成文法万能主義にそぐわない村上世彰被告への二審判決(所感) | Market Cafe Revival (Since 1998)

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四つの単語でできた言葉の中で、最も高くつくものは「今度ばかりは違う」である(This time is different.)。

(本文中敬称略)


☆ 村上世彰のインサイダー事件で東京高裁が下した判断は,ワシには妥当なものと思われる。村上の行為は「当時の法律ではグレーゾーンだった」と本人が抗弁(ワシには「詭弁」としか映らないが)しても,間違いなくインサイダー取引であり,市場の一般投資家に対する裏切り行為であるという点で,上村達男(早大教授)と意見(日本経済新聞第44196号3面掲載)の相違はない。敢えて上村とワシの考え方の違いを挙げるとすれば,市場を神聖なものと捉え「異端」はすべからく排除すべしというのが上村理論であり,ワシは市場は世俗の象徴と捉え,そこで起こる間違いや不備,そしてそれにつけ込む犯罪者や守銭奴との戦いは,判例法的な蓄積をもって鍛え上げていくしかないと考えている点にある。


☆ 全ての法曹が意識しているように,成文法は万能の物ではない。成文法に不備があるからこそ,行政に裁量の余地があり,行政官の権威の根源となっていた。しかし行政指導による恣意的な「市場支配」は市場参加者が限られている往時ならともかく,「貯蓄から投資へ」とか「日本版ビッグバン」とか題目ばかり高く掲げて,基本的なフィナンシャル・リテラシーすら教えてこなかったこの国のマーケットに多数の「無知な(残念ながら「事実」である)一般投資家」を誘い込もうとしている状況で,上村的な「完璧な成文法支配」など絵空事に過ぎない。「公正な市場を守りたい」という同じ思いを抱いている点でワシは上村の首尾一貫した姿勢には頭を垂れる思いがある。しかし,それが決して市場のエラーを許さない「権威的な押しつけ」に堕して,結果として市場を収縮させてしまう(第一審の判決で裁判官は村上の姿勢に「戦慄を覚えた」と批判した。「物言う株主」の仮面の下,結果として個人投資家を悪し様に踏みにじった村上の行為に対する「彼の思い」は理解できる。しかし,少なくとも裁判官が判決文の中で用いる言葉ではない。こうした権威主義的支配は,悪たれ小僧の巣窟である「市場」の敵でもあることをワシは知っているのだ)。


☆ 大小取り混ぜての詐欺師全盛時代である今,経済犯罪は村上のようなインサイダーから,昨日の犯罪株屋のような高等(口頭)テクニックを駆使した仕組み債スキーム型まで,さまざまな類型が生まれ,増殖しているが,これに成文法による一律な網掛けは残念ながら非常に難しい。狡賢いあいつらは常に「法の抜け穴」を探している。それは名の通り「セキュリティ・ホール」であるから,法曹の立場からは判例法的な積み上げによって対応せざるを得ない。従って昨日の日証協のように業界団体による「業界の内部統制」やフィナンシャル・リテラシーの教育を進めることなど,そういう犯罪を許さない環境を作っていく努力も必要である。そこで法曹(特に裁判所)は主体的な活動をする必要はないけれど,検察や弁護士団体はこうした環境作りにもう少し主体的に助力すべきであろうと思う。


☆ 最後に村上に言いたいことがある。


(それが犯罪であるか否かを置いて)

潔くその行動の非を認め,市場を殺(あや)めた罪に服し,己を悔い改めよと。