仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

小田眼科より、毎月発行しているニュースを載せています。

平日朝8時からの早朝診療を2009年12月から始めましたが2017年1月末までで終了いたします。

眼科の診療時間、場所の地図をひとつの記事にまとめました。
FC2ブログより引っ越しました。           
2006年(平成18)11月1日より病院住所が変わりました。電話番号は変更ありません。
 
小田眼科医院                              
住所:仙台市青葉区八幡2-1-23
電話番号:022-234-7408

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小田眼科ニュース医心伝信

第324号2017年01月号「日露和親条約」の話

 
 昨年末に定刻より約3時間遅れで到着されたプーチン大統領と安倍首相の会談が長門で開かれました。プーチンさんの遅刻はこれまでもよくあったことで、彼はこれで、交渉を優位に進められると考えているようです。
 北方四島返還について、いくらかの進展があるかと淡い期待を持ったのですが、それは全くの期待外れでした。両首脳は「日露双方の立場を害さない形で4島での共同経済活動に向けた協議を始めることで合意した。これは、平和条約締結に向けた重要な一歩だ」と報告しました。この会談は「引き分け」というのが大方の見方です。
 日本側からプーチン大統領に「プチャーチン来航図」の複製が贈られました。

 それで、今月は「日露和親条約」の話です。

 幕末、ペリーが来日して日本は開国やむなき事態に追い込まれました。ハリスにより「日米和親条約」が締結され、日本は250年続いた鎖国に終止符を打ちました。日本開国を知ったロシアは、500名のロシア兵を乗せた軍艦ディアナ号(艦長プチャーチン)を下田に派遣し、幕府との交渉に当たらせました。
 1854年12月22日(嘉永7年11月3日)、下田の玉泉寺で、第1回日露会議が開かれました。ここで、プチャーチンは「日米和親条約と同じく日露和親条約を締結したい、それにはまず両国の修好のため国境を定めることと、通商開始を決めることにある」と述べ、日本がロシアとの通商開始に同意するなら、エトロフ島を日本領土と認め、樺太についても譲歩の用意があると述べました。

 またプチャーチンは「日米和親条約」の内容を公表するよう要求しましたが、幕府川代表の川路らは即答を避けました。
 ついでプチャーチンは開港する港を問題にし、下田は適当でないとして、大坂、箱館、兵庫、浜松などを希望しましたが、日本側は下田開港を譲らず、これについても後日、話し合うことして初日の会談は終わりました。
 これから本格的な交渉に入るべく日露双方とも意気込んでいましたが、その翌日、午前8時すぎ伊豆地方に大地震(M8.0?)がおこり、下田に大津波が襲来しました。この地震は後に「安政東海地震」と名付けられましたが、その地震から32時間後に、南海道沖を震源とするM8.4の「安政南海地震」が発生し、近畿から四国、九州東岸に至る広い地域に甚大な被害をもたらしました。

 この2地震による被害があまりにも甚大であったため、その年の元号が「嘉永」から「安政」に変えられました。
 
 プチャーチンの秘書官として下田にいたゴンチャロフ(後に小説家)はこの津波の有様を以下のように記録しています。「12月23日午前10時、地震が起き、下田湾は大きな津波に襲われた。波は岸に当たって跳ね返った。ここにさらに大きな波がきて二つの津波がぶつかり合った。湾内に溢れた水は円周運動をしながら全湾を洗い、陸上に跳び上がって、下田の人たちが難を避けている高い所まで押し寄せ、下田の町を洗い去った。それからまた新しい津波がやってきた。次第に力を強めた渦巻きは陸上に残っていたすべてのものを破壊し、洗い流し、運び去った。湾内は家屋や舟の破片、死骸、器物など、ありとあらゆる雑多なもので埋め尽くされた。」
 まさに東日本大震災の有様そのものです。
 
 この津波でプチャーチンの旗艦ディアナ号も大破し、曳航される途中、戸田(ヘダ)沖で沈没しました。

 被災したプチャーチン等に日本側は将兵らの救護、食事、住むところ、帰国する船の手当、などについて協力しました。戸田ではロシア兵帰国のための船(ヘダ号)が建造されました。日本の船大工は西洋風の船の製造知識と技術を習得しました。
 
 この混乱で一時中断していた交渉が再開され「日本国と魯西亜国との境 ヱトロプ島とウルップ島との間に在るへし、カラフト島は日本国と魯西亜国との間に於て界を分たす、是まて仕来の通たるへし」と、日露和親条約が締結されました。
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第323号2016年12月号「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話


 アメリカ大統領選挙にトランプさんが勝ちました。その予想外の結果に世界中は大きな衝撃を受けています。トランプさんはアメリカ第一主義を掲げ、これまで世界の警察官として君臨してきたアメリカがその役割から下りると宣言しています。その発言通りにアメリカが行動したら世界はどうなるのか、大きな懸念が起きています。

 一方、日本では、またも、衆議院解散の声が大きくなっています。この選挙で自民党は更に議員数を増やし、憲法改定の作業を進めると聞いています。日本国の理念「三権分立」は風前の灯火です。
 今の平和憲法のままでも、南スーダンでPKO活動している自衛隊に「武器を使って駆けつけ警護」をする役割が国会で承認され、早速、秋田の部隊がスーダンに向かいました。その役目の危うさに、心ある人が危機感を募らせています。戦後72年が過ぎ、戦争を知っている人々が減りつつあります。戦争の悲惨さ、非人間性、不条理を経験した人がまだ残っている今、平和の大切さ、平和憲法の重さを叫ばなければなりません。

 それで、今月は、「私の8月15日 (21) 再び平和憲法」の話です。

 憲法はだれのものでしょうか。国民のものです。国民の声を代表するのは誰でしょうか。国会議員です。でも、投票率は選挙権のある人の50%程度に過ぎません。それでも国会議員が国民の声を代表するとして良いでしょうか。

 戦争が終わって新制中学ができ、私たちはその一期生となりました。1年生の時に社会科ができました。それまでの「知らしむべからず、よらしむべし」という社会から国民総参加の社会を作るとされました。文部省の指導要領には「我が国の政治の働きについて調べ、国民主権と関連付けて政治は国民生活の安定と向上を図るために大切な働きをしていること、現在の我が国の民主政治は日本国憲法の基本的な考え方に基づいていることを考えるようにする」とされ、中学1年生に「あたらしい憲法のはなし」が配布されました。

 これは「みなさん、あたらしい憲法ができました。… ところでみなさんは、憲法はじぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっていないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです」と始まる15章からなり、平明に憲法を解説しています。しかし、この読本は朝鮮半島が不穏な情勢となった1950(昭和25)年に副読本に格下げされ、1952(昭和27)年から発行されなくなりました。

 それでも幸いなことに、この憲法の下で日本の平和は守られてきました。今や、戦争を知らない大人が増え、国民の無関心がこのまま続くと、私たちの子孫は再び私たちが経験したような悲惨な経験をし、その人たちは平和を叫ぶようになるでしょう。人間は時が経つと忘れる愚かな生き物なのです。

 戦争の最中を私たちは生きました。母に抱かれて防空壕に走りました。その壕が爆破されて多くの家族や友人が死にました。家族を残して父や兄は戦場へ行きました。姉達は勤労奉仕で家を離れ、私たちは学童疎開で家族から引き離されました。残された母たちは空襲の中を逃げ惑いました。親も、兄弟も、親戚も、友人も、家も、食べものも、着るものもすべてを失って戦争は終わりました。
 戦争が終わって復員兵と傷病兵と引き揚げ者と浮浪児で国は溢れました。みな、傷つき、病み、寡黙に、怒りやすく、疑い深くなりました。

 1946(昭和21)年、平和憲法ができ、翌年発布されました。それから日本は戦争に巻き込まれずにきました。今、また、戦争を知らない大人たちが、憲法を変えようとしています。今こそ、戦争を体験した私たちが声を上げるときです。

 「良い戦争なんてあったためしがない。また、悪い平和なんてものもあったことがない。ベンジャミン・フランクリン」

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第322号2016年11月号「日本女性の地位②女子学生亡国論」の話


いよいよ11月になりました。皆様お変わりなくおいでのことと存じます。昨日までのハロウィンの騒ぎは驚きです。時代差を感じました。

 政府は人口減少、とりわけ労働人口の減少を視野に入れて「働き方改革」に着手しようとしています。女性が多い非正規労働者の待遇改善のため「同一労働、同一賃金」、女性を働きやすくするための「長時間労働の是正」、それに外国人労働者受け入れなど、多くの問題が検討され始めています。

 それで、今月は「日本女性の地位②女子学生亡国論」の話です。

 前号で日本は女性の「人間開発指数」は高いが実生活では女性の地位が低いことを書きました。

 日本は教育に熱心な国です。明治政府は明治6年に初等教育の義務制を導入しました。学校では新しいタイプの労働力である人材を育成しました。明治期から日本は近代的な学校教育を徐々に整備して多くの有能な人材を社会に送り出しました。子どもの親は自己資金を使って子どもを教育しました。一種の投資です。教育を受けた子どもは学歴や資格等を得て社会で働き、家庭を作り、生まれた子どもを教育する事で日本は近代化し、社会が発展するシステムを確立させ維持してきました。

 このように、男女が教育を受ける体制は整えられましたが、その教育目的、内容は大きく異なりました。戦前の女子教育が掲げた理念は「良妻賢母」でした。旧制の中学校と女学校では、重点を置く教科に差があるばかりでなく教育程度にも歴然とした差がありました。中学校は卒業後、社会で働くことを念頭に置いた教育をし、女学校はよき家庭を作り夫を助け、子どもを育てることを主たる目的として教育されました。女学校は一般に経済的に裕福な家庭のお嬢様が通う学校でした。「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業が学校教育で行われたのでした。この傾向は戦後、男女共学という新しい教育制度においても形を変えて維持されました。大学に進学した女性が選択する専攻分野と男性のそれとは大きく異なりました。女性の学校教育は労働市場への参入すなわち就職を全く考慮していませんでした。そもそも高等教育を受けた女性が社会で働き収入を得ることを、親も本人も学校も考えていませんでした。女性が受けた教育は結婚して夫である男性とその子どもを支えるのに役立つことしか考慮されていませんでした。

 戦後、高等教育を受ける女子は着実に増加し、徐々に男子に追いついていったばかりでなく1980年代には大学・短大をあわせた進学率は男子を追い越しました。さらに1990年代には女子の四年制大学の進学率が短期大学への進学率を上回りました。しかし、専攻分野での隔たりがあり、就職率にも差がありました。女性とその家族の意識もありますが、学校教育と職業とが連動していないのです。

 大卒女子の就業率は30歳で急激に下がり、その後も上がることはありません。これは、高卒女子の就業率が35歳以上になると再上昇するのと大きな違いです。大卒女性は一旦離職した後、再就職をしないのです。過剰な教育を受けた存在として労働市場からもてあまされ、使い捨ての労働力となりました。また、大卒女性は家庭からも排除されました。1960年代「…テナこといわれて、その気になって、女房にしたのが大間違い。掃除洗濯まるでダメ。ひとこと小言を言ったなら、プイと出たきり、ハイ、それまでよ」と歌われました。

 高等教育を受けプライドは高いが家事能力の低い女性が揶揄の対象になっています。また、女子学生の多くは文学部などを選んで入学しました。1990年代に暉峻康隆(早稲田大学教授)は「文学部は女子学生に占領されて、いまや花嫁学校化している」と「女子学生亡国論」を展開しました。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第321号2016年10月号「日本女性の地位」の話


今年もはや10月を迎えました。7月のイギリス首相メイ氏、8月の小池東京都知事の誕生に加え、9月には民進党代表に蓮舫氏が選ばれました。11月には、米大統領にクリントン女史が選ばれそうな気配です。いよいよ女性の時代到来かと心を躍らせています。

 それで、今月は「日本女性の地位」の話です。

 「8・15はどんな日でしたか」という調査では「男(父)は悔しがり、女(母)はほっとした」でした。敗戦を迎えて男は虚脱しましたが、女にはそのようなゆとりはありませんでした。女は、これまで通り食料の調達など、日々の暮らしと格闘する毎日でしたが、戦争という重石から解放され、少なくとも命の危険から逃れたという安堵感がありました。

 この年の10月11日、GHQは日本政府に5大改革を指示しました。その一つが「婦人参政権」でした。その他は「労働組合の結成」「教育の自由化」「圧政的諸制度(治安維持法など)の撤廃」「経済の民主化」と、そのいずれも男女同権に向かう改革を含んでいました。アメリカにとって日本の圧倒的な男性支配・男性優位は軍国主義の土壌として排除すべき目標の一つだったのです。GHQによらずしては、未だに低いと言われる日本女性の地位ですが、ここまででも変化する事はなかった考えられています。

 戦争中、男性の不在を補うために、女性があらゆる職場、平時であれば決して女性に立ち入る事を許さなかった多くの工場・駅・役場や市役所・学校・警察・消防にまで女性は臨時職員、代用教員などとして動員されました。女性は良くその役目を守り職業人として立派にやり遂げました。しかし、戦後、不要になった軍需工場の整理による男性失業者増、復員や引き揚げ男性の職場確保のために、当時の厚生省は「女性の家庭復帰」を叫び、女子労働者に離職を迫り、女性は泣く泣く家庭に帰りました。

 また、GHQ指令による婦人選挙権の賦与に当たって帝国議会議員は女性に選挙権を与えたら、日本の家族制度がこわれると主張しました。また「自己ノ自由意志ニヨッテ投票ヲナシ得ル婦人ハ極メテ稀デアラウ」と、女性をみくびる発言も公然と行われました。また「婦人ノ穏健中性ニ期待シテ宜シイノデハナイカ」という、意味不明な意見もあり、婦人参政権は辛うじて、平和憲法と共に議会を通過しました。この結果、翌年4月の総選挙で39人の婦人議員が誕生しました。今に至るまで,これ以上の数の女性が当選したことはありません。

 参政権を筆頭に「教育の機会均等」「男女共学」「労働基準法」「民法」など両性の平等に向けて次々に法整備がなされました。民法の改正により「伝統的(封建的)家族制度」が崩壊しました。制度が変わったからといって、家族関係が急に変化したわけではありません。法的には一家の大黒柱=戸主でなくても父親はやはり一家の中心であり、母親は育児と家事を取り仕切り、祖父母と同居するという状態に変化はありませんでした。

 しかし昭和30年代に入ると「核家族」が浸透し、昭和35(1960)年には「家つき、カーつき、ババ抜き」という、若者の本音を語る流行語が生まれました。
 戦後70年、日本の家族制度は大きく変化しましたが、現在でも、日本女性の地位は世界145カ国中101位という低さです。

 安倍晋三氏は、社会のあらゆる分野において「女性が輝く社会」を目指し、女性管理職を、2020年までに30%にするという目標(202030)を掲げましたが、未だ 10%にも充たない状態です。国家財政の低迷と共に、その実現は道遠しです。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第320号2016年09月号「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話



台風一過の好天、まだ湿気を含み暑い日になりました。お変わりなくおいでのことと存じます。

7月末にオーストリアのウィーンで第30回 国際女医会が開かれ、出席して参りました。成田から片道約12時間の空の旅、疲れました。
 国際会議ですので、世界各国から出席者があります。夕食会で隣になったのはオーストリアの皮膚科医でした。かなり高齢の方で、伺うと1925(大正14)年生まれで、91歳とのことでした。また「私の大叔父はハインリッヒ・ハラーと言って戦争中にパキスタンに幽閉され、ヒマラヤを越えて脱出した人である」と話をされました。

 帰って調べました。ハインリッヒ・ハラーは登山家で、アイガー北壁の登山に成功したドイツ登山隊の一人としてイギリス領インド(パキスタン)にいました。その時、第二次世界大戦が勃発し、帰国する為の船を待っていた登山隊一行は敵対国の国民としてその場で拘束されました。その後、捕虜収容所から数度の脱走を試みた後、成功し、ヒマラヤを越えてチベットに逃れダライラマに保護され、聖都ラサで暮らしました。1951(昭和26)年、中国がチベットに攻め入り、ダライラマがチベットを去るまでの記録を『チベットの七年』として出版しました。

 それで、今月は「私の8月15日(20)オーストリア 科学と戦争」の話です。

 ウィーンでは会議の合間に市内観光に行きました。観光バスは何系統か走っていますが、すべてイアホーンで日本語の解説が聞かれました。ドナウ川の近くにあるバスプールを出てシェーンブルン宮殿巡りのコースに乗りましたら、観光案内はサラエボ事件から始まりました。当時オーストリア領であったサラエボに新婚旅行をかねて視察に行ったオーストリア皇太子が暗殺された事件です。オーストリアは第一次世界大戦のきっかけとなる事件が起きた国でした。

 オーストリア生まれのヒットラーはドイツ国籍を取得し、ドイツ総統となった後の1938(昭和13)年にオーストリアをドイツに併合しました。そのために、オーストリアは第二次世界大戦末期、西側陣営から徹底的に攻撃され、ウィーンは大きな被害を受けました。その時破壊されなかった建物と修復された建物が道路沿いに延々と並んでいます。新しい建物には外装の飾りは無く、如何にも安普請といった感じで、古い建物との差は一目瞭然です。かつての見事な街を想像すると古都ウィーンがいかにひどい破壊を受けたのか、それをオーストリアの人々がいかに悔しく、残念に記憶しているかは、観光案内の解説でも知ることができました。敵から街を守る為に築かれた街壁、石造りの建物群がまだらに残るオーストリアの復興と日本の焼け野原からの復興、それぞれに大変であったと改めて感じました。

 帰国したのは8月。日本都市への無差別攻撃。広島、長崎への原爆投下は、一般市民に対するナチスによるホロコースト以上の残虐行為ではないか。なぜ、ウランとプルトニウム成分の異なる2発の原爆を落としたのか、天皇陛下のお言葉、オリンピック、全国高校野球など、喧噪の中で、いろいろな思いを新たにしました。
 特に印象が深かったのは「NHK特集 科学と戦争」でした。科学者がその頭脳で生み出した、あらゆる成果は戦争に使われました。火薬、飛行機、レーダー、戦車、通信技術、毒ガス、核融合…。戦争はまた、科学や技術を進歩させます。戦争は医学の進歩にも貢献しました。戦傷に対する外科治療、レーザー光線の医学的応用、白内障の眼内レンズのヒントはドイツ軍戦闘機の風防硝子の破片が眼に入ったことでした。

 「水脈(みお)の果て 炎天の墓碑を置きて去る」 金子兜太
                               トラック島を去る時に詠む。

小田眼科医院理事長 小田泰子
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第319号2016年08月号「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話

    72回目の終戦記念日がやって来ます。1937(昭和12)年に作曲家・信時 潔は大友家持の歌の一部「海ゆかば 水漬く屍、山ゆかば 草むす屍…」を歌詞にして「海ゆかば」を作曲しました。これは国民の戦意高揚を意図されて作曲依頼された曲で、太平洋戦争中は、大本営発表や、部隊の玉砕を伝える際にラジオから流されました。

 そのすぐれた調べから第二の国歌ともいわれました。そのためもあって戦後一時、この曲の放送が禁止されました。

   それで、今月は「私の8月15日(19)海ゆかば 戦争と軍医」の話です。

   戦争をするには軍隊が必要です。軍隊には必ず軍医が付き添います。第二次世界大戦のころには日本には現在の防衛医大にあたる軍医養成学校はありませんでした。
 当時、軍医になるには二つの道がありました、一つは医学生に奨学金を支給して卒業後は軍医として勤務する約束をする道、もう一つは赤紙で応召されて軍医となる道です。戦争が始まると、45歳以下の医師(開業医・勤務医)に赤紙が来ました。この場合、多くの医師は軍医を志願しました。軍医としての勤務を拒否すると二等兵扱いですが、軍医であれば将校扱いとなります。
 軍医となっても、勤務が日本国内の軍病院や野戦病院であれば戦死する危険は低いのですが、海軍の場合は軍艦に乗船すれば戦死の可能性が高くなります。特に潜水艦に乗組んだ場合は沈没すれば確実に死亡します。
 ドイツ軍は「軍医は貴重な人材」とされていたので潜水艦には軍医ではなくて、衛生兵が乗っていたということです。
 戦地では、兵と共に多くの軍医が戦死しました。長引いた日中戦争のころから、日本軍は軍医不足に悩まされました。
 国は促成の医師養成を開始しました。医師でさえあればいつでも軍医として徴兵できます。  昭和15年5月、七帝大の医学部と六医大に医学部よりも教育期間が短い「医学専門学校(医専)」を新設し、医師の養成を始めました。それでも不足する医師を補うために、国は歯科医師を教育して医師免許を与える「臨時科」を慶応義塾大学と慈恵会医科大学に開設しました。ここでは歯科医師を医学部3年生に編入させて教育し、医師免許を与えました。さらに、第二次世界大戦末期の昭和20年4月には各県でも歯科医師に医学教育をし、6か月の実施修練を行った後に医師免許を与える道を作りました。それでも男性医師はどんどん戦地に送られたた結果、国内で医師不足となりました。国は札幌、秋田、福島、名古屋、高知などに、女子医専を新設し、女性医師の養成を行いました。
 このため、戦後の日本は復員してきた医師、引き揚げてきた医師、国内で速成された多くの医師による医師過剰に悩まされました。
 北大医学部を昭和20年に卒業し、いまは98歳になられる今村昌耕氏がその時代について以下のように述べておられます。
 「第二次世界大戦中には大正時代生まれの男子、1,340万人中200万人(15%)が戦死しました。これは全軍人戦死者の83.3%を占めています。私は海軍に所属しましたが、海軍軍医については、昭和17年に医学部を卒業して海軍軍医になったのは475人で、そのうちの108人、18年卒業では578人中164人、19年卒業では675人中106人、計2,107人の海軍軍医中、379人(約20%)が戦死しました。」
 陸軍でもそれ以上の軍医が亡くなられたはずです。戦争では、戦地で軍人が、内地で一般市民が空襲などで命を落としました。戦争はもうこりごりです。  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第318号2016年07月号「私の8月15日(18)平和憲法」の話

     日本国憲法は、今から70年前の昭和21(1946)年11月3日に公布され、翌年の5月3日に施行されました。いま、憲法改定論議が盛んです。

   それで、今月は「私の8月15日(18)平和憲法」の話です。

   今、論議を呼んでいるのは集団的自衛権の行使容認を含む、安全保障関連法案をめぐる問題です。

 集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国が武力攻撃を受けた場合、自国が直接攻撃されていなくても、実力で阻止する権利」です。これまでの政府は憲法第9条で許容される自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどめるべきであり、集団的自衛権を行使することは、憲法上許されないとしてきました。ところが、現政府はこれまでの解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認しようとしています。

 戦争、武力闘争、そして暴力の応酬が絶えない今日の国際社会で、日本国民が全世界の国民とともに、平和に生きる権利(平和的生存権)の実現を目指し、平和憲法を守る意義は極めて大きいと考えます。

 終戦後、平和憲法が制定されましたが、その経緯についてマッカーサーは次のように述べています。「戦争を禁止する条項を憲法に入れるように言ったのは幣原首相です。首相は、私の職業軍人としての経歴を考え、このような条項を憲法に入れることに私がどんな態度をとるか不安であったと言っておられました。この提案を聞いた私は、最初は驚きましたが、心から賛成であるというと、首相は安堵の表情を示され、私は感動しました」。

 幣原氏はこの事について秘書の平野三郎氏に「口外無用」と口を封じましたが、昭和39(1964)年2月に憲法調査会が開かれた際に、時の憲法調査会会長・高柳賢三氏(英米法学者。東京大学名誉教授)の説得で、「昨今の憲法制定の経緯に関する論議の状況にかんがみて、あえて公にすることにした」として、平野氏は調査会にその経緯を書いた、いわゆる「平野文書」を提出しました。これは、憲法調査会の参考資料として正式に採択され、現在、国立国会図書館に保管されています。平野氏にこの文書を公にするように迫った高柳氏は「私は第九条は未来永劫ふれるべきではないと思っています。自衛権は本来的にあるという意見がありますが、未だかつて自ら侵略と称した戦争はなく、すべて自衛戦争ですから、一つ歯止めを外したら結局は元の木阿弥になってしまいます」。と語り、さらに「日本のためだけでない。世界のため、人類のために、戦争放棄という世界史の扉を開く大宣言を日本にやらせて欲しいと希望されたのは天皇陛下でした。天皇のこの考えがマッカーサー元帥を動かしたのです。元帥に直接言ったのは幣原首相ですが、戦争放棄自体は天皇のお考えです」と言っています。

 第3代米大統領ジェファーソンは「政府は信用してはならないものであり、憲法は国家の暴走・国民に対する横暴を抑えるためのものである」と言い、井上ひさしは「私たちがときの政府に対して命令するというのが憲法で、ときの政府が国民に命令するのが法律です。では、その国民の命令と政府の命令がぶつかった場合にどうするか。常に憲法のほうが優先するのです」と説明しています。   憲法は、政権の力を制限することによって、国民の権利、自由、安全などを確保するためのものです。憲法は国民のものであり、すべての国民は憲法によって守られなければなりません。戦争を経験した人々がだんだん少なくなっています。次の世代のために平和憲法をしっかり守りたいと思います。                  
小田眼科医院理事長 小田泰子
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第317号2016年06月号「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話

 昭和21(1946)年1月4日、GHQはポツダム宣言に基づく日本民主化政策の一環として、好ましくない人物「軍国主義者・国家主義者等」を国会議員・報道機関・団体役職員などの公職から追放し、政治活動も禁ずる公職追放(パージ)指令を出しました。これは翌年、対象範囲が拡げられ戦前・戦中の有力企業や軍需産業の社長・幹部、市町村長・助役・町内会長等、さらに教員も対象になりました。

   それで今月は「私の8月15日(17)公職追放 パージ」の話です。

   GHQによるこの指令は戦後の国民生活に大きな混乱を起こしました。パージを受けた人は実質的に社会から抹消されたも同然でした。しかも、パージの対象が中央に留まらず、地方にまで拡大された結果、全国で20万人以上、その家族を含めると100万人以上の人のその後の人生に大きな影響を与えました。

 この指令は日本の指導者を戦争に積極的に協力した軍国主義者とそれ以外の者とを分けるものであり、初めのうちは機械的に公平に実施されましたが、次第に政治的色合いが加味され、日本の政治指導者を刷新するための手段として利用されました。戦後初の国政選挙に勝利し首相の座に着く直前になされた鳩山一郎氏の追放令はGHQの見せしめであったといわれています。鳩山氏がパージされて以後、GHQに反旗を翻す人はいなくなったということです。

 この指令で政党幹部に追放者が続出したために、政界は流動化しました。企業でも戦前からの経営者が追放され、創業者でもオーナーでもない、それまで重役になる見込みのなかった若手の社員が役員に押し上げられ、会社の実権を握るようになりました。源氏鶏太氏の小説『三等重役』はこのような時代背景で書かれたものでした。

 さらに、その年の11月にパージの範囲が市町村長・助役・町内会長などにまで拡げられました。終戦以前から市町村長や助役をしていた者、町内会長、隣組長であった者らすべてがパージになり、地方選挙への立候補も制限されました。この追放令の拡大によって地方自治体は混乱しました。

 こうしたきびしい措置にもかかわらず、追放該当者と思われる者がそのまま現職に居座ったり、行政の外部団体の役職に就いている例があり警告が出されました。

 教員に対する公職追放は、特に国策に協力した国粋派の教師や管理職について、互に指名追放する方法がとられたために、教職員間に不信感、不安、動揺をきたし、教育現場は大きくゆれました。

 これに加え、戦時中の住民組織である隣組にも影響がありました。隣組は5軒から10軒の世帯を一班とし、住民の動員や物資の供出、統制物の配給、消火訓練、怪我人の介護訓練、竹槍訓練などを一緒に行うだけでなく、住民同士の相互監視の役目も担っていました。食糧などの生活物質が隣組を通して配給されたため全員が隣組に組み込まれました。しかし一部の隣組長には、戦争に批判的なインテリ層などに圧迫を加えたり、配給物資を独占したり、一部の世帯に優先的に分けるなど「えこひいき」的な行動を行った人もいました。そのような人は、このパージにより役目を追われたばかりで無く、その地に住み続けられないような状況も起きました。パージされた人の多くは名誉を失ったばかりで無く生活の基盤をも失いました。

 というわけでパージは日本中の組織、人心、生活にGHQが予期した以上の変化をもたらしました。一方、それまで、何の役目も与えられていなかった若い人たちに、責任ある役職が回ってくることになり、指導層が若返る、いわゆる「三等重役」現象が起き、風通しが良くなりました。

 この指令は昭和27(1952)年、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、自然消滅しました。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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