「核分裂」という原子物理現象が起きていることを、あくまで実験レベルのことだが確認し、再現可能にしたのはポーランド生まれのオーストリア帝国の首都ウィーンに生まれた物理学者マイトナーだった。但し、彼女の当初の研究の動機は、核分裂の発見にはなくキュリー夫人の流れのなかにあったと思う。
「思う」というのは重要な科学的発見は当初の目標とはそれた所で起きているのが結構あって、いわばセレンディピティ的に、そこに達したということが多いから、当初の動機がどうであったということはほとんど無視されそこに重点をおいて書かれたような科学史的文献もほとんどない。
つまり科学も結果オーライ、というところがある。少なくとも科学技術史の多くは結果主義(フォーミュラ主義)で、前後の「動機の脈絡」を追いかけることはあまりない。数学は分野によって多少違うところがあるかもしれないが(数学のなかでは「リーマン予想」が追い続ける素数=数字の原子が比喩を超えて物質としての原子に出会うに至るスリリングな例がある)。
原発事故が起きてから、科学史オタクのアタマもちょっとした大混乱に陥っていた。20世紀物理については、量子力学とか素粒子論から入っていたので、原子核物理学というものが、どうしてもその流れに収まってくれない。どういうことか?と無い知恵を絞ってしばらく唸り続けていた。
偏微分方程式や波動方程式などを読み解く訓練とかまともに受けたことなくても、アインシュタインのE=mc2くらいは概念的理解をすることはできる。
ただアインシュタインは量子論を快く思っていなかった節があって、ミーハー的にまあそんなもんだろうと切り離してしまったのも今にして思えば余りいいセンスではなかったかもしれない。
ところがマイトナーが、これは核分裂であると気づくにはアインシュタインのE=mc2が役だっていた。いや不可欠だった。少しは気を取り直して科学史を漁り直してようやくたどり着いたのがマイトナーなのに、ここでまたあの不連続感が強くなってしまった。
アインシュタインは工学屋ではない。物理学は理学(理論物理)とされ工学とは一応区別される。早稲田の理工はその意味で画期的なのかもしれないが、ともあれマイトナーまではというか「から」というか、理学的な研究のなかに工学が含まれていったと考えることはできるかもしれない。実験装置作りは工学的だ(より限定して言えば、後の産業装置につながるような実験装置)。
もちろん科学の歴史に実験は付きものだし、理学・工学は後付けのそれこそ大学の組織の問題に過ぎないかも知れない。マイトナーがウィーン大学で物理と数学を学び始めたのは、文学部哲学科だった。1901年のことだ。
彼女が哲学を目指したというのではなく、もちろん物理をやりたかったのだが当時、物理学や数学は哲学科に属していた。そういうものだった。現在でも使われるPh.Dは、この頃の名残なのかもしれない。というよりヨーロッパの古くからの伝統なのだろう。
さて、古代ギリシア自然哲学以来の原子論の流れで原子→原子核・・・という物質の究極の最小単位を探して世界を構成するものとその法則を「探求」という物理学史への「理解」は、どこかで変更されるべきだった。これが「あの収まりにくさ」の遠因ではないかと科学史オタクはようやく気づく。
マイトナーもその聴講生として学んだ量子論の創始者プランクの定数hの左辺をEとすることができる。つまりアインシュタインのE=mc2のEと同じ、Energie「エネルギー」だった。E=hv
プランクのEもアインシュタインのEも、エネルギーのEであることなど、プロの研究者や技術者の人にとっては「それがどうした?」かもしれないが、3月11日以降、核物理学の座りの悪さに唸っていた科学史オタクにとっては溜飲の下がる思い。同時にちょっと憂鬱さを増すような「発見」だった。
マイトナーは二つの世界戦争を生きた。第1次世界大戦中の1915年には同盟国側の野戦病院に看護婦(レントゲン技師)として従軍(キュリー夫人も連合国側の傷病兵の治療に役立てるべく移動レントゲン車で各地を回っている→ブログ記事amba.to/pxNBmt
)
第一次世界大戦は、人類史上初のというか近代国民国家の成立を前提とする初めての「総力戦」だった。第一次で間接的ながら人の命を救うことに用いられた放射線の一種X線(レントゲン)の発見に導かれて、次々と見つかることになる放射性物質(放射線を出す能力放射能を持つ物質)は、30年後に大量殺戮兵器として使われることになる。
「非アーリア人」としてナチスに追われベルリンからストックホルムに亡命していたマイトナーは1945年広島・長崎への原爆投下の直後、皮肉なことにアメリカで原爆開発のヒロインに祭り上げられてしまう。彼女は核分裂を再現可能にする理論を定式化したが、原爆開発プロジェクトには参加していない。
核分裂反応の仕組みの解明がなければ原爆は作られなかったかもしれない。原子力発電も生まれなかっただろう。しかし、原子炉はエンリコ・フェルミ以前に1930年代にはいろいろと作られていたし、科学者個々の戦争責任のようなものを追求するのは無意味だ。
それよりも20世紀の物理学がどうやら「エネルギー」をキーワードに起動したらしいこと、そこにはエネルギー=仕事をする力と産業インダストリー(=勤勉さ)の個々の意志や動機を超えたところでの「婚姻」の仲人のようなものが働いていたのかもしれないということ。
「エネルギー=仕事をする力」の「力」は、第一次、二次の世界戦争を国民総動員で戦った、「総力戦」の力を生み出したものと、もちろん同義である。
科学史オタクの推理は続く。
PS.
次回は「平和」という名の欺瞞(まやかし)へと展開の予定。