身分・血筋とシグナリング | ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドンで怠惰な生活を送りながら日本を思ふ 「東京編」

ロンドン・東京そしてNYといつの間にかいろんなところを転々とそしてまた東京に。海外なんて全く興味なかったし今もないという予想外の人生でした。今は東京に戻りしばらくお休みしていましたが少しずつ再開してみようかと思ってます。よろしくお願いします


こんなニュースが出ていた。

橋下氏、朝日新聞の取材拒否へ…週刊朝日記事で

新党「日本維新の会」代表の橋下徹大阪市長は17日、市役所で記者団に対し、朝日新聞グループの朝日新聞出版が発行する「週刊朝日」(10月26日号)で始まった、ノンフィクション作家佐野真一氏の執筆による橋下氏の肉親らの系譜を探る連載について、「血脈主義、身分制に通じる極めて恐ろしい考え方だ」と批判した。
(読売新聞より引用)


と言う記事。まあ橋下氏のことが好きであろうと嫌いであろうと普通の人はひどい記事だと怒るだろう。こういうネタまで持ち出して叩かないといけないのかと。

まあ、でも昔は就職や結婚のときに探偵などを使って相手の親族などを調べるのは普通のことだったようだ。現代でもあるだろうが、昔ほどではないだろう。現代は差別のない素晴らしい時代になったからだろうか?昔は差別だらけのひどい時代だったのだろうか?

もちろん、そういった面があったかもしれないが、たとえば日本の明治時代以降を見ればどんな貧乏な家の子供でも勉強を頑張り名を成せば、(あるいは商売その他の世界でがんばれば)一定以上の富を得ることも出来たし尊敬もされた。江戸時代だって下級武士の子供が優秀であればどんどん登用されたりした。

必ずしも日本が差別が充満した社会であったとは思えないし相対的にはそうでなかったでからこそ明治時代以降のほかのアジア諸国に先駆けた発展があったはずだ。

身分や血筋がいいということはその人の能力その他を証明するものであったと言うことが考えられる。たとえば、昔から続く名家の出身であれば優秀な頭脳や健全な精神や肉体を持った人である確率が高いと考えられるだろう。(もちろん例外は多々ある)教育その他においても同様のことがいえる。

それって差別じゃないか?血統主義じゃないか?

という反論があるだろう。

が、少なくとも学歴や資格などの判断基準が確立してなかった時代。その人がどんな人物かを見分ける重要な「シグナリング」として家柄や血筋・身分、親や親族・兄弟がどういう人間であるかということは非常に重要だったはずだ。これが現代ならば、学歴・資格・どういう会社に勤めているかということに取って代わっているのだろう。

もちろん、そういった一般社会からは×のシグナリングを持つ人々の中にも当然優秀な人はたくさんいたはずだ。そういう人達を積極的に登用・利用することでたとえばビジネスならばより安価な労働力でより多くの成果を上げることができただろう。たとえば、「やくざ」なんてのはそういう感じだったのだろう。あるいは、明治以降の日本の方針はまさにそうだったのかもしれない。(あるいは日本は差別の少ない自由な社会だったのかもしれないし、そういったものを受けいれる素養があったのだろう)出自を問わずに幅広く教育を施し人材を選抜・登用していく。判断基準としてより合理的な学歴・学問が確立し出自や血統という判断基準の役割は低下したわけだ。

結婚ということを考えてみると、現代は昔よりも容易に離婚ができる時代。「シグナリング」の持つ意味は薄まっていることは間違いない。真に人物本位でいろんな人を見極めることが必要な時代なのだろう。一方で、雇用市場の規制を強化することは身分制や学歴主義をより強める結果となるだろう。身分や血筋を調べることには合理的な自由があったけれども、現代においてはそれはあまり成り立たなくなっている。そういったものを過剰に気にする人は文字通り「差別主義者」といえるだろ


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