写真「夜の航灯」緑川洋一
僕は「どうせ俺なんか」と口にする輩(やから)が嫌いです。
そんなふうに言う奴に限って、何ひとつ努力などしていないように見える。
「どうせ」と言いながら何もしないうちから結果を見限り、それを何もしない言い訳にして、ただ人に拗ねてみせている。
先んじて自分を卑下してみせ、他人に「そう捨てたものでもないさ」と慰めてくれと言わんばかりの、そのさもしい己の醜さに、何ゆえ己自身が耐えられるのか、僕にはとうてい理解ができません。
それなのに僕は、ひとりでは心の中で、一体どれほどにそれを繰り返してみたことでしょう。
「どうせ俺なんか」と、ただ一人呟けば、慰めてくれるものもおらず、心がにわかに曇ります。
「どうせ俺なんか」と、心の中で十回も続けてみると、己が哀れで思わず涙が零れそうになる。
「どうせ俺なんか」と一日中でも繰り返していると、そのうち自分はもう生きていないほうが良いのではないかとすら思え、心が暗澹として人生に絶望したくもなるのです。
そのくせその自虐の暗闇には、どこかしら甘やかな悲しみの快感が潜んでいる。
全くもってこれほど悪趣味な遊びはありません。
自分自身を玩具にして自虐の快感に耽溺するというこの悪戯に、どういうことか、時として僕は手を伸ばさずにはいられない。
そして、兄さん、
僕が須磨子に恋をしたということは、まさにそういうことなのかもしれません。
須磨子というのは兄さんもご存知の、あの上野の店の女です。
僕の須磨子への恋は、はなから成就の希望などなく、切望もできず、この想いには僅かな見返りすらも求めることができません。
ですから絶望などもありはしないはずなのに、時として堪らなく悲しくて仕方ない。
けれどもその悲しみに潜む甘やかさ故に、もしかすれば僕は自分を虐めて苦しむためにこそ、彼女に叶わぬ恋をしているようでもあり、それがまるで悪癖のように止めることができないでいるのです。