『2011/04/03(日) 見えないリスク』にて、ドキュメンタリー映画『100000万年後の安全』を観るために某アクション関係のかたと待ち合わせて渋谷の某小劇場へ行ったのですが......。

東京電力福島第一原子力発電所事故が起こってからまだ半月あまりしか経っておらず、時期が時期だけに他にも観客が結構来ていたため、整理券の入手自体ができませんでした。

で、本命の『100000万年後の安全』はまた後日にしようかと思い、この日は同じ劇場で上映されていたドキュメンタリー映画『六ヶ所村ラプソディー』を観ることに。

『六ヶ所村ラプソディー』は、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場を背景に、六ヶ所村や隣接する村々の人々の生活に迫るドキュメンタリー映画で、映画が完成したのは5年前の2006年。

原発燃料からプルトニウムを取り出す再処理工場の周辺で暮らす六ヶ所村の人々の葛藤にスポットを当てたドキュメンタリーで、無農薬野菜を作る農家、職を失った漁師など、さまざまな事情を抱える村民たちが強大な権力と向き合う姿を克明に捉えています。

タイトルには「ラプソディー=狂詩曲」と付いていますが、青森県六ケ所村の美しい風景と共に映し出されるのは、一人一人が自らの事情と向き合って生きる姿。
再処理工場建設に賛成する者、反対する者、中立の立場を選ぶ者、賛否はともかく生活のためにそれを受け入れる者、村の発展のために良かれと思い推進する者......
さまざまな立場のさまざまな思いが、淡々と、静かに映し出されます。



監督・鎌仲ひとみさんの作風は、過剰なメッセージ性や扇動性などではなく「自分自身の頭で考えるための材料を、静かに提示してくる」スタイルです。
現在の日本人の大半ができなくなっている「自分自身の頭で考え、自分の行動を選ぶこと」。
その「本質的な意味での思考力」を取り戻すためのレッスンのひとつだと言えるでしょう。

核燃料再処理工場が村に導入されることによって、推進賛成反対のイデオロギーの違いによって対立が生まれていく六ヶ所村。
これは六ヶ所村だけではなく、きっとどんなところにも当てはまるのでしょう。
利権構造に直接絡め取られておぼれていく人間の姿ではなく、再処理工場が稼働することにより「みずからの生活が望むと望まざるとにかかわらず否応なく変化していく」人々の事情・戸惑い・本音......人間の政治性に焦点が当たることを通して、放射能・核燃料開発の恐ろしさが静かに画面に立ち上ります。

自分達の暮らしの中に、自分達の暮らしひいては自分達の生命自身をも脅かすかもしれないものが、自分達の力の及ばないものによって投入されてしまう。
人工的な核燃料開発から生じた電離性放射性物質は安全ではないということを認識していたにも関わらず、自分の生活の中でそれが見えていなかったのをいいことにちゃんとした関心を持っていなかった自分に恥じ入り、猛省せずにはいられなくなりました。

六ヶ所村の豊かな自然に育まれた真っ赤に熟れたトマトを、あふれる陽射しの中で子供たちが頬張るシーンを見ていると、その子供たちに対して「ごめんなさい」と心の中でつぶやいている自分がいました。
もしもいったん事故が起こってしまえば、この子供たちの生活は当然奪われてしまう。
そして日本の国土面積ならばかなりの割合の地域も当然巻き込まれざるを得ない。
もちろん、私だってそこから例外であるはずがなく。


『2011/03/31(木) 重い現実、忘れてはならない歴史』
にて、肥田先生は「(東電福一原発事故由来の放射性物質は)最低でも200キロの範囲まで(被害が)及ぶ可能性がある」と言及しておられましたが、この200kmというのはあくまでも「最低でも」という見積もり。それ以上に広がる可能性だってもちろん存在するのです。
福島だけの問題であるはずがないのです。
放射能には、県境も国境も関係ないのだから。
これは、日本全土が突き付けられた問題なのだから。

肥田先生のおっしゃられた「200km」は、ちょうど福一原発プラントから東京東部までの距離。
私が住んでいるところならば約240km。
正直に「怖い」と感じる。
「自分だけが災難に巻き込まれない」という考えが如何に甘いものか、自分が大災害で深刻な被災をせずに生きてこられたのは「当然なんかじゃない。その点に関しては運が良かったのだ」と、少なくとも本音で感じることができる。

この世の中には、放射能の他にも人間が作り出して環境に放出した有害な物質もいっぱいあり、もちろんそれらも決して軽視できないものなのだけど。
放射能というものが人間と、すべての生物と、この世界に及ぼす問題が、私の心をわしづかみにし、自分自身が捕まってしまい捉えられた気がしました。

もっとちゃんと知らなきゃいけない。
今まで起こってきた本当のことと、これから起こるであろう本当のことを、どうしても知らなければいけないと痛感したのです。

だから。



とりあえず近いうちに、やはり『100000万年後の安全』は観なくっちゃな、という気持ちで劇場を後にしました。
映画一本観た程度とか、ニュースでちょっと聞きかじったくらいで「何が起こっているのか」をちゃんと理解するのは到底無理だと判断したから。
他の人がどう判断するか、ではなく私自身が私自身の意思で判断するために、もっと調べていかないと......。
そんな風に、強く強く感じたから。


ラスト間際のシーンでの、自らを「核燃心配派」と称する苫米地ヤス子さんと鎌仲監督のセリフが心に突き刺さります。

苫米地「なんで私がね、中立から心配派に変わったかっていうと、ある先生がね、私たちに放射能の怖さを教えてくれた人なんだけど、よく考えてみて、中立っていうのはね、いい言葉なんだけど、核燃に関してはね、賛成か反対かしかないんだよ、って。
だって、反対って言わないし、行動もしないし、うん、な~んにもしないでしょう、って。
原燃(日本原燃)がやってることを、ただただ見てるだけだっきゃ。見てるってことは容認してる、ってことで賛成派なんだよ、って」

鎌仲「中立は楽だよね」

苫米地「楽だよね、だって賛成してないと思っているから、自分の心自分で自分をね、そうなのよ。
でもその中立の怖さみたいなのを誰も、考えないの深くね」



「理不尽に対して沈黙を守ることは、その理不尽に自らも加担することだ」
という言葉が思い出されるやり取りです。
今まで自分は、いったいどれだけたくさんの理不尽に加担する沈黙を続けてきたのか......
沈黙を破るのが非常に難しいこの国で、私はどれだけその理不尽さに加担し続けてきたのか......
いくら猛省し、償おうとしても償いきれないほどであるような気がします......



あ、ちなみに。
このドキュメンタリーの中に登場する推進派のかたで、一生懸命安全を強調されてるかたがいらっしゃいましたが......。
本気で「安全」と信じ込んでいる雰囲気がします。
これって、たぶん相当に念の入った「安全教育」を受けたのではないかと個人的には推測しています。
だって、「100%の安全」ってこの世にそもそも存在しないのではなかったっけか?と思ったりするんですが......。
(;^ω^)ウーン


※旧ログ「Qingxiangの日々的話話は」コチラ↓(過去ログ1512件!)
http://plaza.rakuten.co.jp/dawuyan/


六ヶ所村ラプソディー [DVD]
紀伊國屋書店 (2008-10-25)
売り上げランキング: 1522