聖戦再び | サイクルワークスTTのブログ

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プーさん店長がやっている街の自転車屋さんです。



 夜明け前、午前4時30分。


 俺はいつもの様に寝ぼけた頭で重い身体を動かし、ロードバイクを家から持ち出す。


 気温は10℃ぐらいだろうか、そろそろ自転車乗りには厳しい季節になってきたな。


 そんな事をぼんやり考えながらシューズを履く。


 ヘルメットを被りグローブを嵌め、バイクに跨りライトのスイッチを入れる。


 それと共に俺の心にも僅かに火が灯るのを感じる。


 クリートをペダルに滑り込ませると、乾いた金属音がまだ真夜中の静けさを保っている住宅街に響き渡る。


 さあトレーニングの開始だ、右足に力を込め、深夜の暗さのままの街道へ走り出す。



 街灯に照らされながら街中を抜け、いつものトレーニングコースである海岸線へと進んでいく。


 時間の経過と共に身体も温まり順調に足も回転し始める。


 愛車FukayaIndustry社製NobrandCr-Mobikeはいつものように俺のパワーを過不足なく受け止めしなやかにBB周りをウィップさせ推進力に変換してくれる。


 今日の調子はまずまずのようだ。


 海岸線に出ると進路を西に向けUSA方面へと向かう。


 その先に待っているのは地元でも屈指の難コースSideWaveだ。


 幾多の女子供の涙を飲み込んできた強敵との戦いに向け大きく息を吸いペダルを踏み込む。


 その時身体に僅かな違和感を感じた様に思えたが、俺はそれを無視してSideWave目指してバイクを走らせた。


 USAのダウンタウンを抜けUSAbigbridgeを越えるとSideWave最初の難関である超級山岳「ドラゴンヒル」が見えてくる。


 ここは上り始めから20%を越える恐ろしい上りだ。


 近づいてくる奴に猛る心を抑えながら急坂に備え、シマノ社製ST-2400-8s-通称クラリス-のデュアルコントロールレバーを操作しチェーンをローギヤに叩き込みながらこの難敵に突入して行く。


 そして俺はドラゴンヒルのまるで壁のような坂を相手にひたすらフルパワーでペダルを踏み込む。


 シマノ社製クランクFC-2450はそんな俺の強烈な踏み込みに、軋み音ひとつ出さずBBにトルクを伝える。そしてそれに応えるようにチェーンを介して34×32のギヤが唸りを上げ、Vittoria zaffiroが路面を噛み猛スピードでドラゴンヒルを駆け上がる。


 今日は久し振りにベストタイムが出そうだ、そう思いながら快調に上っていく。


 しかしそれと同時に先程からの違和感が下腹部を中心に大きくなっていくのを感じ始めていた。


 俺の中の何かが出口を求めて蠢き始めている。


 くそ、この調子の良い時に。


 しかし決断の時は迫っている、ここでの数分の判断の遅れが大惨事を招きかねない。俺の過去の経験が大きなアラート音と共に脳内で語りかける。


 僅かな逡巡の後、俺はドラゴンヒルを駆け下り始めた――



 ドラゴンヒルの麓には公衆トイレが設置されている、しかし俺はこのトイレを横目に猛スピードで通過する、なぜならまだ夜明け前、暗くて怖いからだ。


 USAのダウンタウンにはコンビニエンスストアが数件ある、ここに入る選択肢も考えられるが、少しでもそれは避けたい。なぜなら今日に限って小銭を忘れてきてしまっているからだ。この人気の少ない時間帯だ、店員の冷たい視線を考えると、できうることなら何も買わずトイレだけを拝借するのは避けたい。


 まだ少しは猶予があるようだ、下腹部と相談し俺はコンビニエンスストアもそのまま通過した。


 USAの外れにはホエールパークがある、そこにもトイレが設置されている、しかし俺はこのトイレを横目に猛スピードで通過する、なぜならまだ夜明け前、暗くて怖いからだ。


 自宅まであと10km、時間にすると約20分、ギリギリの勝負が始まった。


 下腹部から感じられる圧力が波のように押し寄せては去って行く。


 なんだか浜田省吾の歌のようだ、圧力に耐えながらそんな事を考える。


 自宅まであと5km、波の間隔は徐々に狭まっていく、まるで陣痛を思わせる。生みの苦しみとはこの事か。


 否、この苦しみは新しい命の誕生などでは断じてない、今この俺の下腹部で暴れ、門をこじ開けようとしているモノは毎日俺の体内から排出されるべき運命を持った廃棄物なのだから。


 廃棄物風情に俺のプライドを汚されてたまるものか。


 そう思いながらも頭の中ではヤツに屈してしまった過去が蘇る。


 忘れようとしても忘れられない、記憶に深く刻み込まれているあの忌まわしい過去。


 だが忘れようとしていたのが間違いだったのかもしれない、そう今こそあの封印しておきたかった過去と対峙する時が来たのだ。


 思い出せ、あの汚辱にまみれた日の事を。


 思い出せ、あの人としての尊厳を全て失った時の事を。


 そう強く言い聞かせ、俺はともすれば圧力に屈しそうになる肛門括約筋を強く締め上げ、暗闇の中を疾走する。


 残り2km、時間にすると数分。


 しかし俺の我慢も限界に達しようとしていた。


 そこへ緑色の輝きを放ちながら、まるでオアシスのような誘惑を伴って現れたのは、自宅までの道程で最後にあるコンビニエンスストアだ。仕方ないがここが妥協点か――敗北感と安堵がないまぜになった感情の中俺はそのコンビニエンスストアの敷地内へと入って行った。


 店前にバイクを立てかけ、ヘルメットを外すのももどかしく店内に入ろうとした瞬間俺の目に飛び込んで来たものは、絶望と書かれた札と同じ意味を持つものであった。


 そのコンビニエンスストアのレジに立っていたのは20代前半と思しき女性店員だった。


 しかも結構俺好みの清楚な感じを持った女子だ。


 数瞬その端正な顔立ちに見とれながらも俺の灰色の脳細胞はフル回転する、何故だ、なぜ深夜帯勤務にこんな女の子がいるのだ、しかしそういえば時刻は6時を過ぎている、だからなのか。もう一人の店員は男だ、同じく20代だろう、エイの裏側の様な間抜けな顔をしていやがる、そんな顔なのにこんな可愛い子と働けて羨ましいぞ、いや今はそんな事を考えている場合ではない、入るのか入らないのか。だが仮にここに入って用を済ませた後あの子はこう思うに違いない「あの変なピチピチの服着た太ったおじさん、トイレ入ったはいいけどえらい音で大の方だけして何にも買わずに出ていくなんて最悪、アタシの言った”いらっしゃいませ”返してもらいたいわ」おお、5分後の彼女の心の声が聞こえるぞ。なんとなればエイの裏側店員と俺の悪口を言い合うに違いない。


 俺はそのコンビニエンスストアの敷地を飛び出した、絶望の中緩みかけた括約筋をもう一度締め上げながら。


 自宅に辿り着いた俺はバイクを放り投げる様に片付けアパートの二階にある玄関へと向かう、鍵を出そうとした俺は焦るあまりバックポケットからその鍵を出し損ね落としてしまう。しかもあろうことかその鍵は階段下へ落下してしまった。ここの鍵は変形のカードキーなので転がってしまったのだ。呪詛の言葉を吐き散らしながら、内股で鍵を探しに行く。俺はなんとか鍵を拾い上げ、階段を弱ったカマキリの様な姿勢で這い上がり玄関を開ける、そしてシューズを壊れんばかりの勢いで脱ぎ捨て、ヘルメットを被ったままトイレに駆け込む――



 何とか今日の戦いには勝利する事ができた。


 だがまた近い将来、第2第3の敵が現れるに違いない、それは明日かもしれないし1年後かもしれない。その時今日のような輝かしい勝利を収める事ができる保証はどこにもないのだ。


 しかし今日のところはこの勝利を嚙みしめよう、そしてしばらくは続くであろう安寧の日々を享受し次の戦いに備えよう、それが正に戦士の休息というものなのだから。


 そう思いを馳せながら俺は便座の蓋をそっと閉じた。


                                                        (了)