昨日11月16日、月曜日、友達に誘われて山間の田んぼの土手になってる渋柿を取りに行ってきた。
木は何本もあってどれも鈴なりだ。だけど数が沢山なっているということは当然実の大きさは小さいということだ。木の持ち主はちゃんと居られるのだが、老齢化が進んで獲る人もなく放っとらかしの木々である。
高枝鋏を使うが、それでも届かない部分に結構大ぶりの実がなっているので、それを目指してよじ登る。
柿の枝は折れやすいので友だちはやめろというが、やはり小さいより大きい方がいいに決まってる。
なんとか墜落せず獲り終わった。4人で行って収穫数はおよそ1500個。びっくりだ。
干し柿にするわけだが、皮をむくのは結構面倒だし、ましてや小さければ尚更だ。1か月ぐらい干して
食べられる頃にはほんとに小さくなってる。種が8個も入ってれば食べるとこなんてほんの僅か。
柿なんか、この頃はスーパーに行けばすごい立派なものがほんとに安価で売っている。だけど干し柿になったものは結構高価だよ。手間が掛かるからね。
私は前に書いたが75の爺さん、友達連中も75歳と78歳だ。畦道を1500個運び出すのはしんどかった。何でこんなしんどいことしなきゃいけないの。売り物にする積りは毛頭ない。現状のまま近所の人たちにばら撒くか、友達の1人は干し柿にしてからばら撒くという。
都会で育った年寄連中は、若者と違って「柿が好き」という人が結構多いのだが、これには訳がある。
要するに70年前の敗戦後の食糧難、子供時代にひどいひもじさを味わっている。私もその一人。
実のなる木があれば、それがグミであっても、持ち主のいないとき、ひよどりのように獲りに行ったものだ。だから食べ物は大切にするし、少々消費期限が過ぎたからと言って捨てたりはしないのだ。
で、このトラウマとも言える経験をを背負った方々に喜んでもらいたくて配るんです。
老人になって社会のお荷物にならないよう、いや、必ずなるんですが少しでも先に延ばして今のうちに
他人のために尽くしておきたいと思うんです。現役時代は自分の生活だけで精いっぱい。
他人のことなど考えたことも無かった。だからこの年寄になって他人のことを考えるられるのは本当に
幸せだとつくづく思うわけです。体力の続く限り頑張ります。 おわり