風は吹いている | Commentarii de AKB Ameba版

Commentarii de AKB Ameba版

AKBとかその周辺とか

words
Tag:地震

 なんだか遠い昔のようだけど、まだ8ヶ月も経っていない。

 2011年3月11日、地震が起こる数時間前、僕は海の上にいた。
 オフィスのテレビで水が町を呑み込むの見た時、ほんの少しの差で、死に神の鎌の刃が僕の首のすぐ前を通り過ぎていったんだということに気づいた。船の上では気配すら感じなかったが。
 テレビに映し出されるあの場所で、自分が津波にさらわれていないのは、本当にただの僥倖でしかなかった。
 
 だから続く数週間の混乱も、不便でいろいろな困難はあったが深刻ではなかった。深刻なことは東北で起きていたし、「Memento mori(死を思え)」という言葉がリアリティをもって迫ってきていたから。

 このブログを書き始めてすぐの頃だった。
 AKBについて考えたことや書きためたことがたくさんあった。一日に二回記事をエントリーしたこともあった。
 新しい恋がはじまったばかりのような熱に浮かれていたんだろう。

 災害はその熱を冷まさなかった。むしろ不便や困難に直面する度に僕は彼女たちの歌を口ずさんだ。
 ガソリンスタンドへの長く動かない列に並んでいる時には、松井Jが涙を浮かべながら歌う「青空のそばにいて」を聞いていた。現場で震えている人たちを思って「会いたかった/僕の太陽」を書いた。
 被災地へは「誰かのために」を聞きながら向かった。ベースキャンプとなった福島の寒いホテルでは、出たばかりのAX2011を見続けた。

 今から思えばある種の防衛機制だったのかもしれない。

 でも一方で、そうすること、すなわち出来るだけ彼と彼女たちに繋がっていることが「正しいこと」であるという、素朴な信仰のようなものも僕にはあった。

 そうすることによって、実利的には様々なアクションが行われ、被災地へのサポートとなるだろうと確信していた。

 秋元康はそういう人だ。
 彼が「善人」だ、と言いたいわけではない。ただ彼は、「やるべき時にやるべきこと」が誰よりもよくわかっている人、ということだ。実際、それはそうなっていった。

 AKBの名の下にたくさんのお金が集められ、送られた。
 多くのメンバーが現地を訪れ、歌声を届けた(高齢化率の高い地域の需要とはやや離れていたかも知れないが)。
 僕ら(あ、勝手に「ら」にしちゃった。ごめん「ら」のみなさん)はそれを心から誇りに思った。

 AKBと繋がっていることが「正しい」と思った理由がもうひとつある。

 うまく伝えられるのかちょっとわからないのだが、そうすることによって、僕は目の前(正確には離れた所だが)で起きている凄惨で残酷な生の現実を、自分の中へ取り込もうとしていたように思う。
 
 3月11日に起きたことは、地面が揺れ、海の水が陸地に押し寄せ、そこにあった人や物を呑み込んで去っていったという事象である。出来事としてはそれだけなのだが、いかんせん人にとってはあまりにも規模が大きすぎた。

 日常からはずれた不規則な出来事に直面したとき、人は混乱する。それが大きければ大きいほど、茫然とし無力になっていく。小さな交通事故でさえ人は「頭が真っ白になって何も覚えていません」と言う。いわんやあの「出来事」をや。

 眼前に広がる「出来事」を「震災」と名付け、「悲劇」と呼び、心を侵犯する感情に「悲しみ」のタグをつけることによって、ようやく人は「それ」と対峙できるようになる。

 世界は僕らがそのまままるごと呑み込むには大きすぎる。

 何とかしてそれを切り分け、噛みしめ、苦みに耐えて呑み込まなければならない。そうやって世界を自らの中に回収することによってのみ、人は圧倒的な世界に立ち向かえるようになる。

 だからそこにはどうしても「言葉」そして「歌」が必要だった。

 それが言葉や歌の使命なのだ。

 3月11日、その時僕の目の前にあったのが、たまたま彼の言葉であり、彼女たちの歌だったというわけだ。もちろんそれは偶然であり、他の何かでもよかった(「偶然の仕業」のような「どんな普通の出来事にも意味がある」んでしたっけね、秋元先生。ひょっとして先生ってユング派?)。
 
 でも結果としてその時目の前にあったのが AKBであったことを僕は喜んでいます。
 
 震災の直後に、AKBは「誰かのために」を初動のキャンペーンソングに選んだ。

 僕も最初に思い出した歌だ。
 君でも僕でもない「誰か」。会ったこともなくそれが誰なのかはわからないが、確実にそこにいて、助けを必要としている見知らぬ「誰かのために」。
 
 会ったこともない「誰か」のために、人は時に命すらかけることがある。その尊く愚かではかない営みこそ人を人たらしめている本性なのだろう。
 震災直後の「歌」としてこれほどふさわしいものはなかった。

 歌っている彼女たちは、背負っているものの重さに気づいてはいなかったろう。
 それでいいのだ。彼女たちはヴェクター、運び手でいい。その重荷を受け取り担うのは、もう少し歳を重ねた大人の仕事なのだから。
 重荷は確かに受け継がれた。

 「誰かのために」は、声が届くまで歌い続けることを約束して終わる。
 そしてその約束は果たされた。被災地以外に住む多くの人が、痛みを忘れた頃に。
 風は吹き続けなければならない。