛庁長官・小泉純也と外務大臣・椎名悦三郎の連名で行われ、防衛庁からは「日本の航空自衛隊育成に協力があった」と理由がつけられました。勲一等旭日大綬章という最高章になったのは、ルメイがアメリカ空軍の最高幹部であったためで、これも慣例に従ってのことだそうです。
 ルメイが東京大空襲や原爆投下を行った部隊を指揮していたことから、この叙勲に大きな批判が起きました。社会党、原水爆禁止団体、被爆者などは国民感情として納得できないと反対しました。「東京大空襲や原爆投下をした者に叙勲するのは不適切ではないか」という国会質問に対して佐藤栄作内閣総理大臣は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、過去にとらわれず、今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」と答え、防衛庁長官の小泉純也は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。それに原爆投下を命令したのはトルーマン大統領である」と答弁しました。
 勲一等の授与は天皇が直接手渡すのが通例ですが、昭和天皇はこれを行わず、入間基地で浦茂航空幕僚長がルメイに授与しました。  
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