奇襲作戦といえば、桶狭間ですね。
嘘です。
桶狭間の戦いについて、一級資料といわれる「信長公記」はある重大な嘘をついている、という話を以前に書きましたけど 。要するに、「今川と織田に圧倒的な戦力差があった、というのは、信長公記が原因の誤りだということです。
戦力が互角、とは言わないまでも圧倒的な差がないなら、イチかバチかの奇襲をする必要なんかないわけです。ところが、世の中には、どーしても桶狭間は奇襲だ、奇襲じゃなきゃイヤだ、という人が多いんですよ。いまだに。
信長は、桶狭間の時点で、尾張のほとんどを支配できています。
尾張は小国だから統一しても高が知れてる、みたいなことを言ってる人もいますが、とんでもない、地図の見た目の面積で考えちゃいけません。尾張は穀倉地帯である以上に交通の要衝として商業的な利益が多い土地です。駿遠参の三国を支配してる今川と比べればまだまだでも、対抗できない差ではないんです。
要は、物語で「奇襲攻撃」を刷り込まれている人が、なんとか信長の兵力を低く見ようと、無理していろんなことを言ってるんです。
では、、桶狭間の戦いって、実際のところ、どうだったのか。
「信長公記」ですらトリックが隠れてるわけですから、どんな資料も完全に信用できるものはなく、いずれもどこかで誇張したり推測したり見てきたようなウソをついたりしてるんで、それをつき合わせて信用できるところを選んでいく、「いいとこどり」(と言ってたひとがいますが、言い得て妙ですね)をしていくしかない、っていうことですね。
そのとき、何が信用できるかを判断するのは、結局、「常識」だと思うんですよ。 織田と今川は、信秀の時代には押したり引いたり、領地や城をとったりとられたり、対等に張り合ってたんです。だからこそ松平竹千代が織田に誘拐されたり人質交換で今川にやられたりしてたわけです。それが信長の時代になったら、まるで虎と兎みたいに力に大差が出来るのって、それ、おかしくないか。常識で考えればそうなるはずです。
いちかばちかの奇襲をせにゃならんようになるって、ヘンでしょ、普通に考えれば。 信長が、尾張をほぼ統一し、勢いづいて国境の今川の砦をいくつか奪いはじめた。今川はそれを奪還すべく、尾張に侵攻してきた。そういう状況らしい。つまり、直前まで織田のほうが押していたんです。
今川は、国境の砦を一気に奪い返そうと、大軍を率いて乗り込んでくる。だから主力部隊は各砦攻めに分散していた。信長は砦の守備に援軍を出さず、いわば捨て駒にして、主力を集めて義元本陣の前衛部隊を正面から強襲してみたら、意外やモロくも崩れて、義元を討ち取ってしまった。
そんな ところだろう、といわれています。 まあ、私も見てきたわけじゃないけどね。