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またもスペイン風邪流行の頃からの話題です。当時、仙台専売局は、主として紙巻き煙草の「朝日」を作っていました。全国の専売公社でスペイン風邪が流行し工員が次々と休みましたので、仙台から名古屋方面まで「朝日」を出荷しました。
今月は「煙草の値段と紀元二千六百年」の話です。
大正7年12月18日『河北新報』に「仙台専売局では風邪で120人程が休んでいる。それでも熟練工がいるので、朝日の製造には支障がない。仙台では日産150万から160万本を製造している。平常であれば仙台専売局は北海道、樺太、水戸、長野、新潟方面に出荷しているが、関東西専売局で風邪に罹って休む者が多く、生産量が低下したので名古屋へまで送っている」とあります。
明治37年4月1日に「煙草専売法」が公布されました。直ちに煙草専売人20万人を指定し、7月1日から煙草の専売が実施されました。官製の口付紙巻き煙草の値段は「敷島」8錢、「大和」7錢、「朝日」6錢、「山桜」5錢と、従来の民間煙草よりも高く設定されました。専売品はそれまで販売されていた民間煙草よりも値段が高い上に味が悪いと不評でした。
これら煙草の名称は江戸時代の国学者・本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問はば朝日ににほふ山桜花」からとられました。
日本政府は昭和15年に「皇紀紀元二千六百年」を迎えるに当たり神道色の強い記念行事を計画しました。国家の紀元を神武天皇の即位に求めることは『日本書紀』を重視する当時の一般的認識でした。このとき「奉祝歌」が募集されました。これに1万8千を超える応募があり、
「金鵄輝く日本の 榮ある光 身にうけて いまこそ祝へ この朝 紀元は二千六百年 あゝ 一億の胸はなる」から始まる歌詞が選ばれ、行進曲風の曲が付けられました。
この歌を、コロンビア、ビクター、キングなどに所属する歌手20人以上が吹き込みました。中には、伊藤久男、藤山一郎、霧島昇、二葉あき子、東海林太郎などの名があります。この歌は来る日も来る日もラジオから流れました。
これにすぐ替え歌が作られました。いくつかの歌詞が残っています。すべてに煙草の値段が読み込まれています。当時から替え歌のほうが親しまれたということです。
「金鵄上がって15銭 栄えある光30銭 今こそ来たぜ この値上げ 紀元は二千六百年 ああ1億の民は泣く」
「金鵄上がって15銭 栄えある光30銭 それより高い鵬翼は 苦くて辛くて50銭 ああ1億のカネはいる」
「金鵄あがって15銭、栄えある光30銭、朝日は昇って45銭、鵬翼つらねて50銭、紀元は二千六百年、あゝ一億の金は減る」
諸物価と同様、煙草の値段はどんどん上りました。
「朝日」は明治37年の6銭から始まり、大正14年に15錢、昭和13年に17錢、昭和16年に25錢、昭和18年には45錢。
「光」は昭和13年に11錢、昭和16年に18銭、18年1月に30錢、12月に45錢。
「金鵄」は昭和18年1月に15錢となり12月には23錢になりました。
このことから、これらの替え歌は昭和18年の1月から12月までの間に作られたことが分かります。替え歌は当時の人たちの精一杯の抵抗、抗議でした。
小田眼科医院
理事長 小田泰子