映画レビュー『おとなのけんか』 3月28日鑑賞 | ゆるされざるもの

ゆるされざるもの

須磨の海と空・365日

 彼岸も過ぎたというのに、その後もしばらく寒い日が続いていた。それがこの日、少しゆるんだ。会社の近くでは、朝つぼみだった白木蓮が、夕方に開いた。開放された気分になって、9時20分からのレイトショーを元町に観に行こうかと思い立つ。仕事帰りに暗室に寄っていたが、ちょうど現像液が切れたこともあり、渡りに船と作業を早めに切り上げた。
 元町駅から大丸に至る歩道、ここでもちょうど白木蓮が開いたところらしかった。この花は、開き初めて2-3日が特別な花付きなのだ。清廉な白い花の下で、ふわふわ漂う。一週間ほど前の春分の日に、それまで毎日休み無く続けていた早朝の日課を終えていた。この日は暖かくなったこともあって、夜がとても楽。それまでこんな時間に、積極的に映画を観に行くことなどなかった。どうしても見逃せないと思ったものを無理して観に行ったことはあったが、やせ我慢してまで行くのはどうか。気分の良い日に行くのでなければとあらためて思う。レイトショーの安い料金設定、テンポのよい短めの映画、平日、週の真ん中であるにも、負担を背負う重苦しさを感じない。
 時間10分前に着くと、ひさしぶりのシネ・リーブルでは、来週から火曜のレディースデイがなくなることを告げていた。代わりに水曜日に男女関係のないサービスデーを設けるのだという。記念すべき時代の変わり目のように思われた。男だって、収入の少ない者もいる。特別な日が女性のためだけに用意されていたことは、それまでずっと不満だった。その垣根が取り払われる。気持ちを分かち合えるかと、「へー、男女関係なく割引されるんですね」と男性の受付に話しかけると、「火曜日のレディースデーが廃止されまして・・・、会員様におかれましては・・・云々」用意された型通りの説明が帰ってきて、ちょっと肩透かし。小さめの劇場にはいると、観客は5人。遅れて入ってきた人を含めて7人。顔も覚えられそうなほどの人数。こんな時間のマイナーな映画に集まった、見知らぬ人同士なのに仲間意識。 


 前置きが長くなった。さて。

 

 インターネットでの映画の紹介もろくに読まず、短めの会話劇、それもヨーロッパの方の映画だという情報のみを仕入れて来ていた。オープニングは、固定されたカメラからの公園の映像。浮かび上がるロゴが英語で、アメリカが舞台なのかと気づいておやっとなる。CASTの名前に、ジョディー・フォスターやケイト・ウィンスレットの名を見つけて驚く。予算のかかってなさそうな映画らしいのに、そんな名の知れた俳優が出ているとは。ちょっと得した気分。期待も高まる。同時に画面の片隅では、子どもたち数人が活発に動くでもなく、集まって硬直している。そこから二人が中央に歩み出し、一人が手に持った棒を振り抜く。怪我をした少年を、仲間達がいたわる。一人が抗議しようと棒をふるった少年に詰め寄るが、棒で脅されて退く。加害者の少年は一人、立ち去る。遠目に、会話も聞こえなければ、ナレーションなどの説明も一切無い。
 画面は切り替わって、本編。マンションの一室が映し出される。登場するのは二組の夫婦。どうやらケンカをした二人の少年の両親のようだ。棒で殴られた少年が、歯を折る怪我をして、親同士の話し合いということらしい。話し合いは穏当に理性的に進んでいるようであった。しかしどうにも妙なのは、よりにこやかに折り目正しく、そのような空気を演出しようとしているのは、被害者側のカップルなのである。金物の卸売業者の夫とコンゴで起こった虐殺についての著作があるらしいインテリの妻。一方の弁護士と投資ブローカーのパワーカップルの方は、妻の側こそいくらか気を遣っているものの、夫の態度がどこか部外者のように冷めていて、不穏な空気を発している。この映画はその後、このマンションの一住居内を舞台に、4人の登場人物の会話が延々と続くことになる。
 話が進むにつれ、問題は解決するどころか、どんどんとこじれて紛糾する。4人はそれぞれの仕方で炸裂し、どこにも落としどころを見つけられないままエンディングを迎えることになる。しかしそれとは逆行するように、なぜか観ているこちらは肩の力が抜けて、気分も軽く、破綻を迎えたラストには爽快感すら覚えてしまう。
 なぜか。・・・一つ一つを取り上げて分析すると、映画が死んでしまうような気がするが、少し考えてみたことを。本音を隠し、取り繕って、型通りに進めようとする人々の有り様には、どこか無理がある。そこは痛ましく感じられると同時に、「思惑を隠したまま思惑通りに事を進めたい」「偏見を隠したまま偏見を押し通したい」という我が漏れだせば、その毒気に当てられれば観ている側は息苦しさを覚える。もちろん、隠され、押し殺されている内は、その思惑が何であるのかも、偏見の正体もおぼろげだ。だからこそ裂け目から混沌が吹き出し、顕わになったところにカタルシスがある。風通しの良さがあり、ある種の自由がある。ラストの方で「私たち何でまだこの部屋にいるの」とケイトウィンスレット扮するパワーカップルの妻の台詞があるが、互いにいがみ合いながら、彼らも解放されていった。なりふり構わない表出にある種の居心地の良さを味わって、離れがたかったのではないか。
 とはいえこの映画の本質は、そのような見通された結論にではなく、過程の細かい会話の端々にある。むき出しになってゆく本音に混じる幼稚な偏見、無理に折り目正しく繕おうとし翻弄される滑稽な様は、大人だからこそ味わえる。しかしこのような機微が、文化や言葉の違いも越えているということに意外な気もしたのだった。どんなスペクタクルな映像もないけれども、大人なあの人に、お勧めしたい気になった小品。