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火宅の人 (下) (新潮文庫)/新潮社
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檀一雄『火宅の人』(上下、新潮文庫)を読みました。
『火宅の人』が今、どんな風に読まれるのか、ぼくはそこにとても関心があります。
もしかしたら現在では、それほど知名度のある作品ではないかも知れないんですが、『火宅の人』というのは、作者である檀一雄自身、そしてその周囲の人々をモデルにした小説です。スタイルとしては一種の私小説にあたります。
主人公である〈私〉は、作者の檀一雄自身を思わせる桂一雄という作家です。この〈私〉がですね、妻も子供もいるのに、女優の卵の矢島恵子と浮気してしまうんです。浮気するだけではなく、自分の家を離れて恵子と同棲を始めてしまうんですね。
そうした内容の作品なので、やや特殊とも言える、次の2つの読み方がよくされます。まず第一に、暴露本というか、告白の小説であるという読み方です。小説にではなく、作者である檀一雄の方にスポットをあてた読み方と言えるでしょう。
檀一雄本人のことや、この『火宅の人』で描かれた出来事の当事者が当時のことを語った本というのが結構ありまして、中でも檀一雄の妻にインタビューをして、それを1人称に再構成した沢木耕太郎の『檀』が有名だろうと思います。
檀 (新潮文庫)/新潮社
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ぼくは沢木耕太郎の『深夜特急』のファンだったので、何を隠そう昔『火宅の人』を手に取ったきっかけがまさにこの『檀』だったんですが、それはまあともかく、「フィクションとしての『火宅の人』」と「実際の檀一雄の生活」の差異をテーマにした本が結構あるんですね。
それだけ檀一雄本人への関心が強いということでしょう。モデルがあって書かれた小説であるにせよ、小説にではなく、作者の実生活にこれだけ関心が寄せられるのはめずらしいことだと思います。
第二の読み方は、自分勝手に浮気をして、家庭を一切顧みない桂一雄(=檀一雄)を否定的にとらえる読み方です。自分が浮気をしたことを妻に話す場面を引用するので、ちょっと読んでみてください。
「ヨリ子」
「何でしょう?」
幾分硬わばった妻の顔がこちらを向いた。
「僕は恵さんと事をおこしたからね、それだけは云っておく・・・・・・」
(中略)
「駄目です。もう、いやいや。私、明日の朝、ハッキリとおいとまをいたします。今夜のうちにと思っていたんですけれど、あなたが遅いもんだから」
「よしなさい。そんな無茶なことは・・・・・・。僕はここの家を破壊する意志は毛頭ないんだ」
「ハッキリ破壊なさっているじゃございませんか?」
「事はおこしたが、力を竭してこの家の破滅は防ぐ」(上、72~73ページ)
随分勝手なことを言ってますよね。なにが「事はおこしたが、力を竭してこの家の破滅は防ぐ」だよと。開き直るにもほどがあって、とんでもなくひどいやつですよね。ぼくもそう思います。
ですが、そんな風に妻側や女性側に立ってこの小説を読むと、主人公は単なるひどいやつで終わってしまいます。そういう観点から読むことももちろん可能ではあるんですが、それは読み方としては、少しもったいない感じがします。
暴露本や告白本としてではなく、また、家庭を壊した浮気男の小説として批判的に読むのでもない読み方もできます。ぼくはこれが一番ストレートな読み方なのではないかと思いますが、桂一雄(=檀一雄)の気持ちに寄り添う読み方です。
実際に関係を結ぶかどうかは置いておくとすると、恵子に惹かれてしまう気持ちはある意味ではどうしようもないわけで、桂一雄(=檀一雄)の行動を必ずしも肯定する必要はありませんが、そうした気持ちの揺れをどうしようもないと思えるかどうかで、この小説の読み方は大きく変わってきます。
タイトルの「火宅」というのは、読んで字のごとく燃えさかる家のことですけれど、燃えさかっている家の中にいるのに、そのことに気がつかない状態をさします。
元々は仏教用語なので、煩悩に苦しまざるをえない現世のことを表しているんですが、この「火宅」を桂一雄(=檀一雄)に重ねると、燃えさかる家にいてもそこから出ることのできない、自分でもどうしようもない状況というものが感じられるかと思います。
『火宅の人』はたしかに家庭を顧みない放蕩の物語ではあるんですが、同時に、揺れ続ける心、迷い続ける姿が描かれた小説でもあるんです。妻ではなく、若い女性である恵子に心は揺れ、家庭を捨てて恵子と暮らしだしたら暮らしだしたで、今度は恵子への嫉妬に苦しめられます。
別れようにも、どうにも別れられない、肉欲と恋情の入り混じるその気持ちがとても丁寧に描かれていて、小説として非常に面白いものになっていると思います。『火宅の人』は、単純に読んでいて面白い小説なんです。
どんな読み方をするかは、ある程度読者の自由ですけれど、できることならこの小説を楽しみながら読んでもらいたいと、そんな風にぼくは思います。
檀一雄は、織田作之助、太宰治、坂口安吾らとともに無頼派や新戯作派などと呼ばれた作家の1人ですが、作品から感じられる豪放磊落さとナイーヴさを同時に兼ね備えたそのキャラクターは非常に魅力的です。当時の文士の生活も垣間見ることができますよ。
作品のあらすじ
こんな書き出しで始まります。
「第三のコース、桂次郎君。あ、飛び込みました、飛び込みました」
これは私が庭先をよぎりながら、次郎の病室の前を通る度に、その窓からのぞきこんで、必ず大声でわめく、たった一つの、私の、次郎に対する挨拶なのである。(上、5ページ)
次郎は日本脳炎の後遺症でずっと寝たきりの状態です。そんな次郎が、このかけ声をかけると「クッキリとした喜悦の色を波立たせて、「ククーン」と世にも不思議な笑い声をあげる」(上、5ページ)んですね。
〈私〉には子供が5人います。長男の一郎は亡くなった先妻との子供で、現在の妻ヨリ子との子供が次男の次郎、三男の弥太、長女のフミ子、次女のサト子です。ヨリ子は結婚して間もなく戦争で夫を亡くし、〈私〉とお見合いで再婚しました。
〈私〉がたまに家に帰ると、子供たちは「ほーら、チチ帰ってるよ。チチー」(上、77ページ)と喜び、「もう、チチ、どっこも行く?」(上、92ページ)と聞きます。
妻のヨリ子とは恋愛結婚ではなく、お見合いだからということもあるかもしれませんが、少し心の距離がある感じです。やがて〈私〉は、矢島恵子という昔からの知り合いの女性に強く惹かれていくようになります。
〈私〉が35歳の時に17歳の文学少女として出会った恵子。それから仕事を世話をしたり、女優になりたいというので、そうした道へ斡旋してやったりしました。この時からどうやら恵子のことが気になってはいたようですが、年齢差を気にして自分の気持ちを押し殺します。
それから10年が経ち、〈私〉は45歳になっています。「太宰が四十。安吾が五十」(上、63ページ)と親しい友人の亡くなった年を考え、今さら恋愛にうつつを抜かす年ではないと自戒します。
しかし、ひょんなことから恵子と関係ができてしまうんですね。そこにいたるまでもスリリングというか、緊張感があってなかなか面白いので、これはぜひ本編にて。
当然、ヨリ子と揉めることになりますが、結局「今後あなたを子供達のお父様としてはお迎えしますが、夫としては迎えません」(上、92ページ)ということで落ち着きます。
〈私〉は家を離れて恵子と暮らし始めます。それは肉体的にも精神的にも喜びに満ちあふれた暮らしではありますが、先の見えない暮らしでもあります。恵子は日陰者の自分に憂鬱を感じて、時おり「いやだな」(上、100ページ)とため息をつくようになります。
〈私〉は締切に追われて、膨大な量の原稿を書き、恵子は女優として花開くことを夢見て努力を続けます。時おりケンカをしながらも、仲むつまじく暮らしていく2人。恵子は時々九州の方言で話すんですが、その話し方にはユーモラスかつどことなくセクシーな魅力があります。
やがて長男の一郎が、色んな問題を起こすようになります。ちょっとぐれてしまった感じです。そうした子供たちの問題に振り回されたりもします。
〈私〉は恵子を置いて、ニューヨーク、ロンドン、パリなどをまわる欧州旅行に出かけます。その直前にいやな噂を耳にしてしまうんですね。恵子がかつてある人物の愛人だったという噂。嫉妬に身を焦がす〈私〉は、外国で出会った日本人女性たちと奔放な生活をくり広げることとなり・・・。
とまあそんなお話です。〈私〉と恵子の関係以外に面白く感じたことがいくつかありました。まず、〈私〉はすごく料理に凝るんです。
「幼年の日に母が出奔して、自分の喰物は自分で見つくろわねばならない長年の習慣」(上、166ページ)があるからだと書かれていますが、自分で料理を作ることへのこだわりが色んな所で出ていたのが印象的でした。
あとは執筆している小説に関してですが、何本もの連載を抱えているので、歴史もので、死んだはずの登場人物を間違って出してしまったんです。明らかに作者のミスなんですが、それを強引にごまかす所が笑えました。檀一雄の書いた歴史小説なども、その内読んでみたいですね。
『火宅の人』はそれぞれの人物がいきいきと描かれていて、いわゆる愛人にあたる恵子が魅力的であるのは言うまでもないことですが、〈私〉である桂一雄もとても魅力のある人物です。
無頼というほど、でたらめでも乱暴でもなく、むしろナイーヴさが際立つ人物なんですが、そうかと言って、悩み苦しんでいるだけのじめじめした人物でもなく、小さなことにこだわらない豪快な所もあります。そのバランスがいいんですね。浮気などの行動はともかく、好感の持てる人物だと思います。
『火宅の人』はユーモラスさと深刻さがほどよい感じで含まれていて、読んでいてとても面白い小説です。興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
明日は、坂口安吾『白痴』を紹介する予定です。