蓮如上人の『御文』を読む -2ページ目

五帖目第十二通 御袖すがり

 当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにその人を摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さては、わが身のほとけに成らんずることはなにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことはさらにもつてあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。 これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩をおもひはかりて、仏恩報謝のためにつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 わが浄土真宗の信心の内容を詳しく知ろうと思う人は、ことさら知恵や学問はいりません。ただ、わが身は罪深い浅ましい者であるとさとり、このような者までもおたすけくださる仏は阿弥陀如来だけであると知ってください。
 そして、自分のはからいを少しもまじえずに、阿弥陀仏のお袖に強くぉすがりさせていただく思いで、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とおまかせすれば、阿弥陀如米は深く喜ばれて、そのお体から八万四千の大いなる光明を放たれ、光明のなかにその人をおさめ入れておいてくださいます。
 そこで、これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨(阿弥陀仏の光明は十方の世界を至らぬところなく照らし、お念仏をする衆生をおさめ取って捨てることはない)」と説かれているのであるーーとお心得ください。
 してみれば、わが身が仏になるのは、何の面倒もないことです。ああ、なんとすばらしい、世に超えすぐれた阿弥陀さまの本願でしょうか。なんとありがたい阿弥陀如来の光明でしょうか。この光明のご縁に遇わせていただかなければ、永遠の過去からの無知やさとりの妨げをなす悪い行いが治ることは、決してあるはずはありません。
 しかるに、この光明というご縁に促されることにより、遠い過去世からの如来のお育てのおかげで、他力の信心を、今、すでにいただきました。
 そしてこの信心は、まったく、阿弥陀如来のほうからお授けくださった信心であると、ただちに明らかに知られました。このゆえに、信心も行者の方で起こす信心ではなく、如来からいただく他力の信心であることが、今こそ、明らかに知られたのです。
 こういうわけで、もったいなくも、ひとたび他力の信心をいただいた人は、みな、阿弥陀如来のご恩ということをよく考えて、仏のご恩にお応えし感謝するために、常に称名念仏を申し上げるべきです。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十一通 御正忌

 そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。 人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、この御正忌(正忌は、故人の没した日にあたる、毎年のその月のその日のこと。今は御正忌報恩講という法要)の間に、志を携えて、親鸞聖人のご恩にお応えし、み仏のはたらきに感謝しようと、御真影(親鸞聖人の像)の前にお参りする人のなかには、信心をいただいた人たちもいるでしようし、また、信心の定まらない人たちもいるでしょう。これはきわめて重大なことです。
 というのも、信心決定しなければ、このたびの真実の浄土への往生はどうなるかわからないからです。ですから、信心の定まらない人もすみやかに信をいただかねばなりません。
 人間界は、誰がいつ死ぬやら変化のつづく世界です。これに対して、阿弥陀さまのまします極楽は永遠に変わることのない完全なさとりの国です。ですから、変化のつづく人間界にいるよりも、変わることのない極楽を願うべきです。
 さてそこで、わが浄土真宗では信心が第一とされていますが、その理由をよく知らないかぎりは、何の役にも立ちません。それですみやかに信心を決定して、浄土へ往生することを願うべきです。
 ところが、この世の人々の間に一般的にひろまっている理解の仕方はといえば、南無阿弥陀仏のいわれも聞かないで何のわきまえもなしに、ただ口で南無阿弥陀仏とだけ称えたならば、極楽に往生できるかのように思っています。これはたいへんにいぶかしいことです。
 他力の信心をいただくとは、別のことではありません。南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく知っていることを、つまりは、「信心を決定している」といいます。
 そもそも、信心そのものにっいては、『大無量寿経』に、「聞其名号 信心歓喜(その名号を聞いて、信心を得て喜ぶ)」といわれています。また、善導は「玄義分」に、「南無というは帰命。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏というは、すなわち、その行(南無というのは、阿弥陀如来の仰せに従うということであるが、これは“ふたごころなく信じて浄土へ往生せよ”という阿弥陀如来の本願のお召しに従うことである。これはまた、阿弥陀如来が本願を立てて、南無阿弥陀仏のお名号を人びとにお与えになったということである。阿弥陀仏というのは、そのみ仏のお与えになった名号の行そのものである)」と註釈しています。
 「南無」という二字の意味は、もろもろの雑行を捨てて、疑いなく、ふたごころなく、ひたすらに阿弥陀仏にお従いするということです。
 そしてまた、「阿弥陀仏」という四字は、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従う人びとを、阿弥陀さまは苦もなくたすけてくださるということを意味しています。
 そういうわけで、南無阿弥陀仏そのものをこう心得るのを、「信心をいただく」といいます。そしてこう受け入れた人を、すなわち、「他力の信心をよく心得たお念仏の行者」と申します。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第十通 聖人一流

 聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 親鸞聖人から伝わっているみ教えは、信心をもって、もっとも大切なこととされています。
 そのわけは、もろもろの雑行を行じる自力の心を投げ捨てて、ふたごころなく阿弥陀さまの仰せに従うならば、人知でははかり知れぬ仏の本願力によって、仏のほうから人びとの往生を決定してくださるからです。
 それによってわたくしどもが入ることのできる位を、曇鸞大師の『往生論註』には、「一念発起入正定之聚(本願を信ずる心が起こったそのとき、往生が定まり、かならず仏となる者たちの位に入る)」とも註釈されています。
 さて、そのうえの称名念仏は、如来がわたくしどもの浄土往生を定めてくださったご恩にお応えするためのお念仏であるーーとお受け入れください。あなかしこ、あなかしこ。

【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」の来由には種々あるが、決定論はないようである。「帖外」六通に全く同文のものが存する。この「帖外」によると文明三年炎天のころとあり、北陸加賀の五ヶ庄という地名も出ている。しかし古来よりこの「御文章」は「お筆はじめ」ともいわれ、蓮師の寛正元年、金森の道西にあてたものともいわれる。さらに『来意鈔』では蓮師の入寂前に門弟をよんで、「大阪建立の章」と「聖人一流の章」を拝読せしめたとある(このことの真偽は不明である)。しかし、このように最初から最後まで一貫していることを考えると、「御文章」帖内帖外の二百数十通はこの章に圧縮されているともいわれるのである。この章に連関するものを二、三出すと、二の三通には、
 しかれば祖師聖入御相伝一流の肝要はたゞこの信心ひとつにかぎれり、これをしらざるをもて他門とし、これをしれるをもて真宗のしるしとす。
とあり、三の七通にも、
 抑親鸞聖人のすゝめたまふところのー義のこゝろはひとへにこれ末代濁世の在家無智のともがらにおいてなにのわづらひもなくすみやかにとく浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもて本とをしへたまへり。
とある。この「御文章」は、極めて短い文章の中に浄土真宗の教義を圧縮しているのである。すなわち信心正因称名報恩に摂することができる。この信心正因、称名報恩という対句は全く別個な内容のものではない。信心正因なるがゆえに、称名報恩であり、称名報恩なるがゆえに信心の正因なることが明らかに知られるのである。親鸞聖人の上ではこのような対句として出されている場合は余り存しない。蓮師の出拠とされているのは『正信偶』龍樹章の「憶念弥陀仏本願、自然即時人必定、唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」である。蓮師がこの信心正因称名報恩の義を強調されたのは、当時、鎮西義の「単直愚痴の大信」、真盛上人の「戒称一致の念仏」が一般に北陸地方に浸透していたためといわれる。いずれも無信単称、口称正因を主張し、「ただ称えさえすればたすかる」という考え方が流行していたのである。それゆえ浄土真宗の本義は全く歪められていた。これに対し、信心正因であり、称名は報恩なることを明らかにされたのである。帖内八十通の中に「無信単称」の称名について八ヵ所出され、いずれも吉崎在住時代のものといわれる。この批判には、蓮師は必ず善導の六字釈を出されている。すなわち善導の六字釈そのものが、無信単称を批判して、「たのむものをたすくる」という信心正因を明らかにしているからである。
 信心の正因なることはすでに第十八願の上にその動かすべからざる根拠が存する。さらに本願成就文によると、より明らかに知られる。親鸞聖人によると、三国七祖の上でもその伝統は明らかに知られるのであり、それゆえ、『正信偈』の龍樹章に出されている信心正因称名報恩の義は七祖に一貫する立場をあらわすといわれる。このような第十八願、成就文を根拠とし、三国七祖の伝統をうけて、信心正因の義を明らかにされたのが『教行信証』一部六巻の内容といわれる。『教行信証』は周知のごとく真実の巻と方便の巻を持っている。万使の巻の中心はを頭の標挙の上に明らかに示されているごとく、十九、二十両願である。しかも「方便」とあるように、これらの願は既実に誘引せんがためのものといわれる。それゆえ、『教行信証』の方便の巻は真実五巻に摂せられる。このことは『教行信証』を圧縮した『浄土文類聚鈔』によっても明らかに知られる。この真実五巻は善導、法然両師の一願建立の立場から五願六法に開示され、十八願の分担を明らかにされているのである。すなわち十七願には教行を、十一願は証、十二、十三願は真仏真土に、残された十八願は至心信楽の願と標挙に出ているように「信巻」の内容となっているのである。しかも「信」のところには「証人涅槃の真因」とか、「正定之因唯信心」「至心信楽願為因」とあり、「涅槃の真因は唯信心を以てす」(信巻本)「報土の正定の因と成る」(信巻本)等、信心のところにのみ「因」を出されているのである。それゆえ、信心の正因なることを明らかにされたのが『教行信証』一部六巻といわれるのである。
 しかも正因となる信心は自力の信心では不可能である。他力の信心でない限り通じない。ここに「方便化身土巻」を出され、自力の信と他力の信との相違を明らかにされ、正因の正因たるゆえんは、他力の信にあることを明らかに示されているのである。したがって称名は、念仏往生とあっても自ら念仏することによって往生するのではなく、他力の念仏である。他力の念仏は、自らの称えたことに功を認めないのである。自らの功を認めない念仏は、念仏のそのまま、名号法の独立となる。同様に信心も、自らの、信じたという功を認めると自力の信心となる。それゆえ、宗祖は他力の信心の解釈は「無疑」といわれ、自力心の否定を意味するといわれるのである。自らの造作、はからいを加えない、与えられた法のそのままの領受の相をいうのである。それゆえ、信のものがらも、念仏のものがらも名号法のほかにはあり得ない。ここに、念仏往生即信心往生といわれるゆえんが存するのである。信心は、この私の上に名号法の領受された相で、そのものがらは名号のほかにない。この名号がこの私の上では因としてはたらくので、その因が果に証験したのが往生浄土であり、成仏といわれる。
 この信心が正因といわれるのである。したがって自ら称える念仏は、往生の因でないから報恩といわれるのである。このような信心正因称名報恩といわれる最も具体的な出処は、『歎異抄』十四章にある。すなわち、
 そのゆへは弥陀の光明にてらされまひらする故に、一念発起する時、金剛の信心をたまはりぬればすでに定聚のくらいにおさめしめたまひて、命終すればもろもろの煩悩悪障を転じて無生忍をさとらしめたまふなり。この悲願ましまさずばかゝるあさましき罪人、いかでか生死を解脱すべきとおもひて、一生のあひだまふすところの念仏はみなことごとく如来大悲の恩を報じ徳を謝すとおもふべきなり。
とあり、蓮師の信心正因称名報恩義は、この文によっているといわれる。特に称名の報恩なること、「おもふべきなり」をうけ、蓮師の上では「こゝろうべきなり」と機の主体の側から称える用心を明らかにされている。

〔用語の解説〕
・一念発起入正定之聚ー一念発起という言葉は、蓮師にはしばしば用いられているが、宗祖の上では余り用いられていない。『末灯鈔』十通に出ているが、蓮師は『歎異鈔』十四章によるものと思われる。一念発起入正定之聚の義を明らかに出されているからである。この義は一念発起平生業成ともいわれ、蓮師の平生業成の義も正しくこの『歎異鈔』をうけているといわれる。(もちろん覚如存覚両師も否定出来ない)一念発起とは聞信の一念と同時に往生すべき身に決定する。入正定之聚の語は元来曇鸞の『往生論註』によるものである。巻頭に「仏の願力に乗じて便ち彼の清浄の土に往生を得、仏力住持して即ち大乗正定之聚に入る」とあり、この文面では彼土の益となっている。今は現益にとる。

五帖目第九通 安心の一義

 当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。



【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 わが浄土真宗のみ教えの特徴は、ただ、南無阿弥陀仏の六字のいわれを知ることです。
 つまり、わたくしどもが南無とお従いすれば、ただちに阿弥陀仏はおたすけくださいます。こういうわけで、「南無」の二字は「阿弥陀仏の仰せに従う」という意味です。
 その阿弥陀さまの仰せに従うとはどんな意味かといえば、人びとがもろもろの雑行を行じる自力の心を捨てて、「阿弥陀さま、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とひたすらにおまかせすることです。
 ですからこれは、阿弥陀如来がどんな人びとをも、漏らさずに、よく見ぬいて、おたすけくださるということです。
 こういうわけで、南無と従う人びとを、阿弥陀仏がおたすけくださるという道理ですから、南無阿弥陀仏の六字のいわれとは、とりもなおさず、わたくしどもすべての者たちが平等におたすけにあずかったということであるーーと知られます。
 そこで、他力の信心(阿弥陀如来からたまわった信心)をいただくというのも、これはすべて、南無阿弥陀仏の六字のいわれを知ることです。
 したがって、一切の聖教というのも、ただ、南無阿弥陀仏の六字を信じさせるためのものであるーーとお考えください。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第八通 五劫思惟

 それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、阿弥陀如来がたいへんに長い間お考えになられた本願も、その本願を実現するためのはかり知れぬ期間にわたってのご修行も、ただ、わたくしどもすべてをおたすけになろうがためのお手だてです。
 そのようにして、阿弥陀如来は辛苦を重ねられ、南無阿弥陀仏のお名号一つで人びとを救おうという本願をお立てになりました。こうして、「迷いのうちにある人びとが、疑いなくわたしに従い、もろもろの雑行を捨てて、ふたごころなく、ひたすらにわたしにまかせるならば、そのような人びとをすべてたすけよう。それができないのなら、わたしも仏にはならない」と誓われました。こうして阿弥陀さまは、自ら南無阿弥陀仏のお名号になられました。これがすなわち、わたくしどもがみ仏のはからいによって極楽に往生できるいわれなのだーーと知るべきです。
 そういうわけで、南無阿弥陀仏の六字が表しているのは、すべての人びとが真実の浄土に往生できるということです。それゆえ、南無とお従いすれば、ただちに阿弥陀仏がわたくしどもをおたすけくださることになります。
 ですから、「南無」の二字は、人びとが阿弥陀如来に向かって、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と信じることです。このように阿弥陀さまに従う人を、漏らさずにお救いになるということこそ、「阿弥陀仏」の四字の意味であると思ってください。
 こういうわけで、どんな十悪・五逆の悪人、五障・三従の女性であっても、雑行を捨て去って、ひたすらに、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と従う人を、阿弥陀如来は、たとえば十人であれ、百人であれ、みなことごとく、漏らさずにおたすけくださいます。
 このことを疑いなく信ずる人びとは、真実の阿弥陀さまの浄土に往生することができます。あなかしこ、あなかしこ。


五帖目第七通 それ女人の身は

 それ、女人の身は、五障・三従とて男にまさりてかかるふかき罪のあるなり。
このゆゑに一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからにては女人をばほとけになしたまふことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんといふ大願(第三十五願)をおこしてすくひたまふなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけに成るといふことあるべからざるなり。
これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまゐらせてほとけに成るべきぞなれば、なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、後生たすけたまへとおもふこころひとつにて、やすくほとけに成るべきなり。このこころの露ちりほども疑なければ、かならずかならず極楽へまゐりて、うつくしきほとけとは成るべきなり。さてこのうへにこころうべきやうは、ときどき念仏を申して、かかるあさましきわれらをやすくたすけまします阿弥陀如来の御恩を、御うれしさありがたさを報ぜんために、念仏申すべきばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも女性の身には、五障(女性は指導者になれないというので、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏にはなれないこと)・三従(女性は幼いときは親、結婚すると夫、老いれば子に従うということ)といって、深い罪があります。そのために、十方の世界にましますあまたの仏も、ご自身の力で女性を仏にすることはまったくおできになりません。
 しかしながら、阿弥陀如来こそは、「そのような女性をわたしだけはたすけよう」と大いなる誓願を起こして、お救いになられます。この仏にお従いしないかぎりは、女性の身が仏になるということはありえません。
 こういうわけで、心の持ちようをどのようにし、また、阿弥陀仏にどのようにお従いして、仏になることができるかといえば、自分のはからいを少しもまじえずに、ただ、ふたごころなく、ひたすらに阿弥陀仏ばかりにお従いして、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」とおまかせする心ひとつで、たやすく仏になれるのです。このことにわずかの疑いもなければ、かならず、かならず、極楽へ往生して、うるわしいにげ派な仏になることができます。
 さて、このうえには、日常のそのときそのときにお念仏を申して、こんな浅ましいわたくしどもをみ仏のはからいによっておたすけくださる、阿弥陀如来のご恩の嬉しさ、ありがたさにお応えするためには、お念仏を申しあげるばかりであるとお心得ください。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第六通 一念に弥陀

 一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。このこころをまた『和讃』(正像末和讃・一)にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」(意)といへり。「摂取不捨」といふは、これも、一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。
このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

五帖目第五通 信心獲得

 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。
これを『大経』(上)には「令諸衆生功徳成就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。この義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 信心をいただくとは、阿弥陀如来の第十八願のいわれを心得ることです。この第十八願のいわれを心得るとは、南無阿弥陀仏のいわれを心得ることです。
 それですから、南無と疑いなくぉ従いするところに、「発願回向(阿弥陀如来が誓願を立てて、南無阿弥陀仏のお名号を人びとに与えられたこと)」ということがあります。これはつまり、「阿弥陀如来がわたくしども愚かな者たちに如来の功徳(名号)を与えてくださる」という意味です。
これを『大無量寿経』には、「令諸衆生 功徳成就(もろもろの人びとをして如来は浄土に往生するためのはたらきを満足させる)」と説いています。
 こういうわけで、わたくしどもが永遠の過去から作りに作ってきたあらゆる罪や迷妄を、人知でははかり知れぬ本願力によって、残らず、消し滅ぼしてくださるいわれがあります。それゆえ、「浄土に往生することが定まり、かならず仏となる位につく」というのです。
 ですから、親鸞聖人が「正信偈」に、煩悩を断ぜずして涅槃を得(煩悩を断じないままで、完全なさとりの境地を得る)といわれているのは、この意味です。
 この教えはわが浄土真宗にみ説くことですから、浄土門の他宗派の人に対しては、論じ立ててはいけません.くれぐれもよく心得ていてください。あなかしこ、あなかしこ。


【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は同文のものが三通あり、明応六年の後に年号のある超願寺本等では現行のものと同じであるが、他の二本の名塩本などは「これ当流一途の所談なり」とか「この義は当流一途の所談なり」で結ばれている。この「御文章」は『来意鈔』にあるごとく、蓮師七十二歳(文明十八年)に和歌山県海南市の冷水に行かれ、了賢のところで作四郎という同行の臨終に際し、書かれたものといわれる。慶聞坊がこれを拝読し、「煩悩を断ぜずして涅槃をうといへるはこのこゝろなり」のところで彼は息が絶えたといわれる。作四郎は喜んで南無阿弥陀仏といい「仏」をいう声はきこえなかったという臨終法話である。蓮師の数多くの「御文章」の中でも、巻頭から「信心獲得」とある御文はこの章のほかにはない。臨終法話という場合は全く特殊のように思われるが、浄土真宗の法話はいつでも臨終法話でなければならない。蓮師も「聞書」に「仏法には明日ということはあるまじく候」といわれている。
 七祖の上でも道綽禅師以後、第十八願を『観経』の下々品の文と合糅されている。第十八願の対機は造罪の多少を問うことなく、臨終平生を包むことを意味するものである。ところで、臨終といえば特殊な臨末の場を予想するが、自らにとって臨終は存するのであろうか。それは、ほとんど無自覚で終るのではなかろうか。たとい自覚されても聞く気力も判断力も失ったものが多いのではなかろうか。それゆえ、臨終ということは常在臨終というべきである。死は自覚においてあり、自覚は現実を場としているのである。癌という死刑の宣告を与えられた場合、与えられた今、ここに問題をもっているのである。自覚においては生と死はあたかも紙の表裏のごとく、次の瞬間も保証され得ないものに可能態として生に密着しているのである。むしろ二元論的に考えられるものであるが、現実の自覚においては自己同一的なものである。一瞬一瞬が死に面しているともいわれる。それゆえ、仏法は明日の話でなく、今ここに存在するこの私一人への問に対するものである。
 このような意味においては一瞬一瞬が臨終であり、浄土真宗の法話は、またこの次にというような話ではない。ここに蓮師の平生業成を説かれた真義が考えられる。
 さらにこの「御文章」は蓮師の書かれた時、はじめの「信心獲得すといふは第十八の願のこゝろうるなり」の次の句が出てこない。そこへ親鸞聖人が示現されて「この願をこゝろうるといふは南無阿弥陀仏のすがたをこゝろうるなり」と次の句を示されたといわれ、古来より、親鸞聖人と蓮師の合体の作といわれるのである。しかしこの文は『安心決定妙』(真聖全、列祖部六一九頁)に存する。即ち、
 第十八の願のこゝろうるといふは名号をこゝろうるなり。
とあるによる。しかし、蓮師の信心をうることの解説にはこのような表現は余りみられない。親鸞聖人は「聞其名号」の釈でも「仏願の生起本末を聞く」と仏願を出され、名号や念仏にも本願を頭に冠している場合が多い。本願名号とか本願念仏といわれている。このように、本願に重点をおかれているようにみられる。本願と名号は全く別個なものではなく、因と果の上での表現の相違で、その体は一つである。しかし二十願の機は、せっかく「聞我名号」とあっても、本願を見落して名号の功徳善根に眼を向けるところに問題が存するのである。それゆえ、親鸞聖人が本願に注意されたのは、二十願の聞不具足の機に対したものといわれる。本願のとおりに成就したのが名号であり、「南無阿弥陀仏といふ本願をたてましまして」とあるように、名号と本願は全く同一の法である。それゆえ信心獲得すということは、第十八の願をこころうることであり、第十八の願のこころうることはそのまま南無阿弥陀仏のすがたをこころうることである。南無阿弥陀仏のすがたということは義相ということで、いわゆる、いわれという意味である。蓮師はしばしば南無阿弥陀仏の六つの字のいわれをよくよく聞けといわれている。このいわれとは仏願の生起本末のことをいう。仏願の生起本末の逆は信罪福心である。自らのたすかる、たすからない心配を自らの側でするのが信罪福心である。これに反し、仏願の生起本末とは、『歎異鈔』第九章に「仏かねてしろしめして煩悩具足の凡夫」とあるように、この私のたすかる、たすからない心配は仏の側にあり、本願の上での問題となっているのである。この本願が本願の通りに成就されているのが南無阿弥陀仏の名号である。成就とは完成を意味するが、信ずる対象や聞く対象として彼方におかれているのではない。いつでも、どこでも誰にでも、自らが求めるに先行してすでに与えられているのである。今ここに存在するこの私の上に、はたらきかけているのである。それゆえ、南無阿弥陀仏は固定化した仏名ではない。今ここに存在するこの私の上にはたらいている動的な活動相といわれるのである。この六字の法に対して、この私か遇えない理由は、自らが背を向けているからである。無知なることももちろん背を向けていることであるが、せっかく、法を聞きながらも背を向けているものも多いのである。それは自らが先行するからである。自らが先行すると、救いの法を彼方にはねつけることになり、拒絶することになるからである。このことを自力心とか、はからい、雑行雑修等と、蓮師はしばしばいわれている。それゆえ、信心を獲得するということは、蓮師によると、多く「自力の心をすてゝ一心に弥陀をたのむ」といわれるのである。自力の心とは自らのはからい。救われる、救われないの問題は弥陀のはからいの中にあるのである。この弥陀のはからいの内容が「仏願の生起本末」といわれるのである。それゆえ、信心獲得ということはそのまま「南無阿弥陀仏のすがたをこゝろうるなり」といわれるのである。

〔用語の解説〕
・信心獲得-獲得の二字はともにうることをいうが、獲の字はものを得るときのはじめをいい、得の字は得たときをいうといわれる。親鸞聖人も「自然法爾章」に、獲の字は因位の時、得の字は果位のときうるといわれている。それゆえ、『正信偶』にも「必獲大大会衆数(因)得至蓮華蔵世界(果)」とある。
・発願廻向のこゝろー発願廻向は、善導大師が六字釈で南無に、帰命と発願廻向の義のあることを出され、元来、衆生の側でいう解釈を親鸞聖人は『教行信証』「行巻」六字釈で「如来已に発願して衆生の行を廻施したまうの心なり」と仏の側で釈されている。(但し「銘文」の釈では衆生の側の釈となっている。この場合は本願の三心中の欲生と同義といわれる) 蓮師の発願廻向の釈はほとんど多くの場合、この「行巻」の仏の側での釈となっている。
・令諸衆生功徳成就ー『無量寿経』の因行段に出るもので、親鸞も「教行信証」「信巻」三心釈の至心釈の引文に出されている。名号の徳に万行の円備されていることを示し、それをそのまま衆生に廻施したまうことをいう。
・煩悩を断ぜずして涅槃をうー『正信偈』にも「不断煩悩得涅槃」とあり、煩悩を断じて涅槃のさとりを得るのが、一般仏教の立場といわれるが、浄土真宗では煩悩具足の凡夫の身のままで、そのまま無上の仏果を開くべき身にさだまることをいう。それゆえ、前句に「願力不思議をもて消滅するいはれあるがゆへに正定聚不退のくらいに住すとなり」とある。無上の妙果は臨終一念の夕に証験するのであるが、仏果を開くべき身にさだまることをいう。
・他流の人に対してー他流ではこのような義はないから、逆に謗法罪の因由を与えんとも限らない。それゆえつつしむ方がよいといわれる。


五帖目第四通 男子も女人も

 そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。
このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。


【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 さて、今は末世の悪い時代ですから、男性も、女性も、罪の深い者たちは、あまたの仏の慈悲の誓願をたのみとしても、それらの仏のお力ではなかなか救われることはかないません。
 そこで、ここに阿弥陀如来と申し上げる仏は、他のあまたの仏にまさり、十悪(殺生・偸盗・邪淫・両舌・悪口・妄語・綺語・貪欲・瞋恚・愚痴)・五逆(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五つの反逆罪)の罪人を「わたしががたすけよう」と大いなる誓願を起こされて、阿弥陀仏となられたお方です。
 この阿弥陀さまは、「わかしを深くたのみとして、疑いなく、誓いに従う人びとをたすけることができないならば、わかし白身も仏にはならない」とお誓いになられましたから、わたくしどもが極楽に往生することはまったく疑いありません。
 こういうわけで、ふたごころなく、ひたすらに「阿弥陀如来さま、お誓いに従います」と深く心に疑いなく信じて、わが身の罪の深いことはさしおき、仏におまかせして、阿弥陀さまの仰せに従う信心を決定する人たちは、十人は十人、百人は百人すべて、みな浄土に往生できます。これはまったく疑いありません。
 このうえには、なお、尊く思う心の起こるときには、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と時も所も選ばずに、お念仏を申してください。これをすなわち、仏のご思にむ応えし、感謝するお念仏と申しします。あなかしこ、あなかしこ。


五帖目第三通 在家の尼入道

 それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。このうへには、なほ後生のたすからんことのうれしさありがたさをおもはば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

【現代語訳】 『蓮如の手紙』(国書刊行会 浅井成海監修)より
 そもそも、在俗生活を送る女性は、自分のはからいを少しもまじえずに、ふたごころなく、ひたすらに、阿弥陀仏に深くお従いして、「み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただきます」と信じるならば、そのような人はみな、おたすけにあずかることができます。そのように信心を決定してそれを疑う心があってはなりません。これをつまり、阿弥陀仏がお誓いくださった本願といいます。
 このうえにはなお、み仏のはたらきにより今を生きぬき、永遠の命をいただくことの嬉しさ、ありがたさを思い、ただ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えるべきです。あなかしこ、あなかしこ。



【『蓮如上人のことば』(稲城選恵著 法蔵館刊)の解説】
 この「御文章」は一般に在家尼女房の章といわれるが、他力本願の章というべきである。というのは蓮師は帖内、帖外の「御文章」にしばしば他力本願という言葉を出されてぃるが、具体的な他力本願の内容を明らかに述べられているのが、この章だからである。他力本願とは第十八願の内容である。この仏の救わわる因も果もすべて他力であることをいうのである。このことは『教行信証』の上にも明らかに示されている。すなわち第十八願を『教行信証』真仏真土の五願六法に開示したもので、その内容は行信の因と証真仏土の果となっている。しかも「証巻」には『教行信証』の四法を結んで、因も果もすべて願力廻向の他力なることを明らかにされている。この他力本願という用語は弘法大師の『念仏口伝集』にはじまり、法然上人も用いられ、親鸞聖人も『唯信鈔文意』『末灯鈔』等に出されている。また『歎異鈔』の結尾にも出ているが、最も多く用いられているのは蓮師である。現在、他力本願が誤用されて一般のジャーナリストに使われているが、それもこの「御文章」によるものと思われる。現在日常使用されている日本語の中に「御文章」の用語も多く存するからである。それゆえ、他力本願というほんとうの意味は、蓮師の解釈から親鸞聖人、法然上人、『往生論註』へと逆にみていくとその系道が明らかに知られる。この章の他力本願といわれるものも正しく第十八願の内容である他力の信心を示され、信心一つで救われることを明らかにされている。他力本願という本願のことは、他力本願を誤用しているものは全く無知である。問題は他力ということである。他力に対しては自力という言葉が存する。それゆえ、自ら私造して自力本願という常識はずれの言葉を使っている。他力の蓮師の解釈をみると、「聞書」に二ヵ所、「帖外御文章」にーカ所存する。三ヵ所とも共通して「自らのはからい(自力心)」をくわえないことをいう。自らのはからい自力心を是認すると、浄土真宗という「真」の一字を除かねばならない。それゆえ、他力とは与えられた法のままに生かされることである。それこそ真実に生きるということでなければならない。しかし蓮師の解釈は親鸞聖人の伝統をうけ、さらに法然上人の真意を継承したものといわれるのである。
 親鸞聖人の上で他力の解釈を求めると、誰しも『教行信証』の「行巻」、他力釈の如来の本願力をあげる。もちろんこの解釈に間違いはない。しかし如来の本願力を他力と解釈するのは親鸞聖人ばかりでない。法然上人門下の鎮西上人も、西山上人も用いているのである。鎮西義では他力を助縁他力と解釈し、自らの力に限界があるから、その後は仏力他力のたすけによるというのである。西山義では全分他力を強調するが、他力の法は彼方におかれている。それはあたかも乳のごとくであるとたとえられる。乳は母親の側にあり、親子がはなれているのである。子供の要求によって親ははたらきかけるのである。
 親鸞聖人の解釈は、自らの造作は微塵も介入することを是認しないのである。それゆえ、他力にはさらに「廻向」という言葉をつける。さらに、親鸞聖人の廻向の解釈は一般仏教と異なり、「廻向したまへり」「せしめたまへり」と仏から衆生への方向において釈されている。それゆえ、他力のものがらである本願力名号法は、いつでもどこでもだれにでも与えられ、とどけられているのである。それゆえ、他力は易の徳をあらわすのである。「行巻」追釈要義の他力釈は、法然上人の『選択集』本願章の、念仏の勝易の二徳をあらわすうちの、易の徳をあらわさんがためといわれる。易と他力はすでに曇鸞、道緯両師の上においても明らかに知られる。それゆえ『人出二門謁』にも「すなわち易行道なり、他力と名づく」とある。易は無作を意味するので、人間の怠慢の心を満たす安易ではない。自らの造作はすべて是認しないことをいう。いかなる意味においても自らの側に条件をつけると、可能なものと、不可能なものとに分かれる。条件ぬきであれば十人は十人ながら可能となる。「行巻」の他力釈は易の徳をあらわし、機受無作の義を明らかにされ、無作なる理由が如来の本願力である。
 また宗祖の晩年の御消息の中には「無義為義」の他力の釈がある。すなわち『来灯鈔』にょると、
 また他力とまふすことは義なきを義とすとまふすなり。義とまふすことは行者のおのくのはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にまします故に仏と仏との御はからひなり。凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべき人は候はず、しかれば如来の誓願には義なきを義とすとは大師聖人のおほせに候き。
とあり、「義なきを義とす」を他力の釈とされ、しかも、大師聖人といわれる法然上人の仰とされている。法然上人の上では「法力房に与へるの書」に出ている。「義なきを義とす」というはじめの義は、行者のはからいであり、自力心をいうのである。次の「義となす」の義は、行者のはからいのないことを他力という、という意味であるといわれる。それゆえ、他力とは自力心の否定をいうのである。蓮師の解釈はそのまま親鸞聖人、法然上人の解釈をうけ、さらに『往生論註』の他利々他の深義といわれる義に通ずるのである。
 このように自力心の否定を意味する他力本願を、自力心の虜となった立場で解釈をすると誤解し、人まかせ、横着ものの代名詞となるのである。自力心は自らにおいては否定できない、それは自らの眼によって自らの眼を見んとする業に等しいといわれる。他力の法によって始めて否定されるのである。否定するはたらきそのものは、もちろん本願力の法であり、主体の側に残されているものは本願力名号法の妙用のほかにはない。立場は異なるがパウロの「もはや我生きるにあらず、キリスト我がうちに生きるなり」とある宗教の真髄と同様の重要な意味である。