原発は科学ではない。鉄腕アトムは技術の子である。 | 編集機関EditorialEngineの和風良哲的ネタ帖:ProScriptForEditorialWorks

今、こういうときだからこそ、どうしても肝に銘じておきたいことがある。


それは「科学というものにはワクワクさせるものがある」、あった、ということ。


記事「放射能リテラシー0311」への助走(01)微修正あり に書いた「核物理学」には、それがあるだろうか。マイトナーまでは、あったと思いたい。


1930年代に作られていた「原子炉」は、おそらく今日の「加速器」につながるものを、まだ持っていただろう。未確認だが、シカゴ・パイル1号以前の実験炉にとって、崩壊熱は、「余分」なものに過ぎなかったのではないか?


Don't throw out the baby with the bath-water !


原子力発電は、核分裂によって生じる熱で湯を沸かしその「蒸気でタービンを回す」。で、電気が生まれる。

原理的には火力発電などとまったく同じ。古典力学、ニュートン力学の世界に属する。


ニュートン力学の世界に「過ぎない」。科学史的には。


核分裂の速度を「制御する」仕組みは新しいだろうが――と言ってもこれもマンハッタン計画でフェルミが実装した基本は半世紀以上前に出来上がった「技術」、ほとんどワクワクしない。


ハラハラドキドキさせられることはあっても。どこまで行っても「制御」の「技術」だ。


20億年前の天然原子炉の存在も、その意味では自然が勝手に行っていた「制御」のモデルとして、それを再現できれば、核燃料廃棄物処理の「制御」の「技術」を向上できるかもしれないという、かすかな希望をもたらすだけだ。


やれるものならやってみてほしい。誰も、このモデルを再現可能にしようと試みた「科学者」はいないはずだ。


要するに、何か新しいものを生み出したわけでも、作りだしたわけでもない。いや、一つだけ生み出している。自然界には存在しなかった(はずの)放射性物質同位体など核分裂生成物だ。


故・高木仁三郎さんが言ったような「放射線化学」といった科学分野がもっと開けていれば、多少ワクワク感は担保されたかもしれない。


To throw out the baby with the bath-waterの根幹には、今では当たり前のように使われている「科学技術」という言葉がある。


ここではっきりしておかなければならないもう一つのことは、「科学は役に立たない」ものだ、ということ。


絵画や手品や詩が、なんならこの世に一切無くても困ることはなく、生きていくのには支障がないように、実利的(生存の技術)にはなんの役にも立たない世界(存在の技法)を科学はカバーしている。


(「生存の技術/存在の技法」はここ十年来の編集機関のテーマ。いずれまとめる)。


それは「科学技術」ではなく、「科学」だからだ。


数学の話のほうがわかりやすいかもしれないが、ともあれ科学にはそういう面がある。あった。


「技術」も話を広げるなら、からくり人形を動かす技術は、人をしてワクワク、ビックリさせるものがあったし、日本の伝統的な職人さんの技も「技術」だというのなら、それはそれで見事なものがある。あった。


要は、科学も技術も「科学技術」という語が当たり前になったころから、相互に変貌をしていったということだろう。もっと以前からそれは始まっていたのかもしれない(正確にはこの日本語熟語に潜むレトリックの問題だが)。


しつこくお断りしておくが、この記事の一見した論調から、だから「脱原発」ということを読み取らないでいただきたい。とりわけあの「非科学的」政党、政党と言えるのかどうかも疑わしい現内閣の「脱原発」とは、まったく無関係。どころか真逆のことを主張しようとしとしていることを、お断りしておく。


理由1.「安定供給」を前提として、捨てきっていない。これを批判可能で全否定できる者だけが、あの「脱原発(依存)」を宣言できる(「依存」を添えた小細工は嗤うしかない)。


理由2.「(米を含む欧州)文明」としての「科学」に対して、語の本来的意味での「批判(Kritik)」を遂行できる者だけが、「原発」の全面停止を言うことができる。但し「廃炉」と「使用済み核燃料処理」の全面実現の見通しが立つことが条件。世界には約500基の原子炉が稼働している。新設予定を含めればさらに。


(続く)