皆様方、新年明けましておめでとうございます。
今年の年末年始は、1月からスタートする新しい仕事のことでほぼ頭が満杯状態。
正月気分にはまったく浸れませんでしたが、それでも普段よりは睡眠時間も取れて、多少はリフレッシュすることができました。
心機一転、頑張りたいと思いますので、本年もどうぞよろしくお願いします。

さて、スポーツ報知に、ちょっと気になる見出しがありました。

【中日】白井オーナー、獲得失敗の金子をチクリ「あの程度の選手」

これだけ読むと、白井オーナーが金子投手を指して「大したことのない選手」と評しているように見えます。でも、記事全文には、次のようにありました。

「自前であの程度の選手は育てるという意気込みを監督、コーチ陣は持っている」

これを読む限り、そこまで金子投手をこき下ろしている感はありません。
見出しの付け方一つで、事実はやや違った印象で伝わることがわかります。

そういえば以前、菅直人氏が自民党のある政治家二人を指して「利権顔」と言ったとして、話題になりました。二人の政治家は、菅直人をに対し、法的措置も辞さないと怒りましたが、元の発言は

「顔を見るからに、この利権だけは放さないという決意が表れている」

というもの。顔立ちそのものを指したものではありません。「利権顔」という言葉がマスコミによって広げられなければ、二人の政治家もそれほどまで怒らなかったことでしょう。

私たちの周囲に流通する情報の多くは、必ずといっても良いほど、第三者のフィルターがかかっています。そして、そのフィルターには、時に「演出」や「悪意」が混じっていることもあります。

膨大な情報の海に身をおく現代人は、そうした実情を念頭に置き、情報を過信しすぎない柔軟性を持つことが大切なのだと思います。
自民党が、300議席を超える勢いだとのこと。聞いた時は我が耳を疑ったが、どうやら本当らしい。私は自民党支持派でも、アンチ自民でもないが、それでもこの情勢には、いささか動揺してしまった。こんな冷めた空気の中で行われる選挙で、一政党が圧倒的な勝利を収めるなんてことがあったとしたら、なんだか非常に危ういのではないかと思ってしまう。

その昔、郵政民営化を焦点とした「小泉劇場」選挙では、明らかに世間が熱くなっていた。民営化反対派を「抵抗勢力」とメディアがこき下ろし、今までアンチ自民だった人までもが自民党に票を入れ、結果、自民党は歴史的圧勝を飾った。しかし、今回は違う。そんな争点もなければ、演出家もいない。なぜ、解散するの?という空気さえ漂う、どちらかといえば冷ややかな選挙戦である。これで自民が300議席を獲得するとなれば、何かがおかしいとしか、言いようがない。

その「何か」とは、ひも解けば選挙制度の問題なのだろう。事の始まりは、96年に導入された小選挙区制だったのかもしれない。世間では「一票の格差」が問題になっているが、「死票」が多く、現実の支持率と議席数に大きな乖離のある現行制度は、大きなリスクをはらんでいるように思う。大した支持を受けていない者が、あたかも全権委任されたかのように、指揮権を振るってしまう可能性がある。

もちろん、小選挙区制度自体は、そうした目論見をもって導入されたものではない。だが、今回の「自民圧勝」報道を見るにつけ、あるいは96年に導入されたがこの仕組みが、日本の歴史に大きな影を落としてしまいそうな予感すらしている。

そういえば、戦前にも似たようなことがあった。「226事件」の後、事件の首謀者が復活しないようにと定めた「軍部大臣現役武官制」は、結果的に軍部が政治を握り、日本を戦争へ駆り立てる片棒を担いだ。この時、首相だった広田弘毅は戦後、文官として唯一、絞首刑となっている。

小選挙区制を戦時下の施策になぞらえるのは、いくらなんでも恣意的だと反論されてしまうかもしれないが、軍部大臣現役武官制も、導入当初は多くの人が、後にそんなことになるとは思わなかった。その点では共通している。早急にこの仕組みに着手しなければ、日本はあらぬ方向に暴走してしまうのではないか。そんな危惧すら抱いてしまう。
ここ数日は少し収まった感があるが、文部科学省と財務省のバトルが話題になっていた。焦点は、小学校1年生の「学級定数」について。1学級「40人」を主張する財務省に対し、1学級「35人」の維持を譲らない文科省が、激しく論戦を交わしている。

小1の学級定員をめぐっては、平成23年に「40」から「35」に引き下げられた経緯がある。ちなみに、この数字は上限。例えば、1学年に小1が40人なら1クラス、41人なら2クラスとなる。先生の数も、それに応じて割り当てられる。

ちなみに、小学校の2年以上の学級定数は「40」。中学校も「40」。つまり、小1だけは、まだ幼い児童を40人見るのは厳しいだろうという配慮で、上限を「35」に引き下げたわけだ。

ところが、それを「元に戻す」と財務省が言ってきた。理由はなぜか。「35に下げたが、何ら効果が見えない」と表向きは言う。だが、本音は違う。要は「カネがない」のである。

小1の「40人学級」に無理があることは、ずっと以前から指摘されていたことだ。「小1プログラム」を持ち出すまでもなく、小1の教室を覗けば一目瞭然。ちょっと前まで、幼稚園で床をゴロゴロしていた子ども40人をきちんと机に座らせ、45分間話を聞かせることは、名人芸に近い。

だが、この理屈を持ちだして、「お金が必要だ」と言ってもラチは開かない。国の財布は一つ。そこから、生活福祉から介護、景気対策に至るまで、あらゆる事業にお金を出さねばならない。文科省がいくら「必要」と主張しても、他事業との公平・公正な比較は難しい。

むしろ、着目すべきは、GDPに占める教育公費の比率であろう。経済力・豊かさを一つの尺度として、国が「教育」という未来投資にどのくらいのお金を割いているかである。

一般の人には意外と知られていないが、日本はこれが極めて低い。先進国では、ほぼ最下位の地位に甘んじている。(日本は3.6%、平均は5.4%、最高はデンマークの7.6%。2010年調査)

一方で、家庭が負担する教育費はというと、先進国の中でも上位に位置する。極論を言えば、日本という国は、子どもの教育を「国」が担わず、「家庭」に任せようとしているわけである。

家庭には、経済格差があるので、当然、教育にお金をかけられる家と、そうでない家が出てくる。そして、経済格差は、いつしか教育格差、学力格差へとつながっていく。

日本の少子化が進む背景には、こうした事情、すなわち「子どもを産むとお金がかかるから…」「子どもに十分な教育を与えられなさそうだから…」という保護者の思いも、少なからずあるのではないだろうか。

文科省には、このへんの理屈も出しながら、財務省と戦ってほしい。