写真:緑川洋一
「離さないで」「離してはいや」
須磨子は夜毎に僕の腕の中で、うわごとのようにそう繰り返します。
それは一体誰に向けられた言葉なのか。
僕にはわからず、須磨子にもわかっていないのかもしれません。
須磨子はたくさんの男達から愛されていながら、愛されたという実感のない女です。
その寂しさは僕の寂しさと似ているのかもしれません。
僕は誰に愛され求められても、本当にこの僕自身が愛されているという気がしませんでした。
僕に「愛している」という女たちは皆いとも簡単にそれを口にするので、なお更に僕には女たちが疑わしく思えて仕方ありませんでした。
女たちはいったい僕の何を愛しいと思ったのでしょうか。
もしも僕をまるごと愛してくれるのなら、彼女らは先ず僕の書くこの拙い文章から愛するべきだ。
それなのに、彼女らは僕の書いたものをただ「上手だ」と言うだけでした。
こんなものが上手いはずがあるものか。
だからつまり、女たちは単になよなよとした僕の見てくれが好きなだけで、僕のことなどひとつも知ろうとはしていないのでした。
僕の文章を好きだと言ってくれたのは、実は兄さん、あなたしかいない。
須磨子は僕の書いたものを読むと、時々に苦しいと言う。そして悲しくなると言います。
それでいながら、いや、だからこそ、この僕の多重露光の世界を見ると、どこか不思議に安心すると言いました。
須磨子はあらゆる芸術のピンもキリも頓着せずに、ただそのままに世界を受け取るすべを知っている女です。
それが須磨子の幸いであり、不幸であるのかもしれません。