写真・緑川洋一「太陽の海」
友人の黒木は須磨子を
「あれではまるで芸術家専門の娼婦ではないか。」と言います。
それはあまりにも酷い言い草だ。
けれども全くそうでないとも言い切れず、須磨子の苦しみと僕の悲しみはそこにあるのです。
須磨子が芸術家たちの作品を愛するということは、そのままに彼ら自身をまるごとに愛し受け入れていることに他なりません。
ですから芸術家達はみな、須磨子と出会えば何時の間にか彼女を歓ばせたくて堪らくなり、才能のある者ほど、彼女の心と体のより奥深くの敏感な部分にまでも隅々と自分を差し出し届けてみたくなる衝動が抑えられないのではないか。僕にはそのように見えるのです。
なので、彼ら天才たちと違い、まったく凡庸な僕などは須磨子にはそういう意味では須磨子と愛し合う資格などなく、僕にとって須磨子という存在は、所詮手の届かない憧れの「ミューズの聖娼」なのかもしれません。
じっさい、須磨子とは、あの上野の彼女の店とは、いったいどの様にして出来たものなのでしょう。
須磨子が戸籍上は篠崎家の養女であることは皆が知っている事実です。
しかし、「ほんとうは篠崎孝太郎が幼児のころから手なづけていた最後の愛人である」とか、「いや実は篠崎の血をひいた隠し子であり、だから作家の伊織雄一とは母親の異なる兄妹なのだ」という、まことしやかな噂話もあり、その真相を知る者は誰もいません。
それを知るのは亡くなった篠崎以外には、たぶん、篠崎の家を嫌い家を出た伊織雄一のみ、つまり兄さん、あなたしかいないのでしょう。
芸術家たちはみな須磨子を愛し、欲しがりはしても、それは単に自分自身の世界を映す鏡として愛しているに過ぎません。
彼らは須磨子を愛でながら、その実は彼ら自身とその作品だけを愛している。
須磨子は天才たちの自己愛を投影した鏡であり器だ。
須磨子は自分の何が愛されているのか理解できないので、愛というものが何であるのか、自分というものが何であるのか解らず、それがいっそうに彼女を孤独にしています。
それだから、須磨子は夜になって正気を手放し狂気の扉を開き、その中に自分を置くことでしか本当の自分を見出せないのでしょう。
僕が須磨子に恋をしたのは、須磨子が僕の作品を愛してくれるからというわけではなく、彼女のその孤独と狂気に惹かれ、何処かしらそれらに共鳴せすにはいられなかったからなのです。
僕がその狂気ごと須磨子を抱きしめるので、その時だけ須磨子には僕が必要であり、僕たち二人の間に愛があるとするならば、それは真夜中の狂気の夢の世界の中だけです。
逆に言えば、正気である昼間の彼女には、芸術家の端くれにもならない僕などは、ただコーヒーを飲みにきて館の壁に飾られた美術品をぼんやりと鑑賞しているだけの、場違いな客以上でも以下でもなく、唯一価値があるとするならば、僕が兄さんの弟と呼ばれた者であること以外には何ほどでもないと思うのです。
(七)へ続く