写真:緑川洋一「海のマリア」
僕はたぶん、多重露光で写された写真のような世界を生きているのです。
多重露光とは、同じフィルムに何度かシャッターを開けて異なる景色を一枚に重ねて感光させた手法のことです。
先日、写真を勉強している友人の黒木が見せてくれました。
そこでは異なる空間がひとつに存在し、幾つもの時間が同時に重なり合っている。
僕はその景色の隅々の全てを現実と同化させながら生きているような気がします。
黒木が幻想的だと言ったその写真の世界は、そのままに僕の世界であり、ですから僕はたぶん幻に生きているのでしょう。
僕の現実は、複数の時間のずれた空間を抱(いだ)きながら、朝も昼も、夜を含んで流れている。
どの様な時も、何をしていても、何時でも底なしな孤独の夜を拭い去ることが出来なくて、僕はまるで深い海の底を這う深海魚のように悲しくて堪りません。
兄さん、僕はどうして何時も、こんなにも悲しいのでしょうか。
いつから僕はこのような悲しがり屋になってしまったのでしょう。
黒木は僕に、須磨子とはもう一刻も早く離れたほうが良いと忠告してくれますが、僕には須磨子を捨てる理由が見つかりません。
だからきっと悲しいのです。
兄さんもご存知のとおり、須磨子は、あれは精神の病気です。
一向に良くはなりません。それはきっと僕のせいだ。
恐らく須磨子は僕と暮らしたせいで、僕の身代わりとなり心を病んでくれているのだと、僕にはそういうふうにも見えるのです。
須磨子は夜が来ると、まるで五歳児のようにしくしくと泣き始めます。
僕はやがてそれが獣のような咆哮に変じるのを恐れ、幼子のような須磨子がすっかりと夜に脅えてしまわぬようにと、狂った須磨子の冷たい体を静かに、静かに、彼女が眠りにつくまで抱きしめます。
そうしていながら、僕の心は逃げるように暗闇の向こうを駆け抜けて、遠く空を飛び、森の中を彷徨い、深い海の底に泳ぎ、黄泉を見つめ、朝に焦がれ、兄さんにこうして延々と語りかけたりしながら、同時に僕の女神の幻を追い求め、次々と過ぎ去る姿を追いかけては、「何故に僕は一人なのだ」と声を漏らさず嗚咽しているのです。
それは恐らく、僕の贖罪です。
ですから、そのせいでいっそう須磨子は病んでいるのです。
僕は僕のミューズである須磨子と暮らしながら、けれども男女として愛し合うことはなく、永遠の片恋のまま、それゆえに須磨子から離れられることができません。
五へ続く
音楽:亡き王女のためのパヴァーヌ