1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>

快食研究

2012-02-19 14:17:28 テーマ:総論

本当に体が必要としているものを食べた時、快感が得られるに違いない。
本当に心が必要としている経験をした時、快感が得られるに違いない。


本来は何が必要で、何が不要で不適であるか、身体は知っているはずです。


気の遠くなるほどの長い時間をかけて、祖先の英知がDNAに織り込まれていると考えるからです。


いわば「快」は神様がくれるOKサイン。


自然の理にかない、生命にとって調和的な行いが苦痛であっては、今まで生き残れなかったことでしょう。


小賢しい浅薄な知識を排したところ、純粋素朴な感性で、何の抵抗も、外連味もなく、フレキシブルでストレスフリーに生きていく。


妄想でも信仰でもなく、人間のあるべき姿だと考えます。


しかしながら現実は、快感に身をゆだねたところで、刹那的な快楽主義に陥り、心身ともに退廃するのが目に見えています。


実際、生活習慣病の増加は放埓な食生活による現代人特有の疾病です。


それでは、いやいやながら、苦虫を噛み潰すように、日々生活しなければならないのでしょうか。


快感の対概念である苦痛。


心身は緊張し、脈が乱れ、呼吸が浅くなっていくあり方。


取りも直さず、早晩、心身を病み、若死するに違いありません。


かといって、快感に身をゆだねることも許されない。


我々現代人はどうすればいいのでしょうか。


「苦痛」と「快感」の間、「痛快」のゾーンを目指す生き方はどうでしょうか。


現実世界では、幸福の裏に不幸があります。


換言すれば、孤独を知るからこそ、愛を知ることができるわけです。


まったき幸福があるとして、そのありがたみを感じることが、我々凡夫にできるでしょうか。


むしろ、酸いも甘いも味わいつくしたところに、本当の幸福感があるのではないかと思います。


つまり、自らを律し、足るを知ることを是とする価値観です。


それを単なる苦痛にしてしまうのは、もはや進化した人間のすることではないでしょう。


見返りを期待するのでもなく、ただそれを嬉々として行う。


そこに「痛快」、すなわち「充実快感」という人間だけが見出せる境涯がたち現れてくるわけです。


伝統文化には礼法や作法がつき物です。


一見すると堅苦しい様式美、形骸化した形式美の中に、いきいきとした合理性が潜んでいることに気づかされます。


きつく締めた帯が、重心と軸を作り、身体の自由度を飛躍的に向上させるように、ただ苦しいだけに感じられたものが、その実、高次の快を内在しているのです。


「文化的である」ことの意義はまさにそこにあるでしょう。


断食、少食、粗食、正食。


今までなら、それを苦痛としていたかもしれません。


発想の転換を経て、それらを痛快・充実快感にするならば、ますます健康に寄与することでしょう。


本当の美食は、もはや無尽蔵に豪華な料理を食べることではありません。


おいしく食べるためには、空腹が前提であるということを経験的に誰でも知っています。


「空腹は最上のソース」といわれるゆえんです。


そして「快食」が「快便」滞りなき排泄、「快眠」深い睡眠「快働」感謝と奉仕、の上にあることを心得て、生活全般を総合的に捉える視野が求められます。


今感じている「おいしい」は本物か。


現代人は育ってきた家庭環境、組み込まれている社会構造によって、本来持っていたセンサーを狂わせてしまっています。


商業主義に偏った情報が氾濫し、粗製乱造を口に運ぶ。


それは個人の責任を超えて社会全体の責任でもあります。


目くらましのような快感に身をゆだねることで、自由が放埓に成り下がり、快感が苦痛になってしまいました。


その極致に我々は立っています。


だからこそ、尊厳を回復するために、自明性を疑い、世間の風潮に流されず、苦痛、快感から痛快(充実快感)へ。


まずは食生活から

なぜ人は食べ過ぎるのか

2012-02-18 15:26:34 テーマ:総論

断食施設を訪れる人は多かれ少なかれ、普段の食生活で「食べ過ぎること」に対して自責の念を感じている人が多いように思います。


「飽食の時代」と言われる現代日本では無理のないことでしょう。

すぐ手を伸ばせば食べられる環境ばかりです。


しかし考えてみれば、こうした食べ物に恵まれている時代というのは、人類の歴史から見れば、ほんのここ数十年だけのきわめて特殊な状態といえます。

人類は圧倒的に飢餓の時代が長かったわけです。

そのトラウマともいうべき影響から、食に対する欲求は切実さと貪欲さをはらんでいます。

つまり、高カロリー高栄養のものほど好み、生きながらえるためにそれを溜め込んでおこうとするのです。


それでも公共交通機関や家電が発達しておらず、なおかつ全身運動を伴う肉体労働が中心であった頃は、相当な運動量によってカロリーを消費し、ある程度バランスは取れていたことでしょう。


ところが機械化による分業、IT化がますます進む昨今、頭脳労働、デスクワークが大半を占めるようになって決定的に運動量が減ってきています。


その結果が生活習慣病の増加に他なりません。


特に糖尿病は先進国はもとより新興国においても飛躍的な増大傾向にあります。

日本においても予備軍も入れれば相当数に登り、低年齢化も著しくなっています。

もはや看過できる状態ではなく、速やかに大規模な対策を講じることが必要になるでしょう。


それは個人の意識改革と生活習慣の改善、さらには社会構造の変革まで視野に入れて行われるべき難題といえますが、人類が持続可能であるために避けては通れぬ課題であると考えます。


これから、宿命的に旺盛な食欲をもつ人間というものを認めた上で、それをいかに超克し、本質的な健康状態を求めていくのか考察していきたいと思います。


そのためにも、まず何をもって「食べ過ぎ」なのか、その定義を明確にしておかなければなりません。


そして、我々が食べ過ぎてしまう理由を生理的のみならず心理的にも考察し、複雑な心を持った人間の行動原理を明らかにし、効果的な対策を立てていきます。


さらに断食が食べ過ぎることに対して、どのような効能や意義があるか、また同時に断食と並行して行うべき方法、または代替する方法も考えていきたいと思います。

身心一如

2012-02-12 14:04:51 テーマ:総論

歴史的にみれば指圧をはじめとした東洋由来の手技療法は「他力化した導引」と言うことができます。


今でこそ解剖学的な観点から、個別の筋肉を対象として施術するという考え方もありますが、本来はやはり呼吸と動作、そしてイメージが加わる導引の要素を受け継いだものでなければならないでしょう。


なぜなら、こったところをとにかくもみほぐす、という方法では根本的な解決を見ないと思うからです。


実際受けた体感としても、こったところへの刺激は痛みを伴い、力を加えるほどに筋肉が損傷するのを感じます。

さらに刺激が長時間に及ぶと、それ以上触らないでほしいという苛立ちさえ感じてきます。


なぜでしょうか。


「こっている」ということが、どういう現象なのかを突き詰めて考えなければ答えは見出せません。


それぞれの立場から血流の問題、冷えの問題、姿勢の問題などに帰結することができるでしょう。


そこから患部である局所への刺激が肯定されるわけです。


もっとも想定した原因に対しては、それぞれ効果的なアプローチをとっていることでしょう。


しかし、思慮深く賢明な方であれば、なぜそこの血流が悪いのか、冷えるのか、姿勢が悪くなるのかという、より根源的な疑問が生じてくるのも無理ありません。


原因と思っていたものが結果に過ぎないのではないか。


そうした仮説を立てても、複合的に絡み合った因縁を解きほぐし、ひとつに特定することは容易ではありません。


とはいえ第一義的に作用しているのは「心の働き」ではないかということが経験的に理解できるものです。


それを気といってもいいと思いますが、仏教でいうところの執着がわかりやすいでしょう。


こだわるから、そこに力みこわばりが生まれるわけです。


気持ちが集まっているところに、さらに刺激を加えたらどうなるか。


さらに強調されて気持ちが集まってコリが助長されても不思議ではありません。


目に見える現象ばかりを追い求めない。


ここにきて東洋医学の英知が活かされます。


晩年、神仙術の研究に傾倒し、指圧とともに体操法の考案を果たして自らの経絡理論の完成を宣言した指圧師増永静人はこのように述べています。


『やりにくい姿勢やスジのツレ、筋肉のコワバリ、不愉快な症状、身体の重い感じなどというのは、東洋医学では「実」といいます。実とはり(ウカンムリ)の家の中に、貫(もの)がいっぱいつまっている、という意味で、このため重く動きが悪いのです。実は瀉すといって、これを写(うつす)→移すことが必要なのです。どうすれば、その実が移って、気の流れがよくなるかといえば「気を変える」ことなのです。よく「気分を変えて」というように全く違った方向に気をもっていくと、気のつまり、こだわりがとれやすいのですが、つい私達は症状のあるところ、気になるところにとらわれて、そこにこだわりやすいのです。気にするな、といわれればいわれるほど、つい意識がそこにいってしまうわけです。』


体操やヨガなどやりにくい動きに出会うことがあります。


いくらやってもうまくいかない。


そんなとき、解剖学的な知識を引っ張り出して解決を図ることもできるでしょう。


しかしそれは人間工学的な発想であって、人体をモノとして扱うことに過ぎないでしょう。


心身の相関性に気づき、自らの悪癖を省み、人生を修正し、本当の心のやすらぎを得るという境涯へ到れる行いこそ、東洋的な英知に基づくヨガの真骨頂と言えましょう。


ヨガをはじめとして東洋的な英知を軽んじ、もしくは無意識に封殺する昨今のいかにもファッショナブルで衒学的な思潮には一定の懸念を表明しておきたいと思うのです。


増永はまたこのように述べています。


『気がつまっているのを気にしている限り、気のつまりはとれないので、その気をどうして抜くかをはっきり示さないと駄目でしょう。気分を変えるには、全く別のことをするのが一番です。だから仕事の後には遊ぶのですが、遊ぶとは「仕事をしない」ことなので、「遊ばなくてはいけない」と思えば、それは遊びでなくなってしまいます。
意識しない、とは意識のない所へ気をもっていくことです。そのない所を「実」に対して「虚」というのです。虚とは見えないもので、手にとれないものです。そこに気がないから、気が移っていけるわけです。どうも最近の東洋医学では、虚実補瀉ということを口にしながら、この虚が本当にわかっていないようです。虚を補う、ところに東洋医学の本質があり、その効果の神秘さもここから生まれます。』


震災を契機として物質主義が瓦解し、より精神性が求められる時代に移り変わろうとしています。


自らの身体をモノとしてみれば単純明快わかりやすいのかもしれませんが、そのために無理をし強引が幅を利かせているのであれば、そのむなしさにも気づくはずです。




Amebaおすすめキーワード

    1 | 2 | 3 | 4 | 5 |最初 次ページ >>
    アメーバに会員登録して、ブログをつくろう! powered by Ameba (アメーバ)|ブログを中心とした登録無料サイト