「人類館事件 教育の力」の話(291号2014年04月号) | 仙台市青葉区八幡2丁目・小田眼科ニュース

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第291号2014年04月号「人類館事件 教育の力」の話

   ダーウィンの進化論が一般に受け入れられると共に、人々に人間の進化に差があるという考えが出てきました。西欧人と西欧社会を進化の頂点としアジアやアフリカ等の民族と社会を「遅れた」「劣った」ものとみなす観点です。そうした中、植民地の諸民族文化と西欧文明との差異を展示する人間動物園が各地で植民地経営の成功を示すものとして開かれ、人気を博しました。

 異民族の展示は1870年代には多くの国で行われました。ドイツの野生動物商は「完全に自然なままの」民族としてサモア人とサーミ人、ヌビア人、エスキモー等を展示し各地で大人気を博しました。

 1867(慶応4)年に開かれたパリ万博に初めて参加した日本は伝統工芸品の出品と同時に、日本茶屋で3人の柳橋芸者がお茶屋での実際を見世物にしました。これは同時に展示された漆器や有田焼以上の大人気でした。

 今月は「人類館事件 教育の力」の話です。

 1903(明治36)年に大阪で勧業博覧会が開催されるに当たり「アイヌ、台湾生蕃、琉球、朝鮮、支那、印度、ジャワ、バルガリー、トルコ、アフリカの男女が日常の起居動作を見せる」という人間の展示が計画されました。

 これに対して中国から異義申し立てがあり展示は取りやめられました。朝鮮については朝鮮志士による撤回運動が起きました。琉球人からは同胞に対する侮辱とする抗議がありました。「学術人類館とはいうが実際は見せ物に過ぎない。外国人に対して侮辱であれば同胞に対しても侮辱である」。沖縄の新聞は連日投書を掲載し当局に中止を迫りました。

 琉球はもともと琉球王国でしたが、1879(明治12)年に日本に組み込まれ沖縄県になりました。それ以後、容赦のない「同化」政策がとられ、沖縄県人に皇国民教育が押しつけられ、沖縄方言の使用禁止、沖縄の宗教や文芸・習俗など沖縄の伝統が全く無視されました。アイヌにも同様の同化策が押しつけられました。このやり方に対して沖縄人は「その背後に日本人の唯我独尊的な態度とそれを裏打ちする無神経さが露呈している」と批判しました。一般日本人の沖縄県人やアイヌに対する差別意識も強くありました。

 同じ人類館に陳列されることになった人々にも連帯は生まれませんでした。沖縄県人は台湾の生蕃や北海道のアイヌを沖縄県人より劣ると、それらの人と同一視されることを侮辱と考えました。沖縄の人は「沖縄人はネーションであり、アイヌはピーピルである」と考えました。沖縄県人の抗議により陳列は中止されましたが、アイヌの陳列は行われました。

 陳列されたのはアイヌ首長ホテネ夫妻と子供達他12名でした。当時、ホテネはアイヌ人のための学校を建てたいと希望していました。自己資金を用意しましたが、校舎の建築・維持・管理・教師の招聘等には不充分で公的援助が必要でした。十勝役所の勧めでホテネは土人学校設立の援助を受けることを条件に展示に参加しました。ホテネはこの会場で土人学校設立希望について話をし、来館者から幾許かの義援金を得たといわれています。

 これは後に『人類館事件』と呼ばれました。民族として主体的な生き方を拒否された人々の悲惨な現実を示しています。これ以後見せ物興業的なアイヌ観が定着し、その後も多くの博覧会でアイヌ人の展示が行われました。

 南アフリカのマンデラさん、アメリカのキング牧師、アイヌのホテネさん、そして最近はパキスタンの女性マララさん。心ある指導者は教育は人間の原点で、教育の力によって、その人の人生を変えることができると信じて行動しています。                    
小田眼科医院理事長 小田泰子
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