「ガキの思想やあらへんで!!」  -独学者の哲学的倒錯モノローグ

「ガキの思想やあらへんで!!」  -独学者の哲学的倒錯モノローグ

そらあ、ええ歳こいて青臭い哲学やの思想やのに気い惹かれるわてはアホや。
本屋いったら真っ先に「人文・思想」の棚にいく変わりもんや。
せやかて、ほっといておくれやす!!どうせわたいは「独学者」やさかいな!
いっとくけど学(ガク)はないでえ。

浪速の哲学的妄想無頼こと私「独学者」プロデュース

「ガキの思想やあらへんで!!」


ちょっと、こんなブログに立ち寄った奇特なあんさん、コメント入れてっておくんなはれ!

「おっきがーるに!」

Amebaでブログを始めよう!

諸般の事情によりしばらくブログやすみます。

気にかけていただいた皆様には申し訳ないのですが・・・・・。


前回は、僕がウォール街を占拠した人たちを、悪者みたいに書いてしましました。

僕は、あの人たちにシンパシーを感じます。

あの人たちの中の多くは貧富の格差に義憤を感じて、あるいは生活を取り戻すための社会運動として

参加されているのでしょう。アメリカもいくとこまで行ってるんですね・・・・。

ただ、その中に、映画「ダークナイト」に登場する「ジョーカー」みたいな、あるいは映画「ファイトクラブ」のメンバーみたいな、そんな人たちも混じっているのでは、ないでしょうか・・・・・・。

現代人はどことなく、空虚感を抱えている、誰も多かれ少なかれ・・・・・。

そんな人たちが、なんか磁石に鉄粉が吸いよせられるように、ああいう運動に参加するのではないかと・・・・。


かつての学生反乱のように、大学卒業資格がその費用にペイできる職業ポストを保証できなくなった、等の不満が真相にある暴動ではない。もちろん、そんなまじめな人もいるが、今回の雰囲気はそんなヤボッたいものじゃない。


映画「ダークナイト」の中のセリフにでてくる「世界が燃えるのを見て喜ぶ人間」=「ジョーカー」の小型縮小版がお祭りを楽しんでいる。そういう雰囲気がある。対岸でみていてワクワクする。


金持ちに増税したり、福祉を手厚くしたりして、暴動は多少は収まるかもしれない。


しかし、映画の中で「ジョーカー」が少年ギャングたちにいったように、「溜まった欲求不満も発散できる」という誘惑にどれほどの若者、いや若者だけではない、社会的根なし草たちが、拒否できるだろうか。


ネットや報道で、「感染」するものも多い。世界中になんらかの形で飛び火するかもしれない。ギリシアの増税反対とか、そういうのと全く違う。強いていえば、イギリスの暴動のようなものが一番近い、そういうものがあちこちに飛び火するのではないか。


そしてその流れはとどまらない。


「アノニマス」というハッカー集団が今月10日に、NY証券取引所を消滅させる、という・・・・。


「アノニマス」=匿名。ネグリ・ハートの「マルチチュード」の一節をおもいだしませんか。

ドストエフスキーの「悪霊」であり、聖書のキリストが悪霊を豚の群れに乗り移らせる話・・・・。

悪霊はイエスにいう。「私の名前がレギオン」です。単数形であり複数形である、つまり、固有名を特定できない

匿名の何か・・・・。


そして、このような「悪霊」の出現の背景には、現代人の空虚感があるのでは・・・・・。

近年言われる、新型のうつ病、境界性人格障害の増加となんらかの相関があるのでなないか、とそう感じているのです。


そして、私もまた、空虚感を抱えていきる根なし草であり、「ジョーカー」に憧れ、何かが起こるのを夢想するのだ・・・・。

シャッター商店街は、そして商店の衰退は新しい何かの兆しということだ。
今メディアでアメリカの貧困層がウォール街に押しかけて暴徒化している。俺は、一瞬、これだ!っと思った。地縁や血縁から引き剥がされた、無機質な個人は匿名の無数に存在しつつしかも実体のないマッスだ。今までの歴史に登場したこともない、情報や知識を備え、個が情報を自由に入手し操作できる非物質的基準で世界をみる、個でもなく組織でもない、『悪霊』であり、バットマンでいう『世界が燃えるのをみて笑う人間』なんだ。表面上は格差や貧困に怒っているが、内心は世界が燃える日を待ち望んでいる、そういう連中だ。そしてそんな暴徒化が世界に多発するにちがいない。
この不気味な新しい暴徒とかつての学生反乱は全く異質のものだ。
近年、精神医学で気分障害や境界型人格障害が、注目されているが、これは不気味な暴徒化と深い相関がある。
とにかく世界は液状化して我々が見たことのない世界が始まろうとしているのは確かだ。
この映画は最高傑作だった!! 18歳のときこの映画をみて、心酔した。北野映画の最高傑作だと思う。 白竜を「サマーセーターの似合うヤクザ」と呼んだ友人がそのとおりだと思う。 この狂気の殺し屋の役は、最高ではないか!
宮本常一の見た日本は解体してしまった。中上健次の路地が解体されてどれくらいになるのだろう。
私にできること、それは彼らが優しいまなざしを送り続けた日本が解体されたあとの姿を書き留めておくことではないか。神々が去ったあとの廃墟を嫌悪するのでなく、書き留めておくこと。さびれた地方の街を回ろう。なくなった商店街の廃墟や路地を回ろう。
そうしよう。
終戦記念日とか関係ないです。
ネットサーフィンしてたら、映画『フルメタルジャケット』のラストシーンをみてしまいました。
有名なミッキーマウスの歌を歌いながら戦火の中を、兵士逹が行進するシーンです。戦闘マシーンとして、自我を叩き壊された兵士逹は戦場の地獄を経験して、日常に戻った後も、一生地獄の業火の中を行進していく・・・。それを暗示するラストシーンでした。
余談ですが、アメリカには退役軍人庁という役所があるそうです。退役軍人の中には精神を病み、アルコールや薬物の中毒や自殺未遂をする人も多いとか。
『父親たちの星条旗』でも、インディアン出身の青年アイラーはアルコール中毒のホームレスになって野垂れ死にした。
戦争から復員して、正気であることはむずかしい。
戦後にも精神の崩壊した人はいなかったのだろうか。
罪を犯した過去は裁断されるのか?
裁断されている事実。
しかし、それだけだろうか?
罪に関係した人間が赦すまで裁断は認められないのだろうか。
では関係した人間のいない罪はどうか?
生半可な知識でお坊さんの本を読むと混乱します。
『前後は裁断される』。薪が燃えて炭になる。薪は薪であって、炭は炭。薪と炭に因果関係はない。
いや、炭は薪が燃えたから炭になったなのではない。薪と炭の間には断然がある。
人間の過去と現在でいえば、過去と現在の自分は断然している。あるのは今しかない。
ならば…。
過去に罪を犯した人間の過去も現在と裁断されるのか。
原理上、裁断されている。これは厳然とした事実だ。
やっとポメラを買ったぞ!
これで長文のブログもハードディスクのクラッシュを気にせずに書けるぞ。
しかも途中で電源を間違ってけしてもデータはそのまんまです。
ただ、俺ってブラインドタッチできへんのよ・・・・。
だから思考のスピードで入力できないんだよな・・・・。

そんなオイラがなんで金もないのにポメラを買ってしまったかというと、社会学者の竹内洋先生が、丸山真男が未完の原稿を大量に残したまま亡くなったのは、ワープロが無かったからだっていうのよ。(うろ覚えで間違ってたらごめんなさい。)
アイデアなんかいっぱいあったのに原稿を下書きして、清書して編集者に校正してもらって・・・、なんてしてたら確かに効率わるいわな。
昔、なにかのエッセーで柄谷行人が、「ジャック・デリダはタイプライターで書いている、自分も日本語で書けるタイプライターがほしい」みたいなことを書いていたの。
昔、デリダの仕事場の写真に小型のマッキントッシュクラシックみたいなPCがおいてあったのをみたことあるけどね。
正直、ポメラいいわ・・・。これがPCだとWINDOWSが起動するまで1分くらい待って、ネット開いて、ブログにログインして、そんで途中で出てくる変なエラーメッセージやいきなり再起動のメッセージが出て焦ることなんかなくなるもんね。
シンプルイズベスト。このちゃちいおもちゃ感もいい。
あと、変換がアホなんはなんとかならんかね・・・・。
これじゃIMEと変わらんよ。ATOKが入ってるっていうから変換は期待してたのに。
映画インセプションを観ました。あまり映画は観ないほうなのですが、劇場を出たあと「金返せ!」と叫びたくなるような映画があまたある中で、この映画は傑作だと思います。同じ監督の前作「ダークナイト」も傑作でしたが。
しかしこの傑作は、万人受けする宮崎アニメのような映画じゃない。観る人を確実に選ぶ映画だ。
なにせこの映画の物語は「無意識下の仮想世界のミルフィーユ」のような構造をもっていて、ボケッとしてみてたら話がよくわからなくなるからだ。
気鋭の評論家・作家である東浩紀が、この映画の監督である、クリストファー・ノーランの才能と自分を比較してプチ鬱になったくらいの映画だ。私も途中で訳がわからなくなりかけたが、なんとか最後まで見通したっていう感じの映画です。まあ、「マトリックス」みたいな大衆受けはしないだろうけど、カルト的な映画として後世に残るかもしれない。
あと、すこし気になったのが主人公たちのグループが飛行機でアメリカの空港について顔をあわせるとき。なんか、みんな主人公に対して「おめでとう。生まれ変わっておめでとう。」みたいな爽やかなな笑顔を向けるんだよ。
これって、むかし流行った自己啓発セミナーのノリじゃない。少し古いが「エヴァンゲリオン」のTV版の最終回もこんなじゃなかったっけ。
もうひとつ、この映画を観ながら考えていたことは、人間に思考が与える影響についてだ。こんなSFの物語でなくても、僕たちは自分の思考を刷り込まれているのかもしれない。思考の種を植え付けられ、それが年月とともに孵化し我々の精神や肉体を蝕んでいくのかもしれない。
思考の毒に対処するには、自分でそれを解毒する必要がある。それは害毒になる思考の渦の「外」にでることであろうし、毒を中和する技術が必要になる。
それは今後自分が実践し、学んでいこうとする「認知行動療法」にも通ずるのではないかと考えている。