坂口安吾『不連続殺人事件』 | 文学どうでしょう

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坂口安吾『不連続殺人事件』(角川文庫)を読みました。

推理小説では、恨みを持った何者かによって誰かが殺されます。場合によっては何人もの人間が命を落とすこともあり、それは連続殺人事件と呼ばれます。

では、”不”連続殺人事件とは一体何なんでしょう? 一体どんな殺人事件なのでしょう? あるいは、ミステリの枠組みを逸脱した、いわゆる「アンチ・ミステリー」の作品なのでしょうか。

その答えを出す前に、坂口安吾について少しだけ。坂口安吾は、専門的な推理作家ではありません。

太宰治や織田作之助らと共に無頼派(新戯作派とも)に数えられる、どちらかと言えば純文学畑の作家なんです。以前、短編集『白痴』などを紹介しましたね。

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そんな坂口安吾は、推理小説も随分愛読していたようで、趣味が高じてついに書かれたのが、この『不連続殺人事件』。

雑誌連載時には、読者への挑戦状が付けられ、なんと懸賞金までかけられていたそうです。

では、純文学の作家が書いたこの『不連続殺人事件』が、既存の推理小説とは全く違った斬新なスタイルの作品かと言うと、これが実は意外と、オーソドックスな推理小説なんです。

なので、いわゆる「アンチ・ミステリー」の作品ではありません。

唯一、目新しさがあるとすれば、ある屋敷で起こったいくつかの殺人事件が、同一犯による連続殺人事件なのか否かが、一つのキーになること。

それから、推理作家が推理小説を書くのと、純文学の作家が推理小説を書くのとでは、自ずから目の付け所が違って来るのも、この作品の面白い所。

普通の推理小説だったら、いかに犯行が行われうるかという、トリックの部分に力点が置かれるわけですが、坂口安吾の場合は、人間の心理に着目しているのです。

それが一体どんな風な着目なのか、ぜひ注目してみてください。

連続(?)殺人事件の謎に挑む名探偵役は、弱冠29歳ながら、その人間観察の鋭さから仲間内で”博士”というあだ名を持つ巨勢博士。

この巨勢博士は、小説家を目指していて、10歳ほど年上の文学者たちと親しく交際していますが、人間の心理に詳しいが故にかえっていい小説が書けないでいます。

 我々文学者にとっては人間は不可決なもの、人間の心理の迷路は永遠に無限の錯雑に終るべきもので、だから文学も在りうるのだが、奴にとっては人間の心は常にハッキリ割り切られる。
「それくらい人間が分りながら、君は又、どうしてああも小説がヘタクソなんだろうな」と冷やかしてやると、
「アッハッハ。小説がヘタクソだから、犯罪が分かるんでさア」
 こいつはシャレや御謙遜ではないだろう。この言葉も亦真理を射抜いた卓説で、彼の人間観察は犯罪心理という低い線で停止して、その線から先の無限の迷路へさまようことがないように、組み立てられているらしい。そういうことが天才なのである。
 だから奴は文学は書けない。文学には人間観察の一定の限界線はないから、奴は探偵の天才だが、全然文学のオンチなのである。(28~29ページ)


人間の心理が杓子定規に割り切れるとする名探偵、人間の心理に永遠の謎を見る文学者の対比は、そのまま推理小説と純文学の関係とも重なるようで、とても興味深いですね。

作品のあらすじ


昭和22年6月の終わり。小説家の〈私〉は、友人の歌川一馬と小料理屋で会っていました。

一馬は芸術家仲間が集まるし、色々複雑な事情もあるから、歌川家の山荘で一夏過ごさないかと〈私〉を誘います。

妻の京子に相談すると行きたくないと言うので、結局〈私〉も行くのを止めました。

ところが、7月の頭になって一馬から「怖るべき犯罪が行われようとしている。多くの人々の血が。君と巨勢博士だけが頼みだ」(27ページ)という手紙が届いたのです。

三枚の切符も届けられ、事情も分からないまま、やむを得ず〈私〉と京子、少し遅れて巨勢博士は歌川家の山荘へと向かいました。

ところが着いてみると、一馬はそんな手紙を出した覚えはないと言うんですね。〈私〉と京子に宛てた手紙は確かに書いたのですが、誰かが内容を書き換えたようです。

何か恐ろしい事件が起こりそうであることを仄めかし、巨勢博士を呼んだのは、一体誰なのでしょう? また、何のために?

同じような手口で山荘に集められた男女は、過去に付き合ったり別れたりと、色々複雑な人間関係で結ばれた人たちばかり。

そのまま何事もなければよかったのですが、望月王仁という作家が、死体で発見されてしまいます。

 まさしく王仁は殺されていた。一糸もまとわぬ裸体であった。心臓を一突きにやられている。その短刀が彼のカラダをピンでとめているように、突きさしたままだ。不思議に、血が殆んど見られない。コイツ奴が人を殺さずに、人に殺されるなどとは嘘のような話で、まるで、現実の事件の中にいるような気がしなかった。誰が殺したって、こんな奴。私はまったく、小気味いいと思う心が強いだけで、あんまり何でもなく死んでいるので、かえって生きてるんじゃないか、何か、騙されてるように不安であった。
 海老塚医師は脈をとり、目蓋をひっくりかえしたりして、
「とっくに死んでます」
「自業自得さ」そういう言葉が自然に私の口をついて、出てきた。(48~49ページ)


仕事上もライバル関係にありましたし、元々品行のよくない王仁を〈私〉はあまりよく思っていなかったんですね。

やがて、どうやら王仁は睡眠薬を飲まされてから、刺されたらしいことが分かります。

県の本署から、殺人事件の捜査のために、どんな犯行も一目で勘ぐるという通称”カングリ警部”率いる、個性豊かな刑事たちが駆けつけました。

どんな手口でも嗅ぎ分けて犯人を見つけ出すという通称”八丁鼻”刑事、単純な事件も難しく解釈してしまう通称”読ミスギ”刑事、閃き型の婦人刑事通称”アタピン”。

しかし、刑事たちの捜査も空しく、今度は一馬の妹、珠緒が電気のコードで首を絞めて殺されるなど、次から次へと、殺人事件は起こっていってしまうのです。

みんなそれぞれアリバイがあり、全ての事件を行いうるような人はいません。

そこで〈私〉はいつしか、この連続殺人事件は、そう見えるだけで、実際は別々の殺人事件なのではないかと、そう思うようになりました。

〈私〉はその考えを巨勢博士に告げてみましたが・・・。

「ねえ、博士、このいくつかの事件は、犯人が別なんじゃないかな。歌川家の家族に関する事件と、千草さんや王仁や内海は、犯人が違っているんじゃないのか。時間的には連続していても、動機も犯人も別な事件が入りまじっていて、結局は不連続殺人事件じゃないのか」
「そうですね。この事件の性格は不連続殺人事件というべきかも知れません。私がこれを後世に記録して残すときには、不連続殺人事件と名づけるかも知れません。なぜなら、犯人自身がそこを狙っているからですよ。つまり、どの事件が犯人の意図であるか、それをゴマカスことに主点が置かれているからでさ。なぜなら犯人は真実の動機を見出されることが怖しいのですよ。動機が分ることによって、犯人が分るからです」
「じゃア、すべての事件が同一犯人の仕業なのかい」
 巨勢博士はニヤニヤしながら頷いた。(192~193ページ)


巨勢博士は、この山荘にこれだけわけありの男女が集められたということは、何者かの意志が働いていると見て間違いないと言うのです。

そして、犯人があえて繋がりのない連続殺人事件を行うことによって隠している犯行の動機さえ分かれば、事件の謎を解き明かすことが出来ると断言したのですが・・・。

はたして、巨勢博士はその動機をつかみ、犯人を捕まえることが出来るのか? 不連続殺人事件の真相とはいかに!?

とまあそんなお話です。あらすじの紹介ではざっくり省きましたが、実はこの小説は登場人物がかなり多く、しかも元夫婦や元愛人、元恋人と、かなり関係性は込み入っているんですね。

やはりそこはしっかり把握していないと楽しめないので、登場人物のメモをとったり、相関図を作りながら読み進めるとよいかも知れません。

純文学の作家がどんな推理小説を書いたのか、また、どんな風に人間の心理に着目された推理小説なのか、興味のある方は、ぜひ読んでみてください。

明日は、綿矢りさ『ひらいて』を紹介する予定です。