快食研究
本当に体が必要としているものを食べた時、快感が得られるに違いない。
本当に心が必要としている経験をした時、快感が得られるに違いない。
本来は何が必要で、何が不要で不適であるか、身体は知っているはずです。
気の遠くなるほどの長い時間をかけて、祖先の英知がDNAに織り込まれていると考えるからです。
いわば「快」は神様がくれるOKサイン。
自然の理にかない、生命にとって調和的な行いが苦痛であっては、今まで生き残れなかったことでしょう。
小賢しい浅薄な知識を排したところ、純粋素朴な感性で、何の抵抗も、外連味もなく、フレキシブルでストレスフリーに生きていく。
妄想でも信仰でもなく、人間のあるべき姿だと考えます。
しかしながら現実は、快感に身をゆだねたところで、刹那的な快楽主義に陥り、心身ともに退廃するのが目に見えています。
実際、生活習慣病の増加は放埓な食生活による現代人特有の疾病です。
それでは、いやいやながら、苦虫を噛み潰すように、日々生活しなければならないのでしょうか。
快感の対概念である苦痛。
心身は緊張し、脈が乱れ、呼吸が浅くなっていくあり方。
取りも直さず、早晩、心身を病み、若死するに違いありません。
かといって、快感に身をゆだねることも許されない。
我々現代人はどうすればいいのでしょうか。
「苦痛」と「快感」の間、「痛快」のゾーンを目指す生き方はどうでしょうか。
現実世界では、幸福の裏に不幸があります。
換言すれば、孤独を知るからこそ、愛を知ることができるわけです。
まったき幸福があるとして、そのありがたみを感じることが、我々凡夫にできるでしょうか。
むしろ、酸いも甘いも味わいつくしたところに、本当の幸福感があるのではないかと思います。
つまり、自らを律し、足るを知ることを是とする価値観です。
それを単なる苦痛にしてしまうのは、もはや進化した人間のすることではないでしょう。
見返りを期待するのでもなく、ただそれを嬉々として行う。
そこに「痛快」、すなわち「充実快感」という人間だけが見出せる境涯がたち現れてくるわけです。
伝統文化には礼法や作法がつき物です。
一見すると堅苦しい様式美、形骸化した形式美の中に、いきいきとした合理性が潜んでいることに気づかされます。
きつく締めた帯が、重心と軸を作り、身体の自由度を飛躍的に向上させるように、ただ苦しいだけに感じられたものが、その実、高次の快を内在しているのです。
「文化的である」ことの意義はまさにそこにあるでしょう。
断食、少食、粗食、正食。
今までなら、それを苦痛としていたかもしれません。
発想の転換を経て、それらを痛快・充実快感にするならば、ますます健康に寄与することでしょう。
本当の美食は、もはや無尽蔵に豪華な料理を食べることではありません。
おいしく食べるためには、空腹が前提であるということを経験的に誰でも知っています。
「空腹は最上のソース」といわれるゆえんです。
そして「快食」が「快便」滞りなき排泄、「快眠」深い睡眠「快働」感謝と奉仕、の上にあることを心得て、生活全般を総合的に捉える視野が求められます。
今感じている「おいしい」は本物か。
現代人は育ってきた家庭環境、組み込まれている社会構造によって、本来持っていたセンサーを狂わせてしまっています。
商業主義に偏った情報が氾濫し、粗製乱造を口に運ぶ。
それは個人の責任を超えて社会全体の責任でもあります。
目くらましのような快感に身をゆだねることで、自由が放埓に成り下がり、快感が苦痛になってしまいました。
その極致に我々は立っています。
だからこそ、尊厳を回復するために、自明性を疑い、世間の風潮に流されず、苦痛、快感から痛快(充実快感)へ。
まずは食生活から






