呼吸は深く | ハリーの養生訓

ハリーの養生訓

僕が見つけた養生

呼吸の重要性は止めてみればわかります。


食事は数ヶ月絶てても、呼吸ばかりは数分ともちません。


それだけ生命に直結した行為であるといえないでしょうか。


古今東西、健康法はありますが、この呼吸法は最重要の地位を占めていると考えられます。


なぜなら、意識的であれ無意識的であれ、一日中休みなく行っているために、その積み重ねの効果が膨大だからです。


単発のとってつけたような方法とは、心身に及ぼす影響力の大きさがまるで違うわけです。


呼吸法には、心身を意図的に操作しうるテクニカルな方法はいくらでもあります。


それは内臓で唯一肺だけが自らの意志で操作できることと無関係ではありません。


呼吸は自律神経を介して心と体をつないでいます。


つまり心身の状態は呼吸に表れ、呼吸によって心身の状態を変えることができるのです。


しかしながら、呼吸の重要性を理解したところで、呼吸法となると、なかなかなじみがなかったり、いざ実践してみても長続きしないことが多いようです。


それが快感を伴っているならば、無条件に行われるはずです。


呼吸に対して無関心であるということは、それが心地良くない、不快で息苦しい方法で行われているからに他ならないでしょう。


「健康のために」と行われる呼吸法があります。


概して、しゃちこばった、よそいきのやり方に終始しがちです。


中途半端な知的理解で行われる方法というのは、不自然で無理なものになりがちです。


本来、ためいきやげっぷ、あくびなど自然発生的な呼吸には独特の心地よさがあります。


その延長で行われる呼吸法こそ、心身に調和したものになるのではないでしょうか。


「リラックスするために」というあり方があります。


目的のために、その過程は無視もしくは見過ごされます。


一方で「リラックスしながら」というあり方があります。


「今」という瞬間を最高のものにするあり方です。


ヨガのポーズもそうですが、知識欲を煽り立てられ、やれ解剖学だ、生理学だと、結局アタマばかり使って気の休まるところを知りません。


アカデミックなものに対する歪んだ憧憬かわかりませんが、それはヨガではなく人間工学でしょう。


単に可動域を拡大することに、どれほどの価値を見出すか。


たしかに疾病の緩和に一定の効果が見込めることは否定しませんが、それにもまして、表面的な動きばかりに焦点を合わせ、目に見えない心の領域や、心身の相関関係を見えづらくさせる弊害の方が大きいのではないかと感じます。


型がサマになって、他に優越せんとする虚栄心を育んでしまう恐れです。


人間、こと現代人の苦しみの根源は、アタマばかりを使ってきたところにあるのではないでしょうか。


意識主導の弊害です。


その反省に立ち、身体の叡智にゆだねるヨガをはじめとした心身を包括した方法論が勃興してきたのでしょう。


呼吸に話を戻しましょう。


酸素を取り入れなければ生理活動が停滞するという知的理解で、吸うことばかりにとらわれる。


もっともっと、と吸い込むばかりでは苦しいでしょう。


「手放すこと」


これが大事であることを身体は教えてくれます。


呼吸しましょう。


もうすでに十分与えられているこの心身に、感謝の気持ちを込めながら。