蓮如上人の『御文』を読む
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五帖目第二十二通 当流勧化

 そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
                       [釈証如](花押)


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、わが浄土真宗のみ教えの内容を詳しく知って、極楽に往生しようと思う人は、まず他力の信心ということを心得なければなりません。
 そもそも、他力の信心とは何のためであるかといえば、こんなわたくしどものような浅ましい愚か者が、み仏のはからいによって、阿弥陀さまの浄土へまいらせていただくための因です。
 その信心とはどんなものかといえば、自分のはからいを少しもまじえずに、ただ、ひとすじに阿弥陀如米にふたごころなく、ひたすらにお従いして、「お誓いに従います」とおまかせする信心が起こったとき、かならず阿弥陀如来は人びとをおさめ取る光明を放たれて、その身がこの世にある間は、光明のなかにおさめておいてくださいます。これがすなわち、わたくしどもの往生が定まったすがたです。
 そういうわけで、南無阿弥陀仏そのものは、まさに、わたくしどもが他力の信心をいただいたすがたを表しています。ですから、この信心は南無阿弥陀仏のいわれを表しているものであるーーと心得てください。
 したがって、わたくしどもが、さきほど述べた他力の信心一つをいただくことにより、み仏のはからいによって極楽に往生できることぱ、まったく何の疑いもありません。ああ、なんとすぐれた阿弥陀如来の本願でしょうか。
 このありがたい阿弥陀さまのご恩にどのようにお応えさせていただくべきかといえば、ただ、寝ても起きても、どんなときにも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、かの如来のご恩にお応えし、おぱたらきに感謝すべきです。
 そこで、南無阿弥陀仏と称える意味は何かといえば、阿弥陀如来のおたすけにあずかったことの、なんとありがたいこと、尊いことと思って、それを喜ばせていただくことであるーーとお考えください。あなかしこ、あなかしこ。


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は帖内八十通の最後のものである。文章の内容は二の十四通の秘事法門の章に共通するもので、前文の秘事法門のことを除くとほとんど同文である。蓮師の吉崎在住時代の「文明六年七月五日」という日付があるから、六十歳の時のものといわれる。
 この帖内結尾の御文でも信心正因、称名報恩の内容に摂することが出来るが、信心の正因たる所以は、他力の信心なる故である。それゆえ他力の信心について具体的に述べられているが、特に注意すべきは次の文である。「されば南無阿弥陀仏とまうす体はわれらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふはこの南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこゝろうべきなり」ということである。二の十四通にもこれと全く同文のものを出されているが、他力の行信の至極をあらわされており、信相即名号の相とされている。
 信心をうるといえば、多くの人は自らの側に何かものをもらうように思われる。信心をうる、とる、獲得する、いただく、めぐまれる、もらう等の言葉からうける感覚は、何か実体的なものが自らに所有化される如くである。それゆえ、信心をいただくことに力をいれるのである。さらに、いただいたか否かを厳しく追求するものも存する。しかし他力の信心の特色の一つは、自らの側に所有化されたもの、実体的なものがらを是認すると似而非なるものとなり、自力の信心と化する。「アナタは信心をいただいていますか」という問に対し、「ハイいただいています」とか「信じています」という返答を与えるのが一般の常識のごとく思われるが、この場合は自らの側に間違いないものを所有化しているのである。
 しかるに、親鸞聖人の『教行信証』の上でみると、もし所有化されたものを、自らの側に是認すると他力の信心にはならない。親鸞聖人の生涯をかけた主著『教行信証』を除いては浄土真宗の教義は成立しない。この『教行信証』では、どの巻でも巻頭に出体釈を出されている。「教巻」はもちろん、「行巻」、「証巻」等、はじめにその体を出されているが、別序までおかれている「信巻」のみ出体釈が欠けている。「信巻」の構成ははじめに大信心の十二嘆徳を出され、次に十八願の五つの願名を出されている。しかも五つの願名の中で、はじめに念仏往生の願を出されている。このことは法然上人の念仏往生と親鸞聖人の信心往生は全く一つなることを示すものといわれる。それゆえ、信心の体を求めると、前巻の大行のほかにはあり得ない。元来他力の行信の上ではともに因の上でいわれるが、行はこの私の側に与えられている面からいわれ、信はこの私に与えられた面でいうのである。それゆえ、信は機受の相といわれ、あたかも水と波のごとく、波は水のほかにはあり得ないが、水の動いている相である。名号大行がこの私の上にはたらいている相である。それゆえ、もしものがらを求めると、名号大行のほかにはあり得ないのである。
 このことは次の三心釈の上にも明らかに示されている。欲生の体は信楽であり、信楽の体は至心となり、至心の体は至徳の尊号といわれる名号法となっている。名号来たって三心となり、三心はそのまま名号に帰するのである。それゆえ、蓮師は、他力の信心をえたすがたは南無阿弥陀仏であるといわれている。他力の信心をえたすがたとは前の文に「なにのやうもなくたゞひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこゝろ」とある。この表現ははなはだ不可解のごとく思われるが、自らのはからいをすてて、自らが救われるか否かの問題はすべて弥陀のはからいにあるので、すべて弥陀のはからいにおまかせすることである。しかも自らの側か先行すると自らの造作も役だつが、弥陀のはからい、たすけたもう法がより先であるから、自らのはからいは否定されざるを得ないのである。
 讃岐の庄松同行が帰数式をうける時、法主の袖を引っぱり、
「アニキ、覚悟はよいか」
といったといわれる。その後、法主の側から逆に、
「そういうお前さんは覚悟はどうか」
と尋ねられたということである。その時彼は、
「オレのことは知らん、アレに尋け」
といったといわれる。この庄松の言葉が「御文章」にしばしば出づる「自力の心をすてゝ一に心に弥陀をたのむ」ということである。浄土真宗の安心はこのほかには存しないのである。それゆえ、他力の信心といっても自らの側には何ものも存しない。この私のたすかるものがらは南無阿弥陀仏のほかにないのである。この六字の法が領受されるということは自らの自力心のはたらく限り、彼方におきかえているのである。名号がこの私の上にはたらくと、自力心は否定されざるを得ない。自力心の否定されたことが信心であるから、信心そのものは名号のはたらきであり、活動相といわれるのである。それゆえ、他力の信心をえたすがたはそのまま名号のこの私の上にはたらいている相であり、ものがらを求めると名号のほかには存しない。
 次に「この信心といふはこの南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなり」とあり、信相即名号の相を出されている。信心はどこまでもこの私の上でいわれるのであるが、この私の上にはたらいているものは南無阿弥陀仏のほかにはあり得ないからである。蓮師は、他力の信心の内容を示すために、機法一体という『安心決定鈔』による用語を出されている。この機法一体の場合も南無と阿弥陀仏(たのむ機とたすくる法)と分ける場合、さらに六字全体を法の上でいわれる場合、また六字のすべてを機の上でいわれる場合も存する。今の場合は六字のすべてを機の上でいわれているのである。
 ここに行信不二の義を明らかにされているのである。行信という用語の別はあっては機法の場の相違によるもので、そのものがらは一つなるものといわれる。あたかも水波のごとくである。二十願の行信各別の立場と異なるのである。

〔用語の解説〕
・なにの要ぞー『歎異鈔』第一章によると「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばず、ただ信心を要とすとしるべし」とある。要は必要、またはためという意味。
・用意なりー人生に用意ということは重要な意味をもっている。家庭でも社会でもすべて用意のために働いているのである。人間は次の瞬間にも不幸のどん底におちんとも限らない。この場合、いかなる逆境に堕ちても安心して生きる道が聞かれているのが用意である。後生の一大事の解決、往生極楽の道が聞かれているものは、次の瞬間に不幸のどん底におちても安心して生きる答えが与えられているのである。それゆえ他力の信心獲得の身になることは、人生そのもののほんとうの用意といわれる。財産や教養、地位も一般的には支えとなるが生死問題には何らの支えとならない。

五帖目第二十一通 当流安心・経釈明文

 当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ経釈の明文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」ともいふなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 わが浄土真宗の信心というのは、少しも自分のはからいをまじえることはいりません。
 ただ、もろもろの雑行や雑修の自力の心を捨てて、わが身の罪がどれほど深くとも、それを仏におまかせし、ただ、ふたごころなく、疑いなく阿弥陀如来に心からお従いして、「お誓いに従います」とおまかせするばかりです。
 そうすれば、そのような人びとを、十人は十人、百人は百人すべて、ことごとくおたすけくださいます。これは、つゆほども疑ってはなりません。こう信ずる人びとを「信心を決定した人」といいます。
 これを経典や注釈書の文には「一念発起 住正定聚(本願を信ずる心が起こったそのとき、往生が定まり、必ず仏となるべき位につく)」とも、「平生業成の行人(平生において往生の因が成就し、浄土に生まれることが定まったお念仏の行者)」ともいっています。
 そういうわけで、ただ、疑いなく阿弥陀仏に心からお従いすることこそが大切であるーーと心得てください。
 このほかには、阿弥陀如来がわたくしどもをみ仏のはからいによっておたすけくださる、そのご恩の深いことを思って、歩いていても、止まっていても、坐っていても、臥せていても、常にお念仏を申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第二十通 女人成仏

 それ、一切の女人たらん身は、弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん女人をば、かならず御たすけあるべし。さるほどに、諸仏のすてたまへる女人を、阿弥陀如来ひとり、われたすけずんばまたいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして、無上の大願をおこして、われ諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、五劫があひだ思惟し、永劫があひだ修行して、世にこえたる大願をおこして、女人成仏といへる殊勝の願(第三十五願)をおこしまします弥陀なり。このゆゑにふかく弥陀をたのみ、後生たすけたまへと申さん女人は、みなみな極楽に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、すべての女性は阿弥陀如来に心からお従いし、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とおまかせなさい。そうすれば、阿弥陀さまはそのような女性を、かならず、おたすけくださいます。
 つまり、もろもろの仏がお捨てになった女性を、阿弥陀如来おひとりが、「わたしがたすけなければ、ほかにどの仏がおたすけになるだろうか」と思われて、四十八願からなる、このうえない尊い誓願を起こされたわけです。
 こうして、自分こそが他のもろもろの仏には救えぬ女性を救おうと、たいへんに長い間この誓願について考え抜かれ、これを実現するために永遠ともいえるほどの長期間にわたって修行をなされて、四十八願のなかの第三十五願に、「女性を仏にならせよう」という、ことにすぐれた誓いを起こされました。これがすなわち阿弥陀如来です。
 こういうわけで、心から阿弥陀さまにお従いして、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と信ずる女性は、みな極楽に往生することができます。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十九通 末代悪人女人

 それ、末代の悪人・女人たらん輩は、みなみな心を一つにして阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとやうにたのみ、後生をばねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、かならず御たすけあるべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、この末世の時代に生きる悪人や女性は、みな心を一つにして、阿弥陀仏に心からお従いすべきです。そのほかにはどんな教えを信じても、かぎりなき命をいただくことは、決してありません。
 それならば、阿弥陀仏にどのようにお従いして、かぎりなき命をいただき浄土往生を願うべきかといえば、何の面倒なこともいりません。ただ、ふたごころなく、阿弥陀如来に従い、「み仏のぱたらきにより今を生きぬき永遠の命をいただきます」とおまかせするばかりです。そのような人をかならず、おたすけくださることはまったく疑いありません。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十八通 当流聖人

 当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。
さてこのうへには、なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 わが浄土真宗の親鸞聖人がお勧めになっている信心は、少しも自分のはからいをまじえずることはいりません。
 まず、わが身の浅ましく罪の深いことをさしおき、もろもろの雑行や雑修をたのみとする自力の心を捨てて、ふたごころなく、「阿弥陀さま、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と疑いなくお従いするばかりです。
 すると、そのような者を、十人は十人、百人は百人すべて、みな漏らさずにおたすけくださいます。これは決して疑ってはなりません。このように心得た人を、「信心の行者」といいます。
 さてこのうえにはなお、わが身の往生のさだまったことの嬉しさを思うにつけても、寝ても覚めても、どんな時にも、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とい称えください。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十七通 それ一切の女人

 それ、一切の女人の身は、後生を大事におもひ、仏法をたふとくおもふ心あらば、なにのやうもなく、阿弥陀如来をふかくたのみまゐらせて、もろもろの雑行をふりすてて、一心に後生を御たすけ候へとひしとたのまん女人は、かならず極楽に往生すべきこと、さらに疑あるべからず。かやうにおもひとりてののちは、ひたすら弥陀如来のやすく御たすけにあづかるべきことのありがたさ、またたふとさよとふかく信じて、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、一切の女性の身において、浄土往生を大切に思い、仏のみ教えを尊く思う心があるならば、自分のはからいを少しもまじえずに、ただ、阿弥陀如来に深くぉ従いし、もろもろの雑行を振り捨てて、ふたごころなく、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきますと強くおまかせなさい。そのような女性が、かならず、極楽に往生することはまったく疑いありません。
 このように信心を決定したのちぱ、たやすく阿弥陀如来のおたすけにあずかれることの、なんとありがたいこと、尊いこと、とひたすら深く信じて、寝ても醒めても、どんなときにも、ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお称えなさい。これを「信心をいただいた念仏者」と申します。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十六通 白骨

 それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、人間というもののよるべないありさまを心を静めて見つめれば、「およそ儚いものとは、人がこの世に生を受けてから去っていくまでの始中終、幻のような一生である。それだから、人が一万年の寿命を受けたとはいまだかつて聞かない。一生はすぎやすいものである。末世の今にいたっては、いったい誰が百年の姿形を保ちえようか。われが先か、人が先か、命の終わりを迎えるのは今日とも知れず、明日とも知れない。先立たれる人、先立人、それは草木の根もとの雫がしたたり落ちるよりも、葉先の露が散りゆくよりも多く、人の死の前後はうかがい知ることができない」と先人は言っています。
 ですから、朝には美しい生き生きとした顔をしていても、夕には白骨と化してしまう身です。無常の風がさっと吹いたならば、二つの眼はたちまちに閉じ、命の息は永遠に絶えてしまいます。美しい顔も空しく変わりはて、桃李のような愛らしい姿も失われてしまったなら、親族たちが集まって嘆き悲しんでも、もはや何の甲斐もありません。いつまでもそうしてぱいられないので、野に送って荼毘に付し、夜半の煙となりはてれば、ただ白骨だけが残ります。あわれといっても、なおいい足りません。
 人間の俸いことといえば、老いて死に、また若くしても死ぬこの世ですから、どなたも早く浄土往生の一大事に真剣に心を向けて、阿弥陀仏にお従いして、お念仏を申すべきです。あなかしこ、あなかしこ。


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」の来由は三説あるが、『来意鈔』の説が適切のように思われる。延徳元年、蓮師七十五歳の八月十七日、山科在住の時、近隣の安祥寺村で三日の内に親子三人が急死する事件があったといわれる。青木民部という浪人夫妻の一人娘の清女が、十七歳にして嫁人前に急死し、さらに民部とその妻が次々に急死した。さらに山科御坊の土地を寄進した地頭の海老名五郎左衛門が、また十七歳の娘を急死させた。これに対し与えられた御文であり、弔辞といわれる。この「御文章」の出処は後鳥羽上皇の「無常講式」、さらに存覚上人の「存覚法語」にある。すなわち、
 ……おほよそほかなきものはひとの始中終、まぼろしのごとくなるは一期のすぐるほどなり。三界無常なり。いにしへよりいまだ万歳の人身あることをきかず。一生すぎやすし。いまにありてたれか百年の形体をたもつべきや。われやさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつひとはもとのしづく、すえのつゆよりもしげしといへり。(真聖全、列祖部三六〇頁)
とある。弔辞としては、日本人のものでは恐らく最高のものではなかろうか。
 現在多くの有名人の弔辞を聞くが、死者に対するほんとうの態度を見失っているようである。多くの人は最後に「安らかに眠れ」とか「御冥福を祈る」という言葉で結ぶ。いかにも耳ざわりがよいように感ぜられるが、死者に対する正しい態度ではない。というのは、安らかに眠らないと、生きた人間に危害を加えるという。死霊に対する恐怖感からきているからで、これは原始宗教(原始人)の考え方によるものである。一般に俗にいう、化けて出てこないようにということが根底になっていると思われる。御冥福を祈るということも現代人には全くナンセンスな言葉である。冥は死後の世界をいい、福は幸福ということであろう。すると、死後極楽浄土に参れということであろうが、現代人は死後など全く問題にしていないものが多い。さらに極楽や地獄といえばお伽噺のように思って馬鹿にしているものも多い。これらの人に御冥福を祈ることは、実に馬鹿げたこととなるであろう。
 死者に対する正しい態度は「アナタの死を無駄にしません」ということのほかにはない。このことは、宗派や思想に関係なく、誰にでも通ずるのである。これこそ死者を永遠に生かす道である。この「御文章」の内容は、正しく「アナタの死」を無駄にしないという構成となっているのである。
 多くの人々は人生の無常なることに感嘆し、特に不幸に遭遇した場合は共感をもつであろうが、この「御文章」は単なる無常なることを述べたものではない。
 もし仏教が無常なることで終るならば、それはニヒリズム(虚無主義)にほかならない。そうではなく仏教は、人生は次の瞬間も保証されていないから、悔いのない無駄のない生き方をすることを説いたものである。禅家でいわれる「日々これ好日」は、仏教一般に通ずる生き方である。この無駄のない、悔いのない生き方は、生死の問題の解決のほかにはない。
 いかに立身出世し、名誉や地位、教養、財産を身につけても癌という死刑の宣告を与えられると、何の価値もない。水の泡のごときものである。生死の問題、後生の一大事の解決を見い出した時はじめて、ほかなき人生、生きる答えのない人生に、ほんとうに生きる答えを見い出すことができるのである。その答えこそ、「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきなり」ということである。念仏もうす身にさせていただくことにおいて、はじめて、「アナタの死」を永劫に無駄にしない道が開かれるのである。そこに死者が唯一生かされる道が開かれる、ほんとうのたむけの言葉となるのである。

〔用語の解説〕
・この世の始中終-この世の一生涯。少年、壮年、老年の生涯をいう。
・百年の形体-仏教では人間の一生涯を一形という。一つの形を親からいただき生涯持続するからである。形体は身体ともいわれる。
・朝には紅顔ありてー朝は元気な達者な姿をしてもということ。元来、紅顔は美人の容色。
・老少不定-ニの一通にも「だゞ今生にのみふけりてこれほどにはやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかひとしりながら」とある。老人が先に死し、若いものが後に死ぬということは定まっていない。誰が先に死ぬかわからない、ということである。

五帖目第十五通 それ弥陀如来

 それ、弥陀如来の本願と申すは、なにたる機の衆生をたすけたまふぞ。またいかやうに弥陀をたのみ、いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。さればその信心といふは、いかやうにこころをもちて、弥陀をばなにとやうにたのむべきやらん。それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。
かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりのなかに摂めおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを念仏衆生を摂取したまふといふことなり。
このうへには、たとひ一期のあひだ申す念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。これを当流の信心をよくこころえたる念仏行者といふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。



【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、阿弥陀如来の本願とは、どんな素質の人びとをおたすけくださるのでしょうか。また、阿弥陀さまにどのようにお従いし、心の持ちようをどのようにしておたすけにあずかるのでしょうか。
 まず、救われる側のへびとにっいていえば、十悪・五逆の罪人でも、五障・三従の女性でも、決してその罪の深く重いことに心を向けてはいけません。
 ただ、他力の信心。つだけで、八八実の極楽への往生をとげることができます。
 それならば、その信心とは、心の持ちようをどのようにし、また、阿弥陀さまにどのようにお従いするものでしょうか。
 そもそも、信心をいただくとは、自分のはからいを少しもまじえずに、ただ、もろもろの雑行や雑修(現世利益を願ってお念仏をすること)、また、自らの力をたのむはからいの心を振り捨てて、ふたごころなく、深く阿弥陀さまにおまかせするばかりです。その心に疑いのないのを「真実の信心」と申します。
 このように、ふたごころなく、ひたすらに従う人びとを、もったいなくも、阿弥陀如来はよく知られて、光明を放って、この者たちをそのなかにおさめておかれて、極楽へ往生させてくださいます。これが、「お念仏する人びとをおさめ取られる」ということです。
 このうえには、たとえ一生の間申すお念仏であっても、それはすべて仏のご恩にお応えし感謝するためのお念仏であるーーと心得てください。これを、「わが浄土真宗の信心をよく心得た念仏行者」といいます。あなかしこ、あなかしこ。


五帖目第十四通 上臈下主

 それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。
さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。
かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。かくのごとくやすきことをいままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、なほなほふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、おしなべて女性というものは、身分の高い低いによらず、人にそれと知れなくとも、罪汚れの深い浅ましい身であるーーと思うべきです。
 そこで、そんな女性が、どのように阿弥陀さまを信ずべきかといえば、何の面倒なこともいりません。ただ、阿弥陀如来に心からお従いして、み仏のはたらきにより、今を生きぬき永遠の命をいただくと信ずるなら、そのような女性を、阿弥陀さまは間違いなくおたすけくださいます。
 つまり、わが身の罪の深いことはさしおき、それらをすべて阿弥陀さまにおまかせして、ただ、ふたごころなく、「阿弥陀如来さま、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とお従いするならば、阿弥陀さまはその女性のことをよく知られて、おたすけくださるのは疑いないということです。
 こうして、たとえば、十人でも、百人でも、みなことごとく極楽に往生できますから、決してつゆほども疑う心をお持ちなさいますな。このように信ずる女性が、浄土に往生しないわけがありません。
 このうえは、「これほどに容易なことを今まで信じさせていただかなかったとぱ、なんと浅はかなこと」と思って、ますます深く阿弥陀如来にお従いしてください。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十三通 六字名号・無上甚深

 それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
 そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。



【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、南無阿弥陀仏という文字は、その数わずかに六字ですから、それはどのはたらきがあろうとも思えないのに、この六字のお名号のうちには、このうえない深い如来のおはたらきと利益がありますので、そのお力の広大なることはまったくきわまりがありません。
 そういうわけで、信心をいただくというのも、この六字のうちにこもっているのであるーーと知ってください。信心といって、別に六字のほかにはあるはずもありません。
 そもそも、この南無阿弥陀仏の六字を、善導は「玄義分」に註釈して、「南無というは帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは、その行なり。この義をもってのゆえにかならず往生することをう(南無というのは、阿弥陀如来の仰せに従うということであるが、これは“ふたごころなく信じて浄Lへ往生せよ”という阿弥陀如来の本願のお召しに従うことである。これはまた、阿弥陀如来が本願を立てて、南無阿弥陀仏のお名号を人びとにお与えになったということである。阿弥陀仏というのは、み仏のお与えになった名号の行そのものである。このいわれがあるゆえに、かならず往生するのである)」といっています。
 では、この註釈の文をどのようにお受け入れすべきかといえば、要するに、わたくしどものごとき悪行と迷妄ばかりに満たされた者でも、疑いなく阿弥陀仏の仰せに従えば、阿弥陀さまはかならずその者たちを知られて、おたすけくださるのだーーということです。
 いったい、阿弥陀仏の仰せに従うとぱ、とりもなおさず、「お誓いに従います」と信ずることです。そこで、疑いなく阿弥陀さまに従う人びとに、阿弥陀さまはこのうえない大いなる利益をもたらすはたらきをお与えくださることを、「発願回向」と申します。
 この「発願回向」によって、大いなる善、大いなるぱたらきをわたくしどもにお与えくださいますので、永遠の過去以来、わたくしどもがなしてきた悪行や迷妄の数々を、一瞬のうちにみな消してしまわれます。ですから、さしものわたくしどもの悪行、迷妄もことごとくみな消えて、もはや、正定聚(かならず仏になる者たちの位)・不退転(迷いの境界にあ・ともどりすることのない位)に住するーーというのです。
 このゆえに、南無阿弥陀仏の六字とは、わたくしどもが極楽に往生できるいわれを表しているのであるーーといよいよ知られます。
 そういうわけで、わが浄土真宗の安心というのも、信心というのも、このお名号の六字のいわれをよくよく心得ることにほかならず、これを心得た人を「他力の信心をいただいた人」と名づけます。
 このようにすぐれた道理がありますので、深く信じなければなりません。あなかしこ、あなかしこ。

【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は帖外に類似せるものが二通(百三十通、百三十一通)ある。南無阿弥陀仏の六字に無上甚深の功徳利益のあることを直接巻頭より出されたものはこの御文のほかにはない。『無量寿経』の流通分では「当に知るべし、この人は大利を得となす。則ちこれ無上の功徳を具足するなり」とあり、法然上人は『選択集』本願章の、念仏の勝の徳をあげるところに、
 名号はこれ万徳の帰するところなり。然れば則ち弥陀一仏の所有四智、三身、十力、四無畏等の一切の内証の功徳、相好光明説法利生等の一切の外用の功徳皆悉く阿弥陀仏の名号の中に摂在す。故に名号の功徳最も勝れたりとなすなり。(真聖全、三経七祖部九四三~四頁)
とあり、また約対章にも「極悪最下の人のために、極善最上の法を説く」ともある。また『和語灯録』巻一にも、
 かるが故に阿弥陀仏といふ。人法といふは所観の境なり。……しかればはじめ弥陀如来、観音、勢至、普賢、文殊、地蔵、龍樹より乃至かの土の菩薩声聞等にいたるまで、そなへたまへるところの事理の観行、正恵の功力、内証の智恵、外用の功徳総じて万徳無漏の所証の法門、みなことごとく三字のなかにおさまれり。
とあり、親鸞聖人も『浄土文類聚鈔』には「万行円備の嘉号」といわれ、また高僧和讃・曇鸞章には「無上宝珠の名号」とある。「行巻」引用の元照律師の疏にも「万徳すべて四字に彰る」とか「無辺の聖徳識心に攬人する」とある。「化身上巻」の真門釈にも「此の嘉名は万善円備せり。一切善法の本なり」ともいわれている。この無上甚深の名号は、多くは信じもの、称えものと思われている。すでに二十願の機は「本願の嘉号を己が善根とす」とあり、称えもの、信じものとして彼方におかれているのである。しかるに蓮師が「されば信心をとるといふもこの六字のうちにこもれりとしるべし、さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり」といわれることに注意すべきである。
 元来、念仏にも呪術の念仏と、陀羅尼の念仏(自力の念仏)と、他力の念仏と三つの類型が考えられる。一つの名号でも、うけとり方を誤まると呪術や陀羅尼となる。呪術の念仏は、自らの自己中心的な欲望の餌となると、名号は呪術化する。それは、現在の多くの神だのみの宗教の上に明らかに知られる。
 次に陀羅尼(dhāranī)の念仏は、名号そのものの功徳に目をつけ、称えもの、信じものとするのである。二十願の立場は、正しくこの名号を似非福心の自力心の餌とするのである。このような立場の宗教も多くみられる。
 しかし、他力の念仏といわれる場合は、白力心の虜となることは許されない。むしろこの前には自力心は否定されざるを得ないのである。蓮師は、信心とて六字のほかにないといわれている。というのは名号法は、信仰の対象として、彼方におかれていない、万行円備の嘉号として、自らの自力の造作は微塵も介入することの出来得ないもののまま、この私の存在するところにはいつでもどこでもとどけられているからである。それゆえ、親鸞聖人は形像本尊よりも名号本尊を用いられたといわれ、その名号も、六字名号、九字名号よりも「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を多く用いられている。名号は仏のてもとにおかれているのではなく、この私の存在する場の今ここに、すでに与えられているのである。それゆえ、聞信と同時に即得往生の益をうる平生業成の義が成立するのである。信心といっても多くの宗教のごとく、彼方に存する対象に向うものではなく、自ら信ずるという、主体的な動作を媒介とするものでもない。逆に自らの造作はすべて否定され、与えられたそのままの相状をいうのである。それゆえ、蓮師は「自力の心をすてゝ一心に弥陀をたのむ」といわれる。すくわれるか否かの問題はすべて弥陀のはからいであり、自らのはからいは否定されざるを得ないのである。それゆえ、六字のほかに信心とてあり得ないこととなる。この六字の法は「スタッニパータ」(ブッダのことば)にあるごとく、「人生最上の富」というべきである。我々の名誉、地位、教養、財産は死の自覚の前には何らの支えにならない。いかに親しい妻子春属も、この私を支えてくれない。生死をこえた不生不滅の、永遠を場とする名号法こそ、この私を支えてくれる唯一なるものである。
 この「御文章」では、次に六字釈を出し、特に帰命の釈に「それ帰命といふはすなはちたすけたまへとまうすこゝろなり」とある。帰命の釈は『御文章』では多く「たのむ」といわれているが、「たすけたまへ」を帰命とされているところに注意すべきである。元来「たすけたまへ」は鎮西義の用語であり、鎮西義では南無の釈を「心存助給口称南無」といわれる。心にたすけたまへと存ずることであり、この場合は仏に向ってたすけて下さいという請求を意味するのである。蓮師は「帖外御文章」ではーヶ所だけこの請求の義に用いられているが、否定の意味で使われている。文明五年以後のものには、請求の義は全くなく、すべて許諾の義(おまかせする)となっている。今も帰命は蓮師の上では信順の義とされ、おまかせする、おおせに順うことの義のほかにはない。それゆえ、蓮師はこのたすけたまへとたのむを結んで同義とされているのである。「と」の一字の接続詞は、二度と再びといわれるごとく、「即」を意味するのである。しかもたすけたまへが信順無疑の義とする場合は、たすけたもう法が先行しなければ成立しない。もし逆にこの私か先行すると請求の義となり、鎮西義と同じ意味となる。たすけたもう六字の法が、いつでもどこでもこの私の上に、自ら求めるに先行して既に与えられているのである。この法を聞信するから、おおせのままという信順許諾の義となるのである。三業安心はこの文法的な解釈の無知からきているのである。
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