アーシュラ・K.ル=グウィン『帰還』 | 文学どうでしょう

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帰還―ゲド戦記〈4〉 (岩波少年文庫)/岩波書店

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アーシュラ・K.ル=グウィン(清水真砂子訳)『帰還』(岩波少年文庫)を読みました。「ゲド戦記」シリーズの第四巻にあたる作品。

少し古いファンタジー関連の本を見ると、「ゲド戦記」は三部作と書かれていることが多いです。それもそのはずで、1970年前後に相次いで三作が発表されたきり、続編が書かれていなかったからです。

「ゲド戦記」はこの三作で終わりなのだと多くの人が思っていた所、1990年に完結編として発表されたのが、この『帰還』でした。

原題は、"TEHARU―The Last Book of Earthsea"で、翻訳の単行本の副題にも「ゲド戦記 最後の書」とあります。実際には、2001年にさらなる続編『アースシーの風』が発表されたわけなのですが。

ちなみに、ぼくが初めて「ゲド戦記」を読んだきっかけが、『アースシーの風』が2003年に翻訳されたことでした。やはり当時結構話題になっていた記憶があります。もう10年も前のことなんですね。

昔は、大きくて分厚い単行本でしか読めなかった「ゲド戦記」も、ソフトカバー版が出て、現在は岩波少年文庫に収録されたので、より一層手に取りやすくなりました。みなさんもぜひ読んでみてください。

後に『アースシーの風』が出たので、実際には完結編ではなかったわけですが、『帰還』が完結編として書かれた理由はよく分かります。

三部作と言われる『影との戦い』『こわれた腕環』『さいはての島へ』はそれぞれ主人公も作品のテーマも違う独立した物語でしたね。『帰還』はその三作を受けて総決算として書かれたものなのです。

なので三部作はばらばらに読んでもある程度大丈夫ですが『帰還』だけは三部作を読んでいないと意味が分からない作品になっています。

そして、20年近く間が空いたことが影響しているのか、『帰還』は三部作とは、かなり作風が違う物語になっているんですね。架空の世界の物語というよりは、現実世界に限りなく近い雰囲気の作品です。

はっきり持ち込まれたのは”男性社会の中で女性はどう生きるべきか”というテーマ。特に女性から圧倒的な共感を呼んだ反面、今までの「ゲド戦記」との雰囲気の違いに戸惑う読者も多かったようです。

物語の中心となるのは、かつて魔法を学べる環境にいながらも、普通の女性として生きることを選んだ、中年女性のゴハ。子供たちがそれぞれ独立した後、夫を亡くし、農園で一人静かに暮らしていました。

そんなゴハが引き取ることになったのが、7歳ほどの少女テルーです。テルーは幼くして男性から性的な暴行を受け、火の中に投げ込まれてしまいました。顔には火傷の跡が残り、片眼はもう見えません。

かつての知り合いである大賢人ハイタカならなんとかしてくれるかも知れないと望みを託していましたが、再会することのできたハイタカは恐るべき旅の末に魔法の力をすべて失ってしまっていたのでした。

邪なものに対して余りにも無力な少女と、傷つき疲れ果てたかつての大魔法使いを守りながら、自分の生き方を模索していくゴハの物語。

この『帰還』は、内容的にもうどう考えても児童文学という感じではなくて、かなり生々しく、生きることの辛さが描かれた作品です。特にテルーの身に起こったことは、あまりにもひどい出来事ですよね。

しかしそれだけに心に響く場面が多い作品でもあり、人間が生きていくということについて、もう一度考えさせられるような作品でした。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 中谷で農園をやっていたヒウチイシが死んだあとも、残された女房は農園を離れなかった。息子はとうに船乗りになり、娘もヴァルマスの商人と結婚して家を出ていたから、かしの木農園には彼女がひとりになった。なんでもこのよし人の女房、生まれた土地では一目も二目も置かれていたとか。そういえば、大魔法使いのオジオンもかしの木農園にはきっと立ち寄っていた。しかし、それだけで、この女房が何か特別な人物だったということにはならない。オジオンが訪ねるのはほとんど名もない人ばかりだったのだから。
(13ページ)


静かな暮らしを送っていたゴハはある時知り合いのヒバリから村に呼ばれます。6、7歳の少女が大やけどを負ってしまったというので。ひどい目にあわされた後、火の中に投げ込まれてしまったようです。

自分に出来ることなら力を貸してやろうと、意識不明のまま眠っている少女を見たゴハでしたが、「オジオンでも治せないと思う」(19ページ)と呟き、少女を可愛そうに思ったヒバリは涙を流しました。

やがて傷をおった少女を引き取ったゴハは少女のことをカルガド語で「燃える、炎をあげて燃える」(45ページ)を意味するテルーと名付け、自分が幼い頃にオジオンから聞かされた不思議な話をします。

かつてゴント島の西の海岸からずっと北へと旅したオジオンは、キメイという村で誰も聞いたことのない歌を歌う、竜に姿を変えられるおばあさんに出会ったと。本当は竜なのか人なのかは、分かりません。

そのおばあさんの歌『天地創造』では、かつて竜と人は一つであったと歌われていました。翼を持ち、真のことばを話す種が、自由に生きたいと思う者は竜に、富や知識を求める者は人間に変わったのだと。

さらに、竜人の姿のまま西へ行った者たちもいると聞いたオジオン。

それ以来「西の果てのそのまた西に誰かいるとして、ならばわしらは何者か、わしらはどこに行けば、まるごと生きられるのか」(33ページ)考え続けていると、オジオンはかつて話してくれたのでした。

やがてゴハがテルーを連れて、病魔におかされているオジオンの元を訪ねると、テルーを見たオジオンから不思議なことを頼まれました。

オジオンは声をしぼりだすようにして言った。「あの子に何もかも教えてやってくれ! ――ロークではだめだ。みんな心配している。――なぜ、わしはおまえを行かせた? なぜ、おまえは行った? あの子をここへつれてくるためだ。だが、遅すぎたろうか?」(46ページ)


ロークは、権威ある魔法学院がある島のこと。では、テルーに教えてやってくれというのは、魔法のことなのでしょうか? しかし、それにしてはローク島の魔法学院では駄目だというのが腑に落ちません。

オジオンはその夜、自分の真の名アイハルをゴハに明かすと、そのまま息を引き取ってしまったのでした。やがて近くの町から駆けつけて来た魔法使いたちは、真の名を聞くことができなかったと嘆きます。

田舎女だと思って生意気な態度に「おい、女、力ある男にむかって、その言い方はなんだ!」(54ページ)と怒鳴りつけた魔法使いたちが、ゴハが伝えたオジオンの真の名を、聞き洩らしてしまう一幕も。

魔法使いたちが、ゴハを侮るのも無理はないことで、オジオンから信頼される女性がいるとは、思ってもみなかったのです。うさんくさいまじない師はいても、立派な女性の魔法使いなどいないのですから。

村の女まじない師たちは、たとえたくさんのまじないや魔法を知っていても、大切な歌のいくつかを知っていても、高度な技は習ったことがなく、魔法の原理を勉強することもないままきていた。女はすべてそうだった。魔法は男の仕事であり、男が身につける技であり、そもそも男によって、つくりだされたものだった。これまで女の大魔法使いはひとりも出ていない。自ら賢人と名のり、妖術師と名のる者もいないではなかったが、ただ力があるというだけで、技も知識もともなわないとあっては、それは軽はずみなことであり、危険でもあった。(64ページ)


ゴハは魔法使いではありませんが素質は持っていました。オジオンに育てられながら魔法の修業もしていたので、強い絆で結ばれていたのです。そんなオジオンには弟子が一人いました。大賢人のハイタカ。

やがて竜が傷を負ったそのハイタカを背に乗せて運んで来ました。しかし村のまじない師コケばばはハイタカを見るとこれはハイタカではないと言います。この人は大賢人どころかまじない師ですらないと。

ですが、かつてハイタカことゲドに助けられたことのあるゴハにはそれがゲドであると分かっていました。ゴハは死にかけているゲドを看病します。ゲドはどうやら魔法の力をすべて失っているようでした。

ゲドは神聖文字が甦り、空位が続いていたハブナーに新しい王が誕生するから、間もなく平和な日々がやって来るはずだと言います。しかしテルーを見た病床のゲドは思いがけないことを口にしたのでした。

「わたしにはわからない。」ゲドはさっきと同じ乾いた低い声で言った。「なぜ癒されないと知っていて、あなたはあの子をひきとったのか。なぜあの子の将来がわかっていて、あの子をひきとったのか。あの子はわたしたちが生きてきた時代の一部といっていいのかもしれない。暗い時代だったな。破滅の時代であり、終末へと向かう時代だった。あなたは、ちょうどわたしが自分の敵に会いにいったように、あの子をひきとったんじゃないかな。それしかできなかったから。わたしたちは新しい時代を、邪なものと戦って勝ちとった戦利品をたずさえて生きていくことになるんだろうね。あなたはあのやけどした子どもを連れ、わたしはまったく何ひとつ持たずに。」(130~131ページ)


テルーを傷つけながら、再び奪いに来た男たちから逃げる内にゴハは、新しい大賢人を誰にするかでローク島が揉めていると知ります。

そして、様式の長が、「ゴントの女」(248ページ)という予言の言葉を洩らし、新たな大賢人を見つけるための道しるべとなるであろうそのゴント島の女性を、ローク島の魔法使いが探していることも。

「強大な力や支配権、高度な技や旅、冒険」に背を向け、「結婚し、子どもを育て、作物をつくり、縫い物をし、洗濯をする」(181ページ)普通さを求めたゴハは、自分が守りたいものを守れるのか!?

とまあそんなお話です。魔法は強い力を持つからこそ、”均衡”を求めることが何より大事だという、ローク島の魔法学院の教えを、ある意味では越える、大切なことを、ゴハはゲドに教えることになります。

作風が大きく異なっているので、三部作と、完結編として書かれた『帰還』とで、作品の中で向いている方向が同じかどうか、違うとしたらそれがいいことなのかどうかで評価は割れる作品だと思います。

ぼくはやはり、三部作の方が好きですね。三部作は個人の心のあり方に目が向けられているのに対し、『帰還』では社会全体の問題に観点が移されている感じがあるので、共感出来る度合いがやや違います。

三部作の主人公たちのその後が描かれている作品なので、先に三部作を読んでいないと、よく分からない物語だろうと思います。興味を持った方は三部作を先に読んでから、この作品を読んでみてください。

ファンタジー特集はまだ続きます。明日も、アーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」で、『ドラゴンフライ』を紹介する予定です。