破壊のための安売りは誰を幸せにするのか? =ある「投資したくない会社」について思ったこと= | Market Cafe Revival (Since 1998)

Market Cafe Revival (Since 1998)

四つの単語でできた言葉の中で、最も高くつくものは「今度ばかりは違う」である(This time is different.)。

☆ 適正利潤ということについて考えを巡らせている。昨晩,録りだめしていたNHK「プロフェッショナル~仕事の流儀~」で築地の仲卸の人の話を見ていてハッとなったことがある。産地にかかわらず良いマグロにはそれに相応しい値を付けるのだと。そうしないと漁獲のコストに対して収益がついてこないことになり,漁場が荒れてしまうという。産地に適正な利潤を戻すことで産地を守っていくのだという意味のことだった。ハッと思った理由は,デフレ経済下で日本の小売の現場が荒れてしまった,あるいは製造業の下請け現場が荒れてしまった,もっと言えば非正規雇用の現場が荒れてしまった,これらの原因はここにあるのではないかと感じたからだ。


☆ 資本主義は基本的に拡大再生産をめぐる競争の中に成長の原動力を秘めている。だから資本(主義)の急激な発展はしばしば過当競争を生み出し,社会主義の発端となった労働搾取や経済法制のきっかけとなった独占・寡占を生み出してきた。国家資本主義ともいえる形態が帝国主義であり,最終的には世界大戦によって二度までも生産資本(人・物・金・設備)の大量消費と犠牲の山を作る結果となった。修正資本主義はそうした資本主義の基本的な性格である膨張に合理的な歯止めをかけることに主眼を置き,自由貿易と非軍事拡張を原則とした。その恩恵を最大限に享受した国が本邦である。


☆ しかし修正資本主義もまたひとつの壁にぶつかることになる。資本主義の拡大の原動力は「生産者=消費者」というマス・プロダクツ(大量生産=大量消費)にある。それは次第に産業のサービス化(第三次産業化,あるいはトフラーのいう「プロシューマー」の誕生)とITの発展(NECの小林氏が提唱し関本氏が継承したC&C)によって新たな成長の糧を得ることになる。


☆ そこでは消費者は単なる労働者ではなく「消費の主役」として生産者(もはや個々の労働者ではなく,メーカーや小売業者のような「企業」を意味する)と向き合う姿になる。そうした転換の中,価格破壊と呼ばれる運動が起こる。生産者側が一方的に決める「価格」の主導権をより消費者側に近い小売業者が奪い取ろうとするものだ。これは初期の厳しい対立の後,長い時間をかけて小売業者が主権を奪い取っていくことになる。その方向性は正しいもののように思えた。


☆ しかし資本主義の性格上,顧客満足や価格破壊は必ず行き過ぎを招く。その結果,顧客の仮面をかぶったクレイマーから過当競争を助長する不当表示,生産地偽装,名ばかり管理職とあらゆる「現場」が疲弊していくことになる。一方で長年「安定配当」の名の下に「所有」から丁寧に排除されていた「株主(特に年金等の機関投資家)」が本来の主権に目覚めた結果,経営に対して厳しい要求を突きつけるようになる。一部の「ファンド」などの「プロ株主」は正当性を持ちながらも明らかに無謀な要求を経営者に突きつけ,企業のマネジメント自体を疲弊に追い込んでいる(無能なマネジメントに責任の一端があるのは承知の上で指摘しておく)。これらの結果が複合し,誰も幸せにならない構造が蔓延し始めた。


☆ 数字よりも大切なものがある。それはモラールでありモチベイションではないか?過労自殺などを招く職場にどんな意義があるのだろうか?いつ雇い止めになるか判らない職場に人生の意義があるのだろうか?コンペティターを疲弊させ廃業に追い込み,製造者を疲弊させ,職場を疲弊させ,株主に業績の絶えざる向上を信じ込ませて,その数字が自己目的化していったのは,どこの国のどの企業だろうか?そんな企業に「成長力」や「勝ち組」の名の下に本当に投資してよいのだろうか?ワシには信じられない。また投資したくもない。あえて企業の名前は書かない(誹謗中傷になるし,その企業に勤めていて真っ当な人はたくさんいるだろうから,それらの人々まで悪し様には言いたくないから)。しかしワシは適正利潤を囲い込んで株主だけ満足させていれば何をやっても許されるという姿勢は嫌いだとだけは言っておく。