前夜に降った大雨が店の前に大きな水溜まりを造っていた。
京都三条木屋町、三条小橋の池田屋の両脇に掲げられた提灯の明かりに照らされて、だんだら模様の羽織を纏ったわたし、横山由依の顔がその水鏡となった水面に写しだされる。
総司がニヤリと笑う。
私にはどう見てもさや姉やけど周りの目は彼女を沖田総司と認識する。この不思議な法則はいまだに分からない。
この時代に紛れ込んだ驚きと衝撃は一年以上経った今でも未だに続いている。さや姉と私、お互いにとってそれは到底信じられないことやけど、時の流れのなかで身体はそれなりに順応して来ている。
けれど、近藤勇がこの私でさや姉が沖田総司。
鏡で見れば私はわたし、横山由依。
さや姉と互いに見合ってもさや姉はさや姉、私は横山由依。
結局、私達は本当の近藤勇も沖田総司の顔も見ることはできないということ。
この事実を受け入れるのだけはもう少し時間がかかりそう。
「何かわからへんけど、とりあえずはこの方が気持ちがええわ。
沖田総司はともかく、横山由依の近藤さんなんて洒落にもならへん」
「たしかに。。」
そう言って泣きそうになりながら笑いあったのがつい昨日の事のように思える。
ここに来てもう一年余り、あれほど見たかった美音の顔も次第に脳裏から薄れていく。
戻る術がないのなら、ここで生きていく覚悟をもっと強く持たなければ・・
見える顔も姿もまだ横山由依やけど、おそらくその覚悟次第では、それなりに変わっていくと思う、本当の近藤勇に。。
「近藤さん」
「うん?」
「待たなくていいんですか、土方さん達を」
永倉心八。腕はたつけど慎重過ぎるところが私は嫌い。肝心なところでいつもこういう事を言う。士気を乱す、一言で言えばそれに尽きる。
「そんな余裕はないんやけど、永倉くん」
「でも・・・」
二の腕、ちょうど力こぶのあたりにはめた腕時計を袖をたくし上げて、時間を見る。
午後10時ちょうど。いわゆる亥の刻。土方隊が私達と共に壬生を出たのは5,6分ほど前。
合流するまで少なくとも5分や10分は待たないといけない。
ここで待てば何が起こるか分からない。
なかにいる人間が今にも行動を起こせばここにいる人数ではどうしようもなくなる。
けれど今踏み込めば何とかなる。
一瞬の躊躇いは失敗を招くだけではなく仲間達の命をも危険に晒すことになる。
また、それが分からない永倉心八でもないはず。
「南蛮時計?」
その声に軽く頷く。
ここにやって来たときは隠す物が多かった。スマホ、ボールペン、コンタクト、靴等々、でも南蛮ものという言葉を使えば怪しまれずに全て説明できることが最近分かった。
このカシオのホワイトGショックもそれで日の目を見れている。誕生日にママからもらったやつ、女性用では可愛らし過ぎるので男性用。でも今となっては見た目上、近藤勇にはこのほうがずっといい。
「永倉くんにも紹介してあげようか、南蛮時計屋さん?」
「いえ、私は・・」
「それじゃあ、あなたと藤堂くんは階下に残って。降りてきた輩は一人残らず切って捨てる。いいですね?」
観念したように大きく頷く、永倉と藤堂平助。
永倉に比べてまだ入ってきて間もない藤堂は実戦経験が少ない。
といってもこの時代、江戸時代末期はみんな侍というのは押しなべて刀を抜く機会なんて殆どないらしい。
新撰組のなかでも人を斬った事のあるのは近藤勇、土方歳三、沖田総司
斎藤一、そして芹沢鴨ぐらい。
そんななかでも沖田総司はまるでアニメから抜け出たように人を斬る。
いとも簡単にあきれるほど日常的に人を斬ってしまう。
「ゲームのなかでもこうも簡単に人は斬れない」
さや姉の驚きはそのまま沖田総司の凄さを表している。
映画「幕末の桜の花びらたち」の撮影にあたって、この時代の事はネットで調べ上げた。
その知識でこの一年どれだけ救われたかわからない。けど沖田総司に限っては私達の知識は彼には到底当てはまらない。おそらく本当の彼を平成の人は何も知らない。
総司は羽織りの袖が触れ合っただけで刀を抜く。 大袈裟ではなく微笑みながら人を斬る。
不貞浪士から壬生の殺人鬼と恐れられる由縁がここにあるのかも知れない。
ただ仲間に見せる笑顔はどこまでも無邪気で人なっつこい。
私には本当の沖田総司の顔は見えないけど、歳さんはそう言っているのだから間違いない。
「ゆいはん、月が曇ってきたわ」さや姉が耳元で囁く。
さきほどまで聞こえていた祇園祭りの鐘の音も次第に薄らいでいく。
深夜を過ぎれば鐘も太鼓も静かなお囃子に変わっていく。それは今も未来も変わらない。
そして静かになれば当然、仕事もしにくくなる。
今から歴史的な殺戮が行われる。
捕縛ではない、はなから斬リ捨てる覚悟の近藤勇と沖田総司。あと数分もすれば辺りは血に染まり今、私の腰に収まっている小鉄もその血を嫌というほど吸い込むことになる。
でもこれは私じゃない。すべては近藤勇がやっていること。
そう思えるまでにどれほどの時間がいったことか。
ただ・・・今日は目の前のこの人も血に染まることになる
「どれだけ血を吐いてもええように、さらし一杯巻いて、手ぬぐいも体中に入れてきた」
池田屋で沖田総司が血を吐くというのは小学生だって知っている。
それが史実とするなら、さや姉は今夜はその事実に遭遇する。
この時代、結核は不治の病と言われる。沖田総司がこの時点でその病気の状態、いわゆるステージがどの辺りなのか、それは分からない。
でも吐血は素人の私達が見てもやっぱり異常。
「戻られへんかったら、やばいんやろな、この沖田総司は。」
そのさや姉の言葉に私はもう何も言わなかった。史実を知っている以上何を言っても気休めにしかならない。
平成の世に戻れなければ沖田総司、山本彩は4年後、慶応四年五月三十日、近藤勇の別宅で25歳の生涯を終える。形の上では・・・
「ニッコリ笑って死ぬなんて言わへんで、ゆいはん。
もがいてのたうちまわって、血を吐くほどに・・死にたないって叫んで死んだる」
死なせへん。来た道は戻れる、そう信じて前へ進むだけや、さや姉
そんな言葉を敢えて口にはしない。首を振って微笑むだけで山本彩は大きく頷いた。
しっかりと閉じられた池田屋の雨戸に手を掛ける
「行くで、さや姉」
時刻は亥の刻すぎ。この時、土方隊はこの場所からほんの数分のところにある四国屋に到着。池田屋の一報は未だ入っておらず、宿内を改め吟味を続けている最中。取って返すまでは猶に10分は時を待たなければいけない。それまで私と総司は二人で二十数人を相手することになる。血で血をあらがう修羅場に身を置くことになる。
「ゆいはん」
「うん?」
「指原さんはあの後どうなったんやろ?」
今言うことではない、とも思った。けれど人が死に直面しようとするとき、先に逝った人間が頭をよぎるのは仕方がないのかも知れない。 ましてや運命を共にしてここまで堕ちてきた私達。さしこの行く末は、美音、麻友、それにまだ他に連絡の取れていないメンバー達の生き死に直結する。
「帰れてる。そうに決まってる」
「死んだら、帰れる?」
「さしこの間際の言葉を私は信じる。今はあの言葉だけを信じて生きてる
そう言うてもええかもしれへん」
あの夜、仁王立ちに立ちはだかった芹沢鴨に留めを刺したのは土方歳三。歳さんの切っ先は"彼女"の背後から、鎖骨の下辺りを通って肝臓へと突き抜けた。息を引き取るまでの数十秒、どす黒い血が辺りを覆うなか、傍らにいた沖田総司は確かに聞いた。
「・・悪いけど・・壬生の桜が見える、そう近藤さんに言っといてくれる?」
崩れるように畳の上に沈んで逝ったさしこの表情は苦悶のあとはかけらもなく穏やかで微笑みにさえ感じられた。
そんなさしこの最後を土方さんは、見事やと言った。死出の旅路に向かう者として、また武士として、そんな言葉を吐きながら死んでいきたいとも言った。
「ふっ・・・武士やない。なんも知らんねや。
歳さんだけやない、この世界の人はうちらの事はなんも知らん。」
さしこはあの時の壬生の桜に戻って行った、死に逝く間際の走馬燈ではなくリアルに感じたことを私に告げた。指原莉乃の性格は武士道の世界観とは全くの真逆、ひと時の感情に溺れてもの言う人間やない。それがたとえ死の間際でも。
これが天の、神のなせる業ならば、送り込んだものは元に戻してもらう、
それが天の摂理というもの。
死んで帰っていく、それならそんな道理にも見合うはず。
芹沢鴨だけではなく、沖田総司も坂本龍馬も、そして近藤勇も
ここ4年もしないうちにあの世へと旅立つ。
気がつけばぽつぽつと雨が降り出していた。次第に雨足が強くなる様相を見せ始める。
史実にはなかった突然の土砂降り。
屋根瓦に打ち付ける激しい雨音は周りの物音をすべて掻き消していく。
物音に気付かれず2階に斬りこめれば私達は圧倒的優位に立てる、
それだけでもこの勝負はもう勝ったようなもの。
なぜ切り込み隊がたったの二人だけで成功したのか、それも一方が血反吐を吐く身で。
その謎が解けたような気がした。
おそらくこの雨は二、三分で止むのだろう、歴史に記録されない三条小橋の通り雨
歴史なんてこんなものかもしれない。
総司がまたニヤリと笑った。
~to be continued
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