書評ー「僕のフォーカシングカウンセリング」 (2) | 「ガキの思想やあらへんで!!」  -独学者の哲学的倒錯モノローグ

「ガキの思想やあらへんで!!」  -独学者の哲学的倒錯モノローグ

そらあ、ええ歳こいて青臭い哲学やの思想やのに気い惹かれるわてはアホや。
本屋いったら真っ先に「人文・思想」の棚にいく変わりもんや。
せやかて、ほっといておくれやす!!どうせわたいは「独学者」やさかいな!
いっとくけど学(ガク)はないでえ。

私は哲学を語る資格のない人間だ。能力的にも身分てきにも。しかし、哲学的に人間を語ることができたら、なんと幸福なことか。エッセイでもカフェのおしゃべりでもなく、哲学が人間を語ることができるとすれば、その場所は何処か?

本書でディルタイという哲学者の名前がでてきた。ディルタイ=生の哲学という図式しか思い浮かばない自分は、ジェンドリンは生の哲学につらなる哲学者なのかと、そう思った。

また、本書は古典的精神分析に対して前々から私が感じていたことをはっきりさせてくれた。フロイトはその本質は、その言葉どおりの意味で<フィジシャン>ではないか、ということだ。お医者さんであり、人間を物質というか機械というかメカニズムとしてとらえる、そういう気がしていた。決定論的で、複雑な人間の心のなにかを見落としているきがしていた。池見先生もいうように人間という<生命の流れ>を細かく要素に還元して分析することは、なにか間違っているのではないか?生命あるものはたえず動き、流れている。クライアントもカウンセラーも。そこには生命の出会いがあるが<分析>という概念はあてはまらないのではないか?

そもそも<分析>という概念は、観察者が特権的な絶対中立の立場にいて、自らの座標軸を固定して対象を観察するときに用いられる言葉ではないか?観測場でどっしりと不動の状態で座っている観察者=分析者が、実は彼もまた生々流転の命の海を漂流する存在であり、座標軸もまたたえず筏(いかだ)のようにばらばらに流れているとすればどうだろうか?ならばクライアントと<分析者>の間にあるのは同じ空間と時間を共有しているということ、すなわちお互いの<プレゼンス>のみではないだろうか?

そしてそこで可能なことは、生命の場である<からだ>に埋もれている<何か>を、いかなる客観的概念・分析装置が、あらゆる概念の計器が振り切れようとも、これだけは<からだ>を通じて確かに感じる<なにか>を、言語化=象徴化することだけではないだろうか?そしてそれに迫ること。前概念的な<なにか>を象徴化することにより対象化すること。向き合うこと。そしてそれをやさしく迎え入れること。フォーカシングとはそうした営みではなかろうか?

話はかわるが、フロイトともジェンドリンもウィーンに関係がある。当時のウィーンにはすごい人がいっぱいいた。アドラー。カールポパー。ウィトゲンシュタイン。アルフレッド・シュッツ。ピーター・ドラッガー。しかし、ジェンドリンはそうした知的コネクションとは別の系統に属するのではないか?ジェンドリンは13歳までしかオーストリアにはいなかったのだから。むしろシカゴ学派の哲学者、たとえばブルデューと論争したヤン・エルスターらとの関係はどうだったのだろう。