田鎖綱紀に始まる複画派速記の「連綴母音」に思う
…「加点母音」から「連綴母音」へ
以下は、親交のある速記愛好研究家の方とやりとりさせていただいたメールでの内容をもとに、多少の加筆修正をしたものです。多少マニアックな内容ではありますが、日本語速記幕開け時代に思いを馳せた内容となっています。
田鎖綱紀の速記符号も、第一回の講習会開始当初は「加点母音」であり、途中から「連綴母音」へと移っていく。
そしてさらに、この連綴母音符を「母音直前子音符の末尾あたりまで戻す(結ぶ)」という方法にやっと行き着く。
この方法を得たことが実用化への本当の出発点だったのかもしれない。
日本語の場合、加点母音では話にならない。
判読のために書くのが速記の第一義だから、「連綴母音」といっても、結ばないままではヘンテコリンな接続箇所が多く、実用の道具にはなり得ない。
「加点母音」の場合、ある語を構成するアウトラインとなるところの子音符を一綴りで書き、その後であちこちに母音符たる加点や短線を付す。
「クモ」の場合「KM」に相当する符号を書いた後、「U、O」に相当する母音符を離筆して付す。
これは煩わしい。
ところが、「連綴母音」で楕円状に結ぶ方法ならば、KとMの連結部分、つまりKの末尾の所まで、一旦休憩するがごとく、筆勢の何かしらをリセットするかのごとく、それも離筆せずに一筆で書けてしまうわけである。
「この方法はいいぞ・・・、それにまた、楕円の袋のように結ばれた母音符部分が視認性の向上にもなっているとも言えそうじゃないか・・・」等々、ある時、誰かに啓示が降りるようにしてこの方法が登場したのか?
「この方法、もしや、もしかしたら、田鎖綱紀の弟子の若林玵蔵のアイデアだったのでは?」などともふと思う。
「師」と「弟子」の「弟子」であるという部分、これはほぼ絶対視されたような時代のこと。
真実は当人のみぞ知る・・・で。
さて、6カ月にわたる第一回の日本傍聴筆記法講習会を終了、その前後が凄く興味深い!
田鎖綱紀より習った若林玵蔵は、講習会開催途中のある時点で既に、実技面では師を超えていたのではないだろうか?
そして講習会を終えて、書くには書けるようになったけれども、まだ確たる自信などなかったであろう。
しかしながら、「郵便報知」の「自由新聞」に対する談判を速記したのが1883年7月9日と、講習会終了後からちょうど2カ月ほどしか経っていない。
この2カ月ほどの間、どれほどの練習を?
タイムマシンがあるならば、ここの所が実は一番見たい部分でもある。
「こいつら、本気だぞ !」と周りから思われるようなハイライトの期間!
そして「経国美談」の速記も講習会終了時から6カ月ほど経つか経たないかあたりの時点だ。
けれども「経国美談」での速記符号、実に実際的で美しいのだ。
さらには「怪談牡丹灯籠」での速記符号、こちらは「経国美談」のものから半年ちょっと後あたりだが、これまた堂々とした筆運びで、非常に興味深い。
往時の海外にあっても同様、例えばピットマン式系統のグラハム式のテキストを見ても、まとめあげ方といい、書かれた符号の美しさといい、それを書いた者の集中力を感じさせられる点といい、正解を導き出すパターンを踏んでいる感じがするのだ。
田鎖綱紀しかり、若林玵蔵しかり、林茂淳しかりで、正解を導き出すだけの努力、研鑚を地で行くような彼らではなかったか。
そしてすべてを支えるところの精神性、感性といった点にあっても、しっかりとした背景を携えていた彼らではなかったか。
.