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坂口安吾『白痴』(新潮文庫)を読みました。
家庭がありながら、他の女への愛に溺れて生活を持ち崩していくのと、愛もなにもないまま、ただ女と肉体的な関係を持ち続けるのとでは、外から見ると同じように乱れた生活かもしれませんが、本質としてはやや異なるように思います。
結婚における「浮気の禁止」というルールは、いわば社会的なルールであって、理性の問題です。ルールを破らないために、自分自身の感情をコントロールすればいいわけですね。
カップルはお互いに浮気をしないのが一番いいですが、恋愛感情というのは社会的なルールよりも原始的な、いわば本能的なものですから、理性よりも強い力で我々の心を揺さぶります。
なので、実際に浮気という行為に及ぶかどうかはともかく、パートナー以外の人に心が揺れるということ自体は、感覚としてはわりと理解しやすいだろうと思います。
社会的なルールを破っているので、周りからは白い目で見られますが、むしろ自分の気持ちに素直に行動したと言えるくらいです。
そんな風に、相手への愛に溺れて生活を持ち崩すならまだ分かるんですが、坂口安吾の小説は、そうした愛に溺れる話とは全く違います。
次の文章は「私は海をだきしめていたい」の中の一節です。ちょっと読んでみてください。
女のからだは、美しいからだであった。腕も脚も、胸も腰も、痩せているようで肉づきの豊かな、そして肉づきの水々しくやわらかな、見あきない美しさがこもっていた。私の愛しているのは、ただその肉体だけだということを女は知っていた。
女は時々私の愛撫をうるさがったが、私はそんなことは顧慮しなかった。私は女の腕や脚をオモチャにしてその美しさをボンヤリ眺めていることが多かった。女もボンヤリしていたり、笑いだしたり、怒ったり、憎んだりした。(156ページ)
この女と〈私〉の関係は一体なんだろうとぼくはすごく不思議に思います。愛で結ばれているのではなく、ただ肉体的に結ばれているだけなんです。
しかし、その肉体的な繋がりは、決してゆきずりというような、刹那的なものではありません。強く、深く繋がっているにもかかわらず、気持ちとしてはてんでばらばらの所にあるんです。
特に、どこまでも相手を突き放したような、何事にも無感覚な〈私〉の感覚というのは、読者が理解や共感できるものでは全くなくて、カミュの『異邦人』におけるムルソーのように、読者とは全く断絶したものです。
異邦人 (新潮文庫)/新潮社
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そうした独特の感覚を持つ人物の視点から、物語が書かれているのが坂口安吾の特徴と言えます。
坂口安吾は、石川淳、太宰治、檀一雄らとともに「無頼派」と呼ばれる作家ですが、そうした点で他の作家とは少し違います。共感不可能な人物造形という点で、「無頼派」と呼ぶのに最もふさわしい作家なのではないかと思います。
今回改めて坂口安吾を読み直してみて、こんなにすごい作家だったのかと度肝を抜かれた感じがありました。まったくもってすごい作家ですよ。
男女関係における独特の感覚と同じように、作品の多くで描かれる戦争さえも、独特の感覚でとらえられています。
現在では戦争についてなにかを語る時、それを肯定的にとらえる意見というのは封殺されてしまっています。「戦争は素晴らしい」なんて、とても言えませんよね。
もちろん、ぼくも戦争が素晴らしいなんてことは思いませんけれど、戦争に対しての反省と戦時下の辛さだけが判で押したように語られてしまうわけで、それはそれで、あまりにも偏りすぎたもののように感じてしまうことがあります。
「戦争と一人の女」の中の一節を、ちょっと読んでみてください。〈私〉というのは、元々は女郎(遊女のようなもの)をしていた女です。
夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような深い調和を感じていた。
私は然し夜間爆撃の何が一番すばらしかったと訊かれると、正直のところは、被害の大きかったのが何より私の気に入っていたというのが本当の気持なのである。照空燈の矢の中にポッカリ浮いた鈍い銀色のB29も美しい。カチカチ光る高射砲、そして高射砲の音の中を泳いでくるB29の爆音。(177ページ)
空襲のすばらしさ、B29の美しさを語る文章というのは、珍しいのではないかと思います。これは決して戦争自体を讃美しているのではなくて、戦時下における状況を一人の女郎の目を通して鮮烈に描き出した作品です。
『白痴』に収録されている短編は、いずれもこうした独特の感覚を持つ人物によって語られる物語で、それは作者である坂口安吾の持つ感覚とも重なるのだろうと思いますが、独特のすごみというか、迫力とも言うべきものがあります。
作品のあらすじ
では、各編のあらすじ紹介を少しずつ。
『白痴』には、「いずこへ」「白痴」「母の上京」「外套と青空」「私は海をだきしめていたい」「戦争と一人の女」「青鬼の褌を洗う女」の全7編が収録されています。
「いずこへ」
〈私〉と関係ができて、毎日通って来るようになった女が、釜や鍋、食器などを持ち込むようになります。食堂に通えば食器はいらないと思っている〈私〉は「僕は釜だの鍋だの皿だの茶碗だの、そういうものと一緒にいるのが嫌いなんだ」(8ページ)と抗議しますが、女に押し切られてしまいました。女は元々夫がいた女で、夫が女の元へ訪ねて来たりします。〈私〉の女に対する胸中はやや複雑で、所有したくないし、所有されたくないと考えているんですが、それでいて女に無頓着ではなく、嫉妬を感じたりもしています。
女の従妹に「千人の男を知りたい」(25ページ)と思っている人妻アキがいます。十銭スタンドの女に誘いを断られた〈私〉は、アキを温泉旅館へ誘って・・・。
「白痴」
27歳の会社員、伊沢の家の隣には、突然演説を始めたり、物を蹴飛ばしたりする頭のおかしな男が住んでいて、その奥さんもあまり物事がはっきり分からない白痴のような女です。ある日、伊沢が自宅に帰ると部屋が片付いていて、「積み重ねた蒲団の横に白痴の女がかくれていた」(57ページ)んです。叱られて逃げて来たのかと思っていたら、どうやら伊沢のことが好きでやって来たらしいんですね。
伊沢は女を「まるで最も薄い一枚のガラスのように喜怒哀楽の微風にすら反響し、放心と怯えの皺の間へ人の意志を受け入れ通過させているだけ」(64ページ)で、自分のために造られた悲しい人形のようだと考えます。
そうして一緒に暮らしだした2人ですが、徐々に空襲は激しくなっていって・・・。
「母の上京」
夏川が自宅に帰ろうとすると、駅前で夏川を待っていたヒロシに、母親が来ていることを知らされます。敗戦後のどさくさに紛れて、故郷に住所を知らせていないのに、母親はなんとか調べたらしく、やって来てしまったんです。夏川の現在の生活はめちゃくちゃですから、母親に会わせる顔がないんです。そこで、なんとか会わずにすませようと思いますが・・・。売春婦の娘を持つ、お好み焼き屋の女主人とオカマのヒロシが、夏川をめぐって対立するのがどことなくおかしい、人情喜劇のような短編。
「外套と青空」
三文文士の落合太平は、碁を打つ所で生方庄吉と知り合いになり、やがて庄吉の家に招待されるようになります。庄吉の家には芸者あがりのキミ子という妻がいます。友達で集まって、麻雀をしたり碁をしたりして遊ぶんですが、集まっている男たちが、大平にきつく当たるんですね。どうやら、みんなキミ子に気があるらしい様子で・・・。
「私は海をだきしめていたい」
〈私〉は元々女郎をしていた女と暮らすようになります。女は浮気ばかりしているんですが、女郎をしていたせいか、肉体的喜びをほとんど感じないらしいんですね。〈私〉は女の浮気を気にしません。性的に感じない女の体を通して、心洗われるような、ある種屈折した喜びを感じている〈私〉。ある時〈私〉と女は温泉に行って・・・。
「戦争と一人の女」
激しい空襲の中、女郎をしていた〈私〉は、かつてのお客の野村と暮らしています。明日をも知れぬ命なので、2人の関係は燃え上がります。平常時ならば、野村はちゃんとしたお嫁さんをもらうはずなので、死が目前にあるからこそ一緒にいられる2人なんですね。
「私はあなたの思い通りの可愛いい女房になってあげるわ。私がどんな風なら、もっと可愛いいと思うのよ」
「そうだな。でも、マア、今までのままで、いいよ」
「でもよ。教えてちょうだいよ。あなたの理想の女はどんな風なのよ」
「ねえ、君」
野村はしばらくの後、笑いながら、言った。
「君が俺の最後の女なんだぜ。え、そうなんだ。こればっかりは、理窟ぬきで、目の前にさしせまっているのだからね」(190ページ)
やがて、戦争が終わり・・・。
「青鬼の褌を洗う女」
〈私〉の母親は元々妾をしていた人で、〈私〉も妾にしようと思って大切に育て、悪い虫がつかないか警戒しています。〈私〉は貞操をそれほど大切なものと思っていませんが、どこか冷めた所があって、愛に溺れるということがありません。後腐れがないように、出征する直前の男にだけ体を許したりします。
やがて、〈私〉は56歳の男の囲い物になります。「君は今後何人の恋人にめぐりあうか知れないが、私ぐらい君を可愛いがる男にめぐりあうことはないだろうな」(221ページ)と言って、心底愛してくれる男。
言いよって来る男は多く、浮気をしたりもする〈私〉ですが・・・。
とまあそんな7編が収録された短編集です。「白痴」がやはり代表的な作品になるかと思います。単に白痴の女との生活が描かれることに意味があるのではなくて、そこに戦争や死に対しての独特の考えが重なっていくのが、極めて印象的な作品です。
話として一番読みやすいのは、「青鬼の褌を洗う女」でしょう。性に奔放な女とそれを包み込むような男という構図は、男側(「私は海をだきしめていたい」)、女側(「戦争と一人の女」)の両方から何度もくり返し描かれています。
「母の上京」は短編の構造として非常によくできていて、話として面白い作品だと思います。登場する人物もユニークでいいですね。
この短編集で描かれる、男と女の愛というか肉欲というか、そうしたある種、極限状態の関係性はどれもすごいものばかりですが、中でも「外套と青空」と「戦争と一人の女」が特に印象深かったです。
坂口安吾は、あらすじでは紹介しきれない、すごみと迫力を持つ作家ですから、興味を持った方はぜひ読んでみてください。ちょっとすごい作家ですよ。
明日は、坂口安吾『堕落論』を紹介する予定です。