五帖目第十五通 それ弥陀如来 | 蓮如上人の『御文』を読む

五帖目第十五通 それ弥陀如来

 それ、弥陀如来の本願と申すは、なにたる機の衆生をたすけたまふぞ。またいかやうに弥陀をたのみ、いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。さればその信心といふは、いかやうにこころをもちて、弥陀をばなにとやうにたのむべきやらん。それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。
かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりのなかに摂めおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを念仏衆生を摂取したまふといふことなり。
このうへには、たとひ一期のあひだ申す念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。これを当流の信心をよくこころえたる念仏行者といふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。



【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、阿弥陀如来の本願とは、どんな素質の人びとをおたすけくださるのでしょうか。また、阿弥陀さまにどのようにお従いし、心の持ちようをどのようにしておたすけにあずかるのでしょうか。
 まず、救われる側のへびとにっいていえば、十悪・五逆の罪人でも、五障・三従の女性でも、決してその罪の深く重いことに心を向けてはいけません。
 ただ、他力の信心。つだけで、八八実の極楽への往生をとげることができます。
 それならば、その信心とは、心の持ちようをどのようにし、また、阿弥陀さまにどのようにお従いするものでしょうか。
 そもそも、信心をいただくとは、自分のはからいを少しもまじえずに、ただ、もろもろの雑行や雑修(現世利益を願ってお念仏をすること)、また、自らの力をたのむはからいの心を振り捨てて、ふたごころなく、深く阿弥陀さまにおまかせするばかりです。その心に疑いのないのを「真実の信心」と申します。
 このように、ふたごころなく、ひたすらに従う人びとを、もったいなくも、阿弥陀如来はよく知られて、光明を放って、この者たちをそのなかにおさめておかれて、極楽へ往生させてくださいます。これが、「お念仏する人びとをおさめ取られる」ということです。
 このうえには、たとえ一生の間申すお念仏であっても、それはすべて仏のご恩にお応えし感謝するためのお念仏であるーーと心得てください。これを、「わが浄土真宗の信心をよく心得た念仏行者」といいます。あなかしこ、あなかしこ。